「じゃーん」 ヒカルが満面の笑みを浮かべてアキラの前に差し出したもの。 アキラは目を丸くして、「それ」とヒカルの顔を交互に見比べた。 そして少しの間を経て、アキラははああと大きなため息をつく。 「なんだよそれ〜」 「……今までの謎が一気に解けたよ。同時に自分が馬鹿馬鹿しくなって」 「それは元々じゃん」 「……進藤」 ヒカルが手にしていたもの、それは取ったばかりの運転免許証だった。 真新しいその四角いカードには緑のラインが引かれ、きょとんとした表情のヒカルの写真が貼られている。取得日付は十一月十日。 「最近コソコソしてると思ったら、こういう訳だったのか。……一言くらいボクに教えてくれてもいいんじゃないのか?」 「驚かせようと思ったんだよ」 「充分驚いたよ。落ち着きのないキミがよく取れたなって」 「お前ほんっと一言多いよな」 ヒカルはグラスに入ったアイスカフェラテをストローで啜りつつ、アキラを睨んだ。アキラも手元のホットミルクティーを意味なくかき混ぜながら、再びはあとため息をつく。 「キミの誕生日以来、キミはあからさまにボクを避けてただろう? ボクはキミがまた何か迷ってるのかって、それどころか浮気でもしてるんじゃないかって本気で悩んだんだ。今日だってこの喫茶店に呼び出されて、内心何を告げられるのかドキドキしてたんだから」 ヒカルがカフェラテを器用に喉に詰まらせて咽る。 真顔でそんなことをのたまうアキラは大真面目である。 「あのなあ……俺って全然信用されてないわけ?」 「そうじゃないけど、……でも心配になるだろう」 じっとり上目遣いで睨んだアキラの、切れ長の目の中央で宝石みたいな黒い瞳が微かに光る。 確かに、ヒカルの今までの「前科」を思うとアキラの心配はごもっともだろう。だからと言って、浮気を疑うのは酷いんじゃないか、なんてヒカルは内心面白くないのだが…… 無言の圧力にヒカルは降参し、素直に頭を下げた。 「もー、悪かったよ。ホント。ゴメンナサイ」 あまり心がこもっているとはいえない謝罪だが、それでもアキラの機嫌を直すには充分だったらしい。 ようやく笑顔に戻ったアキラが、それにしても、と言葉を続けた。 「それ本物だよね?」 「……当たり前だろ!」 ヒカルから免許証を受けとって、アキラはまじまじと見つめた。 「教習所に通うの大変だっただろう?」 「まあね。休日はびっちり入れて、手合いの後も夜間講習とかで通ったんだぜ」 「おめでとう」 アキラの手から免許証を返してもらいながら、ヒカルは照れ笑いを見せた。 そんなヒカルに、アキラは少し眉を寄せて苦笑する。 ――全く、人の気も知らないで。 ヒカルが何か隠し事をしているのは分かっていた。あまりに隠し方が分かりやすすぎたためだ。 まさしく二ヶ月近く前から、突然会う回数が激減した。それも不自然な理由ばかりで、じーちゃんが打ちに来いって言ってるから今日はダメ、とか、母さんに買い物頼まれたから今日もダメ、とか、アキラが脱力するようなあからさまな嘘ばかり。 避けられるようなことをした覚えもなく、唐突なヒカルの態度にすっかりアキラは困惑していた。 まさか、また何か思い悩むようなことでもあったのだろうか。 自分と会うのを避けて、一人の時間を作らなければならないような何かが? それでも毎日のメールは欠かすことなく送ってくれていたし、棋院で会った時も普段通りなのでまだアキラの胸には希望が残っていたが、夜に電話しても大抵は留守番電話のメッセージになっていて、疑心暗鬼は募るばかりだった。 ヒカルを信じたい。避けているのが本当だとしても、他愛のない理由だと思いたい。でも、こんなに長い期間、特に理由も思い当たらず距離を置かれているのは初めてだ―― 幸いにもアキラもヒカルと別行動を取りたい理由があり、またその準備で浮かれていたから心底落ち込みはしなかったものの。 悶々とした日々は長く続き、いよいよ我満できなくなってきた頃に、ヒカルから話があると呼び出されたのである。思わずアキラが構えてしまうのも無理はない。 「でも、本当によかった。もしキミに別れ話をされたらどうしようかと思った」 「あのな、いいか、話の例えだぞ、本気にするなよ。もし、万が一俺がお前に別れ話をするようなことがあったとしても、……話の例えだって! ともかく、こんな場所では絶対しない。お前、場所も考えないで騒ぎまくるじゃん。」 