アキラは何度となく見つめていた時計に再び目を向けていた自分に気づき、苦笑した。
 間に合わなくていい、と言ったのは自分だというのに。
 静かで広い屋敷の中、テレビをBGM代わりにつける習慣のないアキラは、詰碁集を手にどことなくそわそわしている。
 昼には両親の連名で十八センチのホールケーキが届いた。このサイズを見るからに、ヒカルが来るということは完全にバレてしまっているらしい。
「まあ、ここ半年くらい随分引っ張り込んでいたからな」
 独り言を呟き、余計に感じる室内の静けさが妙に居心地悪い。
 こんなに雪が降っていては仕方がない。まだ冬の手前という時期だというのに、珍しく道路が薄ら白くなるほど積もった外の世界。
 出先でなければ、ヒカルはこの雪を酷く喜んだだろう。ちょっと子供っぽくて、犬っころみたいなはしゃぎ方をする彼なら……
「……無事に着くといいけど」
 急いで来てくれるよりも、安全に来てくれるほうが数倍有難い。ヒカルの身に万が一のことがあったらなんて、想像するだけで震えがくる。
 無理に来ようとして事故を起こすよりは、一晩どこかで雪を凌いでゆっくり来てくれたほうがいい。そのつもりで何度もヒカルにメールを送っているが、ヒカルの返事は何とか行くから、間に合わせるからを繰り返す。
 その一生懸命さがアキラの胸を熱くさせた。
 ――ヒカルに会うまで、自分の誕生日が特別な日だなんて思ったことはなかった。
 元々物欲の少ない子供だったから、普通の家庭で買い与えるようなおもちゃなんかに興味を見せず、何が欲しいかと聞かれた時にはいつも囲碁関連のものを答えていた。
 自分の碁石、自分の碁盤、詰碁集、定石・布石の本……
 それらを一通りもらってしまえば、後は何も浮かばなかった。ただ、いつもより少し豪華な料理を食べて、皆におめでとうと言ってもらえる日。そして、その日から自分の年齢を聞かれたら、ひとつ増やして答えなければならない境目の日。
 周りが騒げば騒ぐほど、酷く不思議な気持ちになるのを否めなかった。年をとるのはそんなに素敵なことなのだろうか、と。
 誕生日が特別だと分かったのは、自分ではなく大切な人の誕生日を迎えてからだった。
 その日、彼が生まれたと思うだけで心が切なく揺れた。初めて知ったヒカルの誕生日は、ろくに祝えずに終わってしまったけれど、いつしかヒカルが生まれてきたというその事実に感謝しているアキラがいた。
 ――そうか、誕生日って、周りのためにあるのかもしれないな。
 そんなことを考え、アキラは一人微笑んだ。
 ヒカルも、今回のアキラの誕生日を前にしつこく要望を聞いてきたことを思い出す。
 あれだけアキラがヒカルの誕生日の時にリクエストを尋ねても、何もいらないと言っていたくせに。自分も同じ事をしているじゃないか――その事実が可笑しくて、くすぐったかった。
 どちらの気持ちもよく分かるのだ。祝われるのは照れ臭いけれど、思いっきり祝いたい。
 ヒカルも同じ気持ちでいてくれているのが嬉しかった。
 アキラは再び時計を見上げ、ため息をつく。
 短い針はもうすぐ十二時を指そうとしている。
 あと十分ほどで日付が変わる。一人ぼっちのバースデイも終わる。
 食事に行こうと言う芦原の誘いを断り、結局夕食も食べないままずうっとヒカルを待ってしまった。
 どこか寂しくて、でも暖かい。時折届くヒカルからのメールはアキラの心に火を灯す。
 目を閉じ、秒針が時を刻む音をそっと耳で拾った。
 去年の今頃、切なさに押し潰されそうになって一人泣き通したほろ苦い記憶。
 ――間に合わなくていい。
 間に合わなくていいから、ヒカルが来たら……キスを、してもらおう。
 プレゼントはそれだけでいい。ヒカルからのキス。
 あの夜感じた絶望から、自分を掬い上げてもらうために――

 バタン!

