GLAMOROUS






 久方ぶりに訪れたその碁会所では、ヒカルがいつも見知っているメンバーに加えて、あまり見られない顔もぞろりと端から端まで揃っていた。
「いやあ、いらっしゃい、塔矢プロ!」
 マスターの言葉に、思わず俺は? とツッコミを入れたくなる。
 ヒカルはアキラの周りに出来た人垣に跳ね飛ばされるように、遠巻きにアキラを囲む興奮した面々を見るハメになった。
 だから連れてきたくなかったのに。
 ひっそりと呟いても、誰もヒカルに見向きもしない。
 一人で訪れる時は期待のプロだと持て囃すくせに、アキラ相手だとこうも態度が違うものか。
 ヒカルがアキラを連れてきたのは、院生時代から何度も足を運んだ碁会所だった。マスターやタクシードライバーの河合を始め、ヒカル顔馴染みの面々は、プロになる前からヒカルを可愛がり、プロになってからもまたヒカルの活躍を我が子のように応援してくれた人たちばかりである。
 それがどうだ、塔矢プロに会いたいとせっつかれ、渋々アキラを連れてくることを承諾すると、アキラ見たさにここまで人数が揃う碁会所だったとは。アキラに群がる状況だけなら、あかりの高校の女子囲碁部員となんら変わりない。
 違うのは、ヒカルの嫉妬の矛先ぐらいだろうか。
 アキラはやんわりと彼らの熱いファンコールを受け止め、余所行きの笑顔でプロ棋士としての対応をしっかりこなしている。サインなんか求められても動揺した様子はない。
(俺、サインなんて書いたことねーぞ)
 今度無理やり自分のサインを置いていってやろうか。その前に、少し字の練習をしたほうがいいだろうか……
 そんな不貞腐れたヒカルの前で、我も我もとアキラに指導碁を迫るオヤジたちをぼんやり眺め、とうとうヒカルは傍観を決め込むことにした。
 アキラは大人の扱いが上手いから、自分が間に入らなくても問題ないだろう。
 そんなことを考えて、先ほど加賀と会った時の会話を思い出す。
 ――ストイック。
(いーや、アイツは絶対外面がいいだけだ)
 だって、オヤジ共に囲まれたアキラに貼り付いている笑顔は、ヒカルの知っている笑顔とは種類が違う。仕事用の笑顔。当たり障りのない、穏やかで、人に警戒心を与えない顔。仕事とプライベートをこうしてきっちり分けられるアキラは、やはりプロなのだと思う。
 これはまだヒカルにはできない芸当だった。幼い頃から父についてたくさんのプロ棋士と接してきたアキラと差があるのは、仕方のないことだろう。しかしそれを差し引いても尚、納得できない何かがある。
 話の折り合いがついたらしく、複数人ずつ順番に指導碁を打ってもらうことになったようだ。人だかりは絶えない。ヒカルははっと短くため息をついて、適当な椅子に腰掛けてその様子を眺めていた。
「ほら、飲みな」
 つっけんどんにヒカルの前にコーヒーを置いた受付の女性は、この碁会所の母のような存在だ。ヒカルはありがと、と礼を言い、自分用にサービスされているふたつのミルクを遠慮なく入れる。
「まあなんだろうね、いい大人がはしゃいでみっともないったら」
 彼女が呆れたように呟いた言葉に、ヒカルはそうだそうだと強く頷いた。
「俺の時はあんな大歓迎しないくせに。塔矢だからって贔屓だぜ」
「それは格が違うんだから仕方ないだろ」
 あっさり自分の存在を切り捨てられ、ヒカルはがくりと首を落とす。
「確かに普通の子とはちょっと違う雰囲気だけどね。だからって、あんなにぎゃあぎゃあ囲んで情けない。囲まれてるあの子のほうがよっぽど大人の顔してるよ」
 ため息混じりにそんなことを言い残して、彼女はお盆をふりふりヒカルから去っていった。
 改めて輪の中のアキラに目をやると、実に冷静に指導碁を打っている。
 こうして客観的に見たアキラは、他の誰よりキレイな存在だった。
 整った顔立ちにさらさらの黒髪。涼しげな白いシャツにはきっちりアイロンがかかっていて、皺も歪みもない。滑やかなアキラの肌と同じで、穢れのない象徴のように見えた。
「ストイック、ね……」
 ヒカルは無意識に呟いていた。
 ――お前みたいにガツガツしてねえって言ってんだ。
(悪いか、ガツガツして)
 自分をこんなにしたのは、あそこで天使みたいな顔しているあの男だ。
 アキラが悪い。アキラの想いはいつも強烈で、こちらが求めたらそれ以上のものを常に求め返してくる。罪も道徳もまるで知らない言葉だと言わんばかりに。
 そのくせ、普段は奥に棲まう獣を隠して、今みたいににこやかに愛想笑いなんてしているのだ。
 一生懸命自分の手で積み上げた砂山を、ふいに崩したくなる時と似ているだろうか。ヒカルは、少し凶暴な気分になっていた。
 眠る獣を起こしたいような、そんな危うい気持ちがひょっこり顔を出しそうになる。
 寝ても覚めても性のことを考えていたっておかしくない年頃だ。盛りがついて何が悪い、とヒカルは開き直ろうとしていた。
 なんだか、今日はもう対局という気分ではない。棋符のことも、今伝えなくたって構わない。
 すました顔をしている男の化けの皮を剥がしたい、そんな欲望がむくむく頭を擡げる。
 ――早く終わらないかな、指導碁。
 ヒカルは渇いた口唇をぺろ、と舐める。