「……確かにね」 場所がどこだって、人目も気にせずに、その場に立ち上がって泣くわ怒鳴るわ大騒ぎしかねないだろう。もしくは、声も出ないほど消沈するかだ。アキラは自分のそんな姿を想像し、そんな未来が来ませんようにと祈りを込めた。 「で、車は? 買ったの?」 「うん、来週納車。」 「もう?」 「へへ、早く欲しくてさ。それでお前の来週の予定聞こうと思って。……一番に乗せてやるよ」 ちらっとアキラを見上げたヒカルの悪戯っぽい目に、アキラの頬がさっと朱に染まる。 なんだか、燻っていた心のモヤモヤがすっかり飛んでしまった。アキラは全快の笑みでスケジュール張を取り出し、うきうきと予定を確認する。 「あ、じゃあ寄って欲しいところがある。ついでって訳じゃないけど、……ボクもキミに少し隠し事をしてたから」 「え?」 「見せたいものがあるんだ」 そう言ってミルクティーを一口含み、涼しげに笑うアキラの思惑はヒカルには読めない。 ヒカルは「?」を繰り返しつつ、何か企んでいるようなアキラの表情に不安を隠せなかった。 *** 「……寿命が五十年くらい縮んだ」 車がすっかり停止して、最初に漏れたアキラの言葉はソレだった。 「なんだよ〜、それじゃお前老い先超短いじゃん」 しれっと答えるヒカルを助手席から睨み、アキラは乱れた髪を手で梳いて整える。 「キミ、特訓が必要だよ。危ないからしばらく車の多い道は走るな」 「失礼だなお前、ちょっと危なかっただけだろ」 「ちょっとじゃないっ!」 ボリュームが一気に上がったアキラの怒鳴り声に、ヒカルは耳を塞いだ。顔がまるで般若だ――口には出せないけど。 「前方不注意で対向車と擦りそうになったし、もう少しで赤信号に突っ込みそうになったし、一方通行の道路を逆走しかかったし、左右の確認が甘くて歩行者を轢きそうになった時もあったぞ! ホントによく免許とれたな!? 大体なんで今時マニュアル車なんて買うんだ、キミならオートマだって無事に運転できるか怪しい!」 マシンガンのように息継ぎなくまくしたてるアキラ。ヒカルはこれ以上何か言っても怒りを助長させるだけだと悟った。 黙ってアキラの説教を受け続けること数分、ようやく息切れしたアキラを見て内心ほっとする。 「……ともかく! キミはボクが合格点を出すまで、ボク以外の誰も乗せるな」 「ええ〜、なんでだよ」 「なんでもだ! ……人は恐怖から生還した時に恋愛感情が生まれやすいと聞く」 「へ?」 「それに、万が一事故が起こってボク以外の人間と心中なんてされても困る」 どこかずれたアキラの心配に、こいつはやっぱりバカだとヒカルは心底思った。同時におかしくなる。 「ハイハイ、しばらくお前以外の誰も乗せません」 「約束だぞ。ボクだってキミの隣に乗るときは覚悟を決める」 「お前どこまで失礼なんだよ」 ヒカルはエンジンを止め、車を降りた。 いわゆる住宅街。棋院からそれほど離れてはいない。 人通りはあまりなく、道路に横付けした車から降りてそのまま見上げた前方の景色には、立派な高層マンションがそびえている。 ヒカルに次いで助手席から降りたアキラは、外の空気を心地よく吸い込みながら、ヒカルの隣までやってきた。 ヒカルはきょとんと辺りを見渡し、めぼしいものがやはりそのマンションだけだと分かってアキラを不審気に見る。 この場所につれてくるよう指定したのはアキラだった。 「……ここ、何? 何かあんの?」 ヒカルの問いに、アキラは穏やかに笑った。 「ボクの家」 「……え?」 「だから、ボクの家。……正確には来月から」 ヒカルはアキラの言葉を反芻した。よく噛み砕いて、言っていることを理解すると、 「えええ!?」 自然と出たのは驚きの声のみだった。 アキラは静かに笑ってマンションを見上げる。 「ここの八階。十八になったら、家を出るって決めてたんだ。随分前から両親を説得していた。キミに内緒で場所を探してたんだよ」 「……マジ?」 「マジ」 ヒカルの口調を真似たアキラの口唇は柔らかく微笑んでいたが、目だけは真剣にヒカルを見ていた。ヒカルはその視線に息を呑む。 アキラの言わんとすることはそれだけで伝わっていた。同時に、ヒカルの気持ちもアキラに通じているのだろう。 「……広さは?」 「2LDK」 一人で住むにはやや手に余るだろう。何度も遊びに行ったアキラの部屋には常に無駄なものがないのだから。 ヒカルはマンションの八階辺りを見上げる。