Happiness






「時間大丈夫? 今日は忙しくないのかい?」
「大丈夫だよ、この後夕方まで暇なんだ」
 自動ドアを潜って棋院の外へ出る道すがら、ヒカルと芦原は並んで歩いた。
 向かっているのは芦原の車だった。何度か芦原とこのやりとりを交しているヒカルは、戸惑うこともなく芦原に歩調を合わせる。
「夕方に何かあるの?」
「うん、芦原さん知ってたっけ? 関西棋院の社。アイツ、明日こっちで対局だから出てくるんだ」
「あー知ってる知ってる、あのヤンキーっぽい子ね。会うんだ?」
「そ。久しぶりにね」
 車までの短い距離で二人はそんな会話を交し、芦原はキーを取り出してロックを外す。
 そうして運転席ではなく助手席のドアを開いた芦原は、グローブボックスへと手を伸ばした。
 ヒカルも車に乗り込もうとする素振りは一切見せず、芦原の行動を傍で見守っている。
「はい、これ。持ってきてて良かった。ひょっとしたら顔合わせることもあるかなと思って持ち歩いてたんだ」
「ありがとう、芦原さん」
 ヒカルは芦原の手からそれほど厚みのないA4サイズの封筒を受け取った。
 軽く紐で閉じられているだけの封を待ち切れないようにその場で開封したヒカルは、中をちらりと覗いて数枚の棋譜を認めると満足げに頷く。
「いつもごめんね。面倒なこと頼んで……」
「いいよ、俺もアキラのことは気になってるからさ。進藤くんが動くとあれこれ詮索するやつも出て来るだろうけど、俺なら誰も気にしないしね。」
「ありがとう」
 封筒を大事そうに脇に抱えたヒカルは、短い礼を口にした。その、短いながらもはっきりとした感謝が込められた真摯な言葉に、芦原は首を振って目を細める。
「俺こそ、感謝してるよ。アキラのこと気にかけてくれて」
「……大事な存在だから」
 ヒカルの言葉をどのように受け止めたのか、芦原は嬉しそうに笑い返した。
「進藤くんみたいなライバルがいてくれて良かったよ」
 ヒカルはそれには答えずに、ただ微笑を浮かべるだけだった。
 それじゃあと、用を済ませた芦原は運転席へ回ろうとする。
「どこか行くとこあるなら送ってくよ」
「ううん、俺もうちょっと棋院で時間潰すから」
「そう? じゃあまた」
 車へ乗り込んだ芦原に合わせて、ヒカルも運転席側へ移動して窓の外から芦原に手を振った。
 芦原は窓を開き、シートベルトを閉めながら「この前アキラに会ったよ」とヒカルに告げた。
「ホント? ……アイツ、どう?」
「うん。だいぶ痩せたけど、最近食事するようになったって、明子さんが言ってた」
「そっか……良かった」
「また顔見に行くつもりだからさ、様子教えるよ」
「ありがと、芦原さん」
 遠ざかる車にヒカルは大きく手を振った。
 そうして、抱えた封筒を愛おし気に胸に押し当てた。


 アキラの棋譜を集めて欲しいと、ヒカルが芦原に頼んだのは先月のことだった。
 もちろん出版部に出入りしていれば入手可能な棋譜もあるが、ヒカルが欲しがったのは記録にも残らない全ての棋譜だった。
 それらを手に入れるためには、アキラに直接対局の内容を聞くか、アキラの対局相手に聞いて自分で棋譜を起こすしかない。
 ヒカルはその面倒な作業を芦原に頼み、芦原もまた迷惑な素振りを一切見せずに快く引き受けてくれていたのだった。