「いやいや、今日は本当にありがとうございました!」
「いいえ、皆さん筋が良くてボクも楽しかったです」
 先ほどからこんなやりとりが十分以上も続き、ヒカルはすっかり辟易していた。
 帰ろうとしているヒカルとアキラを、いや、正確にはアキラを、お礼の言葉を告げるという手口で引き留めるものだから、アキラも無碍にできずその都度丁寧に挨拶を返す。ヒカルは大袈裟に肩が凝ったような仕草を見せて、わざとらしいため息をついた。
 そんなヒカルを目敏く見つけた河合が、いつものようにヒカルの頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「いって! 河合さん、やめろって!」
「おめーもちったあ塔矢プロを見習えっ! お前と同じ年たあ思えねえぜ」
「同じ年じゃねえよ、俺十七歳、こいつ十六歳、俺のほうがお兄さん!」
「かーっ! ますます情けねえ!」
 周囲も笑い声で同意しているようで、ヒカルは苦々しく口唇を噛んだ。
 マスターが笑いながら、それにしてもと感嘆のため息を漏らす。
「本当に大人びてらっしゃる。言葉遣いは我々よりしっかりしてるし、しゃきっと背筋が伸びて見ていて非常に気持ちがいい」
 そうそう、と常連客が相槌を打ち始めた。
「指導碁は丁寧だし、教え方がまた的確で分かりやすい」
「笑顔が爽やかでねえ、こんな孫がいりゃあ人生変わっただろうねえ」
「穏やかなのに碁石をもったら雰囲気がぴしって引き締まるんだよ。プロの気迫ってやつかね。まだ若いのに大したもんだ」
 口々にアキラを賞賛した後、口を揃えて言う言葉が
「進藤くんとは大違い!」
 ……であるからたまったものではない。
「なんだよ、みんなして。俺とどこが違うってんだよ」
「何もかもだよ。同じ人間とは思えねぇ」
「河合さん!」
 人々は笑うばかりで、誰一人否定しないのが哀しい。
 ヒカルは口唇を尖らせて子供っぽさを助長させ、もう帰るぞとアキラの腕を引っ張った。
「進藤の面倒見るのも大変だと思うけど、頑張ってくれや」
「河合さんはもう黙っててよっ!」
 アキラの背中を強引に押して、ヒカルは無理やり碁会所を後にしようとした。ドアを潜る寸前、マスターがアキラに声をかける。
「是非またいらしてください。今度は進藤くんとのプロ同士の対局を見せてくださいよ」
「ええ、ボクからも是非お願いしたいです」
 アキラは優雅に頭を下げて、飽くまでにこやかに碁会所を出た。その後ろでアキラをぐいぐい押すヒカルの顔はすっかりむくれていたが。
 肩を怒らせながらずんずん歩くヒカルの横を、苦笑しながらアキラが歩幅を合わせてついてくる。
「全く、あのオヤジども冗談じゃねえ」
「楽しかったよ。キミとやれなかったのは残念だったけど」
「俺が一人で行く時はさ、進藤くん進藤くんってうるさいくせに。塔矢が来た途端、俺超いじられキャラじゃんよ」
「キミは愛されてるなあ、って思ったよ」
 そう言って微笑むアキラの目には、先ほどにはない特別な優しさがこもっていたが、ヒカルにはまだまだ不満だった。
 ――こいつ、まだ余所行きの顔を捨てきれてねぇな。
 そんなのは当たり前なのだ、人通りも少なくない繁華街で、そうそう二人っきりの時のような無防備に甘い表情を出すはずがない。
「この後どうしようか? ボクの家で一局打つかい?」
 アキラは空を見上げながらヒカルに誘いかけた。
 ビルの隙間から覗く夕焼けは、もうすぐここが夜の街に変わることを警告している。ヒカルはああ、と頷きかけて、はたと気づく。
「お前ん家、今先生たち帰ってきてなかったっけ?」
「ああ、両親は揃ってるけど。夕食でも一緒にどうだ?」
 素敵な申し出だが、今のヒカルにはそれは受け入れられない提案だった。
 アキラの中の獣が見たいのだ。未だ崩れないこの柔らかい穢れない目が、ヒカルの前で雄に変わる様が見たいのだ。
 いつからこんなに悪いことを期待するようになっていたんだろう。初めてセックスした時から? ――いや、きっと初めてキスした時から。
 じっとアキラを見つめて何も言わないヒカルを、アキラは不思議そうに首を傾げて見つめ返した。さらりと揺れる髪の艶めきは潔癖そのもので、なんだか無性にぐしゃぐしゃにしてやりたくなる。
「……なあ、ちょっと遊ばねえ?」
「え?」
 ヒカルの突然の誘いは、アキラの耳にはよく馴染まなかったらしい。よく分からない、というような顔をしたアキラに、ヒカルはにやっと笑いかけて、その腕を引いて小走りに駆け出した。
「遊ぼうぜ。よく考えたら、俺ら打ってばっかりであんまり遊んだことねーじゃん」
「あ、遊ぶって、何をするんだ?」
「この辺りで遊ぶったら、そうだなあ……」
 考えそぶりをしながら、ヒカルはある程度のコースを頭に描いていた。
 どうせなら、あまりアキラに似合わない遊びのほうがいい。
「ゲーセン行こう、ゲーセン」
「げーせん?」
 アキラの反応にヒカルは吹きだしながら、夜の迫る街へと目覚める前の獣を連れて行く。
 もうすぐネオンが煌けば、淡い気持ちもぴかぴか原色に輝くだろう。小金を使ってお手軽なスリルを楽しみ、ジャンクフードを食べて身体に悪いものを流し込もう。
 悪いことしよう。汚れた大人に憧れる時もある。
 だってまだ子供だから。






あの碁会所の受付のオバサンは何て名前なんだろう……
今回のヒカルは誘い受けです。
なりふり構わない若を見て、上になるのは諦めたらしい。