ひとつ灯りのついていない部屋が見える。……あの場所だろうか。夢でも見てるみたいな気持ちは否めない。 「……はは、まいったな。お前の秘密のほうがよっぽどでけーや」 「そうでもないよ。ボクも相当驚いた」 ヒカルは乾いた言葉で場をごまかす。 アキラの目は雄弁だった。 ――分かってるよ、塔矢。 本当はアキラはこう言いたかったはずだった。……一緒に暮らそう、と。 敢えてそれを言わないのは、今のヒカルがそれを断ることを理解してくれていたからなのだろう。 ――ごめんな、いつも待たせて。 でも、まだだ。俺はまだその道を掴んでいない。……そして、お前も―― ヒカルは目を細める。アキラも優しく微笑み、それ以上何も言わなかった。 「……さ、これでボクの秘密は終わり。どこか食事でも行こうか?」 アキラは軽やかに身を翻し、助手席へと戻っていく。ヒカルはそんなアキラの背中を少し見つめて、口の中で小さく「ゴメン」と囁いた。 ――俺の気持ちがしっかり目指す明日を見つけられたら。 大切な思い出を分け合えると、穏やかな気持ちでお前と二人、その日を迎えられたら。 その時はきっと、首を縦に振るから。 ヒカルは運転席に戻り、もう一度アキラを見る。振り向いたアキラの静かな表情は、それだけでヒカルを安心させた。 こんな時、アキラは限りなく優しい。 いつも待たせてばかりなのに、文句を言わずいつまでも待っていてくれる。 (でも、もうすぐだ) もうすぐ俺の道が見えてきそうなんだ。 だからお前も迷わないで。 ヒカルは笑顔でアキラに応えてみせた。アキラも満足げな表情で、シートベルトに手をかける。 その穏やかな空気は、ヒカルの運転が再開したことによって一変した。 「全く! あれほど左右をしっかり確認しろって言ったのに!」 「見たじゃんちゃんと、右見て左見た後に右から車来るなんて反則だぜ」 「また右を見ろ! 新車なんだぞ、あと少しブレーキが遅かったら納車二日目でいきなり廃車だ! ボクの寿命がまた十年縮んだぞ!」 「はは、お前もう永くないな」 「……キミにはお仕置きが必要だな」 「こら……ん……」 助手席から身を乗り出したアキラが、ヒカルの減らない口を塞ぐ。 合わせた口唇の隙間から差し込まれた舌が、柔らかく広い面積でヒカルの口内をまさぐっていく。 ヒカルの左手がアキラの肩を掴んだ。 夜の公園では街頭が寂れたベンチを照らしている。手入れされていない伸び放題のプラタナスの木の下、停められた車はサイドブレーキが引かれていたが、エンジンはかかったままだった。 耳を澄ませば灯りに群がる虫の羽音さえ聞こえてきそうだった。 月は雲に隠れ、空は限りなく黒い。 アキラの舌が尖り、その先でヒカルの舌を誘うように突付く。ヒカルもだらりと貪られるままだった舌をアキラの口唇の間に差し込み、歯列をそっとなぞる。 さっきアキラが食べていたトマトパスタの味がする。 ヒカルはキスをしたままくつくつと笑った。アキラはいったん口唇を離し、ちゅっと音を立てて笑うヒカルの口唇を吸う。 「……何か可笑しい?」 「別に」 小さなキスを何度も繰り返す。顎に、頬に、瞼に、耳たぶを軽く食まれてヒカルは一瞬首を仰け反らせた。 「おい……、人、来るかもよ」 「何してるか分かりゃしないよ」 「分かるだろ……、こんな、夜中に、公園で車停めて……」 アキラの指がヒカルの胸を這う。 意志を持って首筋を滑る口唇の動きに、ヒカルの呼吸が翻弄されていく。 「じゃあ……やめる?」 顔を上げたアキラが息のかかる距離でヒカルを見つめた。 暗闇に限りなく近い薄明かりの中、しっとり濡れたアキラの黒目が怪しく光る。 ヒカルは挑戦的に笑った。 力の抜けかかった右手をゆっくり伸ばして、エンジンを止める。ライトを全て消し、手探りでドアのロックを確かめた。 合図を受け取ったアキラに噛み付くように口唇を深く塞がれ、圧し掛かる体重の圧力にヒカルの息が止まる。 シートを倒したのはアキラだった。 |
くっついてから1年以上経過してます。
ヒカルの車については、全く私が車に疎く、
どんな車にするか思い付かなかったので詳細一切省き。
なんかヒカルにお似合いの車あったら教えてください。
次はちょっとしつこい感じでそこそこえろいので注意を。
「微笑み〜」同様、メインの方向が固まって来たために
ちょっとズレてきた部分を修正しました。こっそり。(2006.10.29)