 ***





 夕方、待ち合わせ場所に向かったヒカルは、すでに到着していた社と和谷を見つけて駆け寄った。
「悪い、待った?」
「待った待った。腹減ってかなわんわ」
 三ヶ月ぶりの社は相変わらずで、思わずヒカルは歯を見せて笑う。
 社の訴えに同じく苦笑した和谷は、とりあえず何か食べようと二人を促した。異論なく頷く二人は和谷を先頭に東京の街を闊歩する。
「今日は社、宿は?」
「聞いて驚け、六畳一間の超高級宿や。」
「あ、和谷ん家泊まるんだ」
「なんでその説明で俺の部屋だって分かるんだよ、進藤」
 憮然と顔を顰めた和谷に、ヒカルはへらへらと笑ってみせた。
「いい加減引っ越せよなあ。フルメンバーで研究会やれねえし、暑いし、寒いし」
「うるせえ。俺はあそこが気に入ってんだ」
 ヒカルの訴えに耳を貸さない和谷には、他の人間には分からないこだわりがあるようだった。
 そんな和谷の調子にも慣れているのか、ヒカルはそれ以上突っ込んだ話はせず、話題は関西棋院第一位決定戦の挑戦者にリーチのかかった社へと移っていった。
 笑ったり驚いたり慌てたり呆れたりしながらファミリーレストランで他愛のない時間を過ごし、さてお開きという時に社がトイレへ行って来ると立ち上がった。
 腰を浮かすその一瞬、ちらりと社が向けた視線を敏感に察知したヒカルは、「俺も」と背凭れから身体を起こす。
「連れションかよ」
 からかう和谷ににっと笑って、ヒカルは社の後に続いた。
 和谷から遠く離れたトイレのドアを開け、先客がいないことを確認したらしい社は、先ほどの朗らかな様子とは打って変わって真剣な顔でヒカルに一歩詰め寄る。ヒカルもそんな社の態度を予想していたのか、特に慌てたふうでもなく黙って社の顔を見上げていた。
「おい、なんやあれ。なんなんや、あの碁は」
 今にも胸倉を掴んできそうな社の勢いを、ヒカルは静かに受け止める。
 大事な言葉が省略された社の問いかけは、先月行われたヒカルとアキラの本因坊リーグ第六戦のことを指しているという確信がヒカルにはあった。あれからもう少しで一ヶ月。社が棋譜を入手していてもおかしくはない。
「お前とは、マトモに打ててたんやないのか。グダグダやんか。碁にもなっとらん」
 ヒカルは口唇を結んだまま、黙って社を見つめ返す。
 社は眉間に深い皺を刻み、もどかしげに歯軋りを見せて足を踏み鳴らした。
「どうなっとるんや、一体。アイツ、人づてに聞いたら今も全然駄目やって……お前、ちゃんとアイツ見てるんか?」
「……しばらく会ってない」
「なんやて?」
「別れた」
 淡々と告げたヒカルの前で社は目を剥いた。
「別……れた……て」
「もう一ヶ月くらい、話もしてない」
 社が絶句する。
 やけにきっぱりととんでないことを語るヒカルに対し、何と答えたらよいのか分からない、そんな困惑の表情を見せていた。
 社がヒカルとアキラの関係を知るようになってから二年以上、彼なりに二人のことを大切な友人として見守ってきたという自負があるだろう。
 無言の時は数分も続いただろうか。
 ヒカルは少しだけ申し訳無さそうに社に微笑み、硬直している社の肩をぽんと叩いた。
「あんまり遅いと和谷が心配する。戻ろうぜ」
「せやけど……進藤……」
「……ここじゃ、なんだから。明日、終わったら時間あるか? ……きちんと説明するよ」
 ヒカルの提案に少し安心したのか、社は呆けたままの表情で戸惑いながらも頷いた。
 ヒカルはそんな社を元気づけるようににっこり笑い、そんな間抜けな顔をするなと力強く背中を叩いてやる。
 社はやはり割り切れない顔をしていたが、トイレを出てすぐに「ほんまに、きちんと説明せえよ」とヒカルに念を押して、ヒカルがしっかりと頷いたのを見てようやく納得したようだ。
 ぱんぱんと両手で頬を叩きながらショック状態の顔を解そうとしている社に続き、ヒカルはその背中を眺めて微かに目を細める。
 しかしすぐに顎を上げていつも通りの表情に戻ったヒカルは、テーブルで待つ和谷に屈託のない笑顔を向けた。









 帰宅後、自室の中央に座り込んだヒカルは、芦原から受け取ったアキラの棋譜をじっと見下ろしていた。
 乱れた打ち筋はまだ迷いがある証拠だ。何でもないところで変に焦り、定石から外れて妙な打ち込みを見せている。低段相手にここまで乱雑な碁を打つのだから、まだ気持ちは千々に砕けたままなのだろう。
 ヒカルは眉を揺らさず、黙って棋譜を目で追う。
 覇気のない碁。

 ――でも、手合いには出て来た。

 一枚一枚、隅々まで丁寧に石の並びを追ったヒカルは、一通り目を通すと今度は碁盤に石を並べ始めた。
 アキラがしばらく無断で手合いを休んだ後、初めて棋院に顔を出した最初の一局から、今日手にしたこの棋譜の一局まで。
 ひとつひとつ並べてヒカルは静かに時を過ごす。
 確かな手付きで石を置く。






またちょっとだけ社に顔を出してもらったり。
まだ成人してないのでファミレス以外に選択肢ないんですよね……
あんまりフライングさせるのも道徳的にどうよとか思って。
早く居酒屋行ける年齢にならないかなあ……
(そしたら本編終わっちゃうか……)