 外から聞こえた物音に、アキラははっと目を開けた。
 車のドアの開閉音のようだった。思わず立ち上がったアキラの耳に、次いでパタパタと石畳を渡る足音と、焦ったように二度押されたチャイムの音。
 アキラはちらりと時計を確認し、玄関へと走り出す。
 ――十一時五十七分。
 もどかしく玄関の鍵を開けると、寒さのせいか頬を赤く染めたヒカルが白い息を吐いて飛び込んできた。
「進藤!」
 アキラは一も二もなくヒカルの身体を抱き締めた。
 ところが、期待したしっとりムードとは裏腹に、ヒカルはアキラの腕の中でばたばたと暴れる。
「塔矢、待って! 時間ない、時間!」
「え? でも間に合ったよ、ギリギリだけど」
「まだなんだって! 準備しないと、あーっ、もう二分しかない! お邪魔します!」
 言葉だけの挨拶をして、ヒカルはぽいぽいと靴を脱ぎ捨てて室内へと入っていく。廊下を駆けていくヒカルの後を慌ててアキラも追った。
 ヒカルはこの寒いのに縁側に向かい、ガラス戸も襖も開け放す。そのまま薄ら雪を被った縁側備え付けのサンダルをつっかけて庭へ飛び出していった。呆気にとられているアキラに、ヒカルは「向こう向いてろ!」と怒ったように指示をした。
 なんだかよく分からないが、言われた通りアキラは縁側に背を向けた。冷気が背中をひたひたと触れる。
 ――一体何だと言うのだろう。
 アキラとしては、ヒカルに会えただけで充分嬉しかったのに、余韻もそこそこに引き剥がされてしまった。
 背後でガサガサと物音が聞こえる。ヒカルは縁側で何をやっているのだろう。たまに「うおっ」とか「うわっ」とか危なっかしい声が聞こえるが、大丈夫なんだろうか。
 アキラがちらりと時計を覗くと、長針は五十九分を指していた。
(あと一分しかないんだけどな……)
 聞こえないように小さくため息をついたその時、シュワシュワパチパチと何か弾けるような音が聞こえてきた。
「よーし、塔矢いいぞお〜!」
 アキラが振り向くと、目に映ったのは……光の花だった。
 庭を照らすほんのり眩い光の中に、ヒカルはいた。
 降りしきる雪の中、ヒカルはサンダルをつっかけただけで庭に立ち、両手を天に掲げて笑顔を浮かべている。右手に握るヒカルの携帯電話から、安っぽい音でハッピーバースデイのメロディーが流れていた。
 ヒカルの足元でパチパチと光り輝くのは、雪の地面に突き刺された何本もの手持ち花火。赤青緑、様々な色が白々と輝き、夜の空に降り続く雪を美しく照らしている。
 その光の真ん中で、ヒカルは笑って立っていた。
「塔矢、ハッピーバースデー!」
 目を見開いたままのアキラの背中で、時計が十二時を知らせる鐘を鳴らす。
 弾ける光を放出していた花火が、一本、また一本と終焉を迎えていく。
 ヒカルは雪の中にぺたりと座り込んで、満足げにため息をついた。
「間に合ったあ〜……」
 アキラはまだ動けずにいた。
 大きく開いた瞳の中に、かつて夜空に見た大輪の花火が浮かび上がる。
 激しく光り輝いて、消えることが分かっているのに、いつまでも心に残るその煌き。
 ――進藤。
「あ〜花火終わっちゃった。ホント一瞬だな、これじゃ。でも打ち上げだったら音うるさいと思ってさあ」
 ――進藤。
「もーすげー焦ったよ、電車捨ててタクシーで来たのはいいんだけどさ、めちゃくちゃ渋滞してて、河合さんもむちゃくちゃな運転するし……」
 ――進藤、進藤、進藤……
「でも超ギリギリだけど間に合ったろ? びっくりした? ……塔矢?」
 胸が苦しくて、声が出てこない。
 いつかのような、心が焼き切れるようなそんな辛さではない。
 ただひたすら、満たされていく想いがあまりに熱くて、それが苦しかった。
「お、お前……な、なんで泣いてんだよ!」
 ヒカルが慌てて駆け寄ってくる。サンダル履きの足はきっと雪で濡れてしまっているだろう。アキラは近づいたヒカルの身体を、息もできないくらいの力で掻き抱いた。
 ヒカルが苦しそうにぷはっと息を吐き出す。アキラは腕の中の冷たい身体を、これ以上ないほどきつく胸に閉じ込める。

