突き抜ける青い空を背負い、通い慣れた棋院への道を真直ぐに進む。 時折金色の前髪をめくる風が頬に気持ち良く、しかしそれも一瞬のこと、すぐにうだるような暑さがヒカルの身体に纏わりついて来た。 歩いた距離はそれほどのものではないのに、棋院の自動ドアを潜る時には全身がべたつくように汗ばんでいて、ヒカルは顔を顰める。 まあ今日はかしこまった用事ではないからと、湿ったシャツを気にしないようにして、エレベーターのボタンを押したところで背中に声がかかった。 「よ、進藤」 振り向くと冴木が涼し気な表情で軽く右手を持ち上げている。 ヒカルはすぐに笑顔を見せ、こんちは、と軽い口調で返した。 ちょうど一階に下りて来たエレベーターに二人で乗り込み、ボタンに指を伸ばしたヒカルは冴木を振り返って首を傾げてみせた。 「出版部」 短い冴木の答えに、ヒカルは「同じ」と笑ってボタンを押す。 重い扉がゆっくり閉まり、エレベーターは上昇し始めた。 「余裕じゃないか? 明日の敵を前にして」 「なんだよ冴木さん、盤外戦仕掛けて欲しいの?」 「はは、お前も言うようになったなあ。最近好調じゃないか? お手柔らかに頼むぞ」 「冴木さんこそ、この前萩原先生に逆転勝ちしてたじゃん。中盤かなりキツそうにしてたのにさ、あの左辺ってどの辺りから狙ってたの?」 久しぶりに顔を合わせたということもあり、明日の対局相手だということはこの際考慮せずに二人は和やかに話しながらエレベーターを出た。並んで出版部へと向かうと、ちょうどそのドアから出て来ようとしている芦原が、何やら後方を振り向きつつ笑顔の挨拶を残している場面に出くわした。 「そんじゃよろしく〜」 気の抜けた声でへらっと笑い、さてと一息ついた様子で前方を振り返った芦原は、目の前に立っていたヒカルと冴木を見つけてわっと飛び退く。 「あーびっくりした。声くらいかけてくれよ」 「今来たばっかりだったもんで。どうもお久しぶり」 「ホント、冴木くんと会うの久しぶりだねえ。元気?」 「ええ、まあ」 今度飲みにでも行こう、なんてありふれた大人の会話をヒカルは傍らで見守り、二人の話の流れに合わせて時折にこにこと相槌を打つ。 それじゃまた、とお互い別れを告げようとした時、芦原が何気ない様子でヒカルに顔を向けた。 「あ、進藤くん、この後時間ある?」 「うん。出版部と事務局の用事終わったら平気」 「じゃ、後でロビーで」 「分かった」 今度こそ手を振り合って芦原と別れた後、冴木が少しだけ不思議そうにヒカルに尋ねて来た。 「進藤、芦原さんと親しかったっけ?」 「まあね。何度かイベントで一緒に仕事してんだ」 「そうか」 ヒカルの返答におかしな点を見出せなかったのか、冴木はそれ以上追求せずに出版部のドアノブを握った。 中へ入って行く冴木の後に続いたヒカルは、目当ての記者を探してきょろきょろと視線を走らせた。 冴木も約束の相手が見つかったらしく、じゃあなとヒカルに目配せして背を向ける。ヒカルも冴木とは反対の方向へ足を向け、まだヒカルが来たことに気付いていない記者に声をかけた。 「重田さん」 呼ばれて振り向いた重田は、ヒカルを認めてやあと顔を崩した。 「悪かったね、今日来る予定なかったんだろ?」 「ううん、事務局にも用事あったから。……どれ? これ?」 重田が手にしている数枚の用紙へ興味深く目を走らせたヒカルは、そこに踊るゴシック体の大文字にぶっと吹き出した。 「なんだよこれ、恥ずかしーって」 「いいじゃない、『白虎、三冠に挑む!』。 写真も写りいいやつ厳選してるんだよ」 「写真はどうでもいいけどさあ、ビャッコってのがなんか偉そうでさあ」 「それくらいハクつけておかないと、もうタイトル狙える位置にいるんだから!」 ヒカルは憮然と目を据わらせ、心なしか頬を赤らめて再び編集中の記事に視線を落とす。 現在進行形の本因坊リーグについて書かれた記事のメインは、恐らくこのままで行くと来月に挑戦者決定戦で対局することになるだろうヒカルと緒方についてだった。 ヒカルは自身のインタビュー部分を読んで、こんなこと言ったっけと首を傾げてみせた。重田がしっかりしてくれよ、と呆れたように呟く。 笑ってごまかしたヒカルは、後頭部を掻きながら記事から目を逸らした。 「問題ないと思う。ちょっと照れくさいけどね」 「なんの、今の勢いそのままに書かせてもらっただけだよ」 「ありがとう。じゃ、俺事務局にも用事あるから」 重田は頷いて、頑張ってくれよ、とヒカルに手を振る。ヒカルは笑顔で応え、足早に出版部に並ぶ机の間を擦り抜けてドアへと向かった。