午後を迎えて対局が再開され、しばらく時間が経つと終局したのかちらほらと立ち上がる棋士が増えて来た。 持ち時間はまだ残っていたが、午前中の早い展開のために冴木と共に囲んでいたヒカルの碁盤もほぼ完成されつつあるようで、ヒカルは冴木に目配せする。 冴木は渋い表情で手を額に当て、「やられた」と小さな声で呟いた。 四目半でヒカルの勝利だった。 対局室を出ると、どうやら中押しで勝っていたらしい社がヒカルを待っていた。 気合いの入った社の眉間の皺を見てヒカルは苦笑する。 「そんな怖い顔しなくても逃げねえよ」 昨日の中途半端な会話の続きが気になっていたのだろう、社はヒカルを不信の目で見ている。 ヒカルがさっさと帰ってしまわないよう、先に勝とうと猛スピードで打ちまくったに違いない。 「ほんまにちゃんと説明するんやろな。俺は話聞くまで納得せんで」 「わーってるって、お前この後帰るだけか? 俺今日車だから、送ってやるよ」 親切のつもりでヒカルがそう提案すると、今度は社の顔が恐怖で引き攣った。 失礼な、とヒカルは目を据わらせる。 「免許取ってもう何ヶ月も経ってんだぞ。大丈夫だっつーの」 助手席で身を縮こまらせている社に対し、ハンドルを握るヒカルは呆れたように言った。 でかい図体でだらしねえな、と悪態をつくと、俺はお前のいい加減さをよう知っとる、と返された。随分な物言いだとヒカルは口唇を尖らせる。 真直ぐ駅に向かってはあっという間にドライブは終了してしまう。 丁度良い二人きりの空間ができたことだし、とヒカルは遠回りの道を選んだ。話をするならもっと車量の少ない広い道を走るほうがいいだろう。 やがて社もヒカルの運転がそれほど危険なものではないと察したのか、強張っていた身体から徐々に力を抜き始めたようだった。ふう、と社のつく小さな溜め息が、何の音楽もかけていない車内にひっそり響く。 「……進藤。昨日の続きやけど」 「うん」 ヒカルは前を向いたまま答える。 社は少し躊躇いがちに、恐らく上目遣いにヒカルを覗き込んで尋ねて来た。 「お前……、塔矢のこと、見限ったんか……?」 酷く心配そうにそんなことを言う社に、ヒカルは思わず口元を緩めて笑ってしまった。 社がむっとしたようだった。 「何笑ろてんねん」 「社がバカなこと言うからだよ」 「バカぁ?」 「そんな訳ねえだろ」 ヒカルは手前の信号が黄色に変わったのを確認し、ブレーキを踏んで減速した。 ゆっくりと赤信号に近付いた車は、シートベルトが突っ張ること無くタイヤの回転を止めた。 ハンドルを握ったままで、ヒカルは信号を見つめて目を逸らさない。 「……なら、なんでや。なんで、……別れたなんて」 社の歯切れは悪く、納得し切れないらしい。 ヒカルは軽く目を細めたが、向かいの歩行者用信号がチカチカと点滅しているのを確認してギアに手を伸ばす。目の前の信号が青に変わり、ヒカルはクラッチを軽く踏み込みながらアクセルをゆっくり踏んだ。 「一度離れないと、駄目だったんだ」 エンジン音が変わる度にヒカルはギアを切り替える。落ち着くまで少々うるさかったその音にも負けず、ヒカルの声はよく通った。 「アイツ、俺が傍にいたら俺のことしか見ねえから。……俺が何か言ったら、俺の声しか聞かねえから。他の誰にも耳を貸さない。それじゃ、駄目だったんだよ」 「駄目……?」 「アイツは二人だけでいられたらそれでいいって思ってたけど。俺はもっと欲張りだから、それじゃ足りなかった」 車通りの少ない道を爽快に走ると、それまで気付かなかった前方の青空がやけに眩しく輝いて見えた。 車内はクーラーが効いているが、窓を開けて走ったらさぞかし気持ちがいいだろう――ヒカルは薄ら微笑みながら言葉を続ける。 「俺は、何も失いたくない。アイツも、アイツの碁も、アイツのことを大切に思ってる人たちも。俺はまるごとアイツが欲しいんだ。もちろん、俺のこと好きでいてくれてる人たちからも手を離したくない」 「……進藤」 「欲張りで、我が儘だって分かってる。何も失いたくないなんてそんな都合のいい話、ムシが良すぎるってことも。でも俺たち二人だけの世界なんて、ちっちゃすぎて何も残んねえよ。俺は……繋げたいんだ。いろんな人と関わって、時間をかけて俺と塔矢が創り上げたものを……次に繋げたいんだよ」 ヒカルはそこまで話すと前を向いたまま遠くを見据えた。 ――この世にはたくさんの人間が生きている。 好きな人、ちょっと苦手な人、腹が立つ人、憎めない人。 あらゆる人と関わって、一日一日違う毎日を過ごす。人々との触れあいの中で培われた経験は何一つ無駄にはならない。今まで、そうしてここまで大きくなった。 その脆くも大切な繋がりを、忘れないように。 自分達もまた、未来へ続く道を歩む誰かのための、ささやかな存在の一部なのだから。 彼を愛し、彼が愛する人たちを奪いたくない。自分だって恋人の他にも大切な家族や友人がたくさんいる。 