 ――キミがボクの光だ――

 擦り寄せた頬は酷く冷たくなっていて、熱を分け与えるようにアキラは口唇を寄せた。ヒカルがくすぐったそうに身動ぎする。
 庭に咲いた光の花。あっという間の華やかな命。その小さな、それでいて強い光の中に、大切な笑顔が輝いていた。
 あの景色を生涯忘れないだろう、アキラは瞼の裏に焼き付いた優しい思い出にそっと微笑む。
 息を切らして、日付が変わる数分前に飛び込んできて、マイペースで悪戯好きで……いつもいつも驚かされる。
「大好きだよ」
 ――ボクの進藤。
 一年前の自分に、伝えてあげたい。辛い記憶は、それ以上に暖かい思い出に包まれる日が来るよ、と。
 きっと、これから先の長い時間を思えば、花火みたいに一瞬の涙だったはずだから。
 胸の中で、ヒカルが照れ臭そうに笑った。もぞもぞと動いたヒカルは、きつい腕の中から何とか顔と腕を抜け出させ、アキラの首に腕を回す。そのままアキラの瞼に小さなキスをくれた。
「なんだよ、泣くなよ。そんなにびっくりした?」
「……驚いたよ。冬だし、花火を持ってくるなんて思わなかった」
「へへ、お前も言ってたじゃん、ネットで買えないものはないって。お前さ、なんかお祭りの時に花火見たがってただろ。結局今年見にいけなかったからさ、これだ! と思って」
 にっこり笑うヒカルの無邪気な顔が愛しくて、しかしそれを伝える言葉が見つからず、アキラはただ困ったように微笑んだ。吐き出す息が白く、二人の間からさらさらと冷気に溶けていく。
 雪はまだやみそうになかった。
「塔矢ぁ、寒いよ。中に入ろうぜ。後片付け明日でもいい?」
「え? ああ、そうだね。入ろう。キミ、指がこんなに冷たくなってる」
 庭ではヒカルが散らかした花火のセットの残骸と、燃えカスが雪を被っている。朝になれば、雪は溶けてゴミだけ残るだろう。アキラはその無惨な光景を想像し、苦笑いした。
 ガラス戸を閉め、襖も閉めて、手をつなぎながら奥の部屋へと歩いていく。
「両親がケーキ贈ってくれたんだ。食べるだろう?」
「あっ、食べる食べる! やった、おばさん買ってくるケーキ超うまいもんな〜」
「それにしても、よく間に合ったね。ダイヤはめちゃくちゃだって聞いたけど」
「そうなんだよ、それが話すと長くてさあ。セミナー終わった頃はまだ降ってなかったんだよ。でも電車乗ってるうちに……」
「あ、進藤。大切なこと言い忘れてた」
「ん?」
「ありがとう」


 来てくれて、ありがとう。
 素敵なプレゼントを、ありがとう。
 一生懸命になってくれて、ありがとう。
 それから、それから……


 アキラがもどかしく言葉を探していると、ヒカルは優しいキスでそれを遮り、それはそれは鮮やかな笑顔でアキラの言葉を包み込んだ。

「塔矢、生まれてきてくれてありがとう」
 






ベタベタすぎてコメントも辛い……
というか、こんな早い時期に普通雪って降らないんですよね……
たくさん夢を見ています。
(BGM:花〜“世界で一番を”君に…〜/鈴木トオル)