ちらりと冴木のほうに目を向けるが、冴木はまだ何事か記者と話しているようですぐには終わりそうにない。心の中で「また明日」と呟いたヒカルがドアに手をかけ、身体を外へと滑らせようとした時。 「しかし、白虎の快進撃が続いてるってのに、青龍のほうは酷いもんだな」 ヒカルの足が一瞬止まる。 「塔矢アキラはもう駄目でしょう。スランプなんてもんじゃないよ」 「龍虎の時代を楽しみにしてたんだがなあ。まあ、進藤くんが一角に切り込んでるから、彼に続いて新しい若手が伸びるのを期待して――」 静かに閉まった扉の向こう、声も途切れて聞こえなくなる。 ヒカルはドアを背に、静かに地面を見つめたまましばらくその場に佇んでいた。 口唇はきりと引き締めていたが、目つきは穏やかだった。 「あ、進藤くん」 事務局に現れたヒカルを目敏く見つけた職員がほっと顔を綻ばせた。どうやらお待ちかねだったらしい。 「すいません、遅かったですか?」 「いや、いや、いいんだよ。いやうっかりでね。ここ、ここにサインもらうだけでいいんだ。いや、すまないねえ」 いやいやと口癖を繰り返しながら書類を差し出す職員に苦笑を漏らし、ヒカルは軽く書面に目を通した後、手渡されたペンでさらさらと名前を記入した。 進藤ヒカル――事務的な用事以外でも、四角い色紙や白い扇子にまで書く機会が増えた自分の名前。 書き慣れた字面をちらりと見直したヒカルは、持参した印鑑を傍へ押した。少々斜に歪んでいるが御愛嬌だろう。 「いや、どうもありがとう。いやいや、午後には提出しないとならなかったもんでね、急がせてすまなかったね。」 「いえ、今日はどっちみち出て来るつもりだったからいいんです。後何かありますか? ないなら俺はこれで……」 「あ、そうそう、いやこっちは急ぎじゃないんだけどね、ついでだから。今月ひとつイベントあるんだけど、ちょっと河野先生の都合が悪くなってね、見たところ進藤くんのスケジュールが空いてる日だったから」 職員はひょいと脇に顔を逸らし、ごそごそと机上のパンフレットの山を探りながら、一枚のチラシを取り出してヒカルに見せた。 ヒカルはチラシを手に取り、「こども囲碁大会」の文字を見てふっと目を細める。 「どうだい? 代理引き受けてくれないかな? 進藤くん、子供平気だったよね?」 「うん、子供好きだから。いいですよ……」 快諾しかけたヒカルはふいに語尾を濁した。 不自然に言葉が途切れたヒカルを見て不思議そうに瞬きする職員に対し、ヒカルは何事か考える素振りを見せて、それから静かに微笑んだ。 驚く職員の丸い目を気にもせず、ヒカルは穏やかながらも有無を言わせない口調で告げた。 「あの、この仕事、他のヤツに回してもらってもいいですか?」 今月の半ばに予定されている本因坊リーグ第七戦。 四勝二敗で七戦目を迎えるヒカルが勝てば、五勝二敗。同じく緒方も四勝二敗の成績で最終戦を残しており、トップを争う二人の結果次第では挑戦者決定戦が行われることになる。 まず二人とも最終局は落とさないだろうというのが大方の予想で、人々は来月に行われることになるだろう挑戦者決定戦への期待を口々に囁きあっていた。 本因坊リーグの第四戦で緒方と当たったヒカルは、その時は緒方に白星を譲っている。しかしそれ以降三連勝を果たし、他の棋戦でも目覚ましい活躍を見せるヒカルに今度こそ軍配が上がるのではと鼻息荒く語る輩も少なくはない。 二大若手、龍虎と称された片割れであるアキラがすっかりその影を潜めてしまってから、ヒカルの評価は反比例するようにますます上がっていった。 不調著しいアキラについて時折インタビュアーがヒカルにコメントを求めることもあったが、ヒカルは「自分のことで精一杯です」と躱している。 動揺することなく、勝者の余裕や驕りといったものでもなくて、一見すると相手に興味さえないと思わせるようなヒカルの様子を見た人は、「もうライバルとして眼中にもないのだろう」と判断することもあったようだった。 周りがどれだけ詮索しようと、ヒカルはじっと口を閉ざして来た。 事務局での用事を終え、ロビーへ戻って来たヒカルは、首を回して人を探す。 約束していた人影はすぐにヒカルに気付いて、こっちこっちと手を振っていた。 ヒカルはほっとしたように肩の力を抜きながら、芦原の元へと小走りに近付いて行った。 |
この話はずっと書きたくて書きたくて、21st Cherry Boyの頃から
ずっと書きたかった話です(一気に引き戻される早漏の記憶)。
ようやくここまで来たかあと一人で感慨深かったり。