その全てから手を離したくない―― 『感謝してるよ。アキラのこと気にかけてくれて』 芦原の言葉が甦る。 無茶な頼みのはずだった。 アキラの手合いの結果を全て知りたいからと、棋譜を探ってくれるように頭を下げたヒカルに対して、芦原は笑顔で胸を張ってくれた。 本当はヒカルが自分で棋譜を集めたかった。しかし、アキラに直接聞くわけにはいかず、かといってアキラの対局相手にヒカルが出向いて対局内容を尋ねることも躊躇われる。それまでライバル同士と称されていた二人なのだ、がくりと調子を落としたアキラの棋譜をヒカルが集めていることが広まったら余計な噂の的になってしまう。 無理を承知で頼んだのに、芦原は快く引き受けてくれた。 感謝しているのはこちらのほうだ――。 『任せて。俺ならアキラのことしつこく聞いても変に思われないだろうからさ。バッチリ棋譜に起こしてあげるよ!』 頼もしいその姿には何の翳りもなかった。 優しい目は、ただの兄弟子ではなくアキラの本当の兄であるかのように見えた。 『――アキラが連絡してきたぞ』 素知らぬフリでいつも様子を気にかけてくれている緒方。 彼もまた、アキラが今よりずっと小さい頃から成長を見守って来た一人だ。 今のアキラがあんな状態になったのはヒカルにも責任があるはずなのに、咎めずに力を貸してくれた。 アキラが苦しい時、黙って手を伸ばして引き上げる手伝いをしてくれた。きっと、いつもみたいにさりげなく。 当たり前のように傍にいてくれる存在は、失ってから大切さに気付く。 アキラはそうと気付かずに、ヒカル以外の全てを排除しようとした。 ヒカルを失うのを怖れて、二人だけの世界に生きようとした。 お互いだけが共に在ればそれでいいなんて、そんな息苦しい世界では羽ばたけない。 自分達にはまだまだ必要な人たちがたくさんいるのだから。 アキラの世界に、ヒカルだけでは足りず。 ヒカルの世界も、アキラだけでは足りない。 それでいて、お互いが無くてはならない存在。 行けるところまで飛ぼう。 あの高みへ――空の果てはまだまだ見えない。 「アイツが自分で、そのことに気付くまで……待つよ。ずっと」 「……いつまで?」 「いつまでも」 いつまでだって待てる。 だって自分は散々アキラを待たせたのだから。 (――今度は俺が待つ番だ) いつまでも、いつまでも。 (俺はここにいる) たとえどれだけ時間がかかろうが、いつまでも。 助手席の社がスン、と鼻を鳴らしたようだった。ヒカルは苦笑して、ティッシュはそこだとグローブボックスを指差す。 社は遠慮なくティッシュペーパーを取り出し盛大に鼻をかんで、はあ、とすっきりしたような息をついた。 「……俺の言いたいこと、分かった?」 ヒカルがちらりと横目を社に向けると、社は薄ら鼻を赤くしてああ、と頷いていた。 「分かった。そんなら俺も何も言わん。一緒に待ったるわ」 「サンキュ。……いつも、ありがとな」 「よせや、水臭い。……せやけど、もしアイツがこのままずーっと気付かんかったら、お前……どうするんや」 社の問いにヒカルは笑った。はは、と思わず声まで出てしまったヒカルに、社は少しぎょっとしたようだった。 「お前、アイツを誰だと思ってんだよ。――塔矢アキラだぜ。気付かねえはずねえだろ!」 力強く言い放ち、アクセルを踏み込んだヒカルに対し、一瞬の間を経て社も笑った。 「……せやなあ」 笑い合い、頷き合う。 車は軽快に走り続け、遠く遠くへその身を運ぶ。 明るい笑い声が車内に響き、それはどんなBGMよりも耳に馴染む優しいひとときだった。 駅の傍で車を下りた社は、窓を全開にして見送るヒカルにひょいと顔を寄せてこんなことを尋ねて来た。 「お前……塔矢のこと好きか?」 好奇心や興味本位ではない、穏やかに細めた目で社は静かにそう言った。 ヒカルはそんな社に悪戯っぽく眉を持ち上げてみせる。 「社……」 「ん?」 「そういう質問、なんて言うか知ってる?」 「あん?」 顔を顰めた社に対して、ヒカルはにっと破顔してみせた。 「愚問って言うんだよ!」 ――愛してるよ、塔矢。 愛してる。 愛してる。 誰よりも愛している。 逢えない時も、お前のことをずっとずっと想ってる。 俺は待つから。いつまでだって待つから。 どれだけ時間がかかっても、お前のことを待ってるから。 ここにいる。 俺は、ずっとここにいるよ。 だから早く、ここまで来て。 俺のこと抱き締めて。 ずっとずっと待ってるから。 ずっと。 愛してるよ。 俺の塔矢。 |
ずっと書きたかった話がかけて満足〜
このまま終わってもいいや<酷
棋院に屋上あるって分かったし良かった!
(教えて下さった皆様有難うございます!)
次からようやくアキラ浮上編に入りかけます。
(入りかけ……??)
このお話のイメージ漫画をいただいてしまいました!
とっても素敵な漫画はこちらから
(2007.03.28追記)
(BGM:Happiness/山下久美子)