Happiness






 翌日、いつものように棋院を訪れたヒカルは、ヒカルよりも一足先に対局室に着いていた社と和谷を見つけて朝の挨拶を交した。
 昨日会ったばかりなので真新しい話題はなかったが、軽い冗談を言い合うことで対局前の緊張が解れて行く。それは彼らも同じだったようで、周囲の邪魔にならない程度に時間ギリギリまでくだらない話に花を咲かせた。
 あと数分で開始時間という頃に、ようやく対局相手である冴木が現れ、息を切らせながらヒカルの対面に腰を下ろした。
 珍しく寝坊したと冷や汗をかいている冴木をヒカルは茶化す。大分静まりつつある対局室に、ヒカルの笑い声が一瞬目立って響いた。
 日常の一部。珍しい出来事は何も起こらない。
 いつも通りに明るく。かつ淡々と。
 ……息を潜めながら。
 開始の合図に合わせて、ヒカルは冴木に向かって「お願いします」と頭を下げた。




「進藤、行こうぜ」
 昼の打ち掛け、外で食事をとろうと対局室を出ていく和谷と社に頷いて、彼らの後をついていこうとヒカルがスニーカーを履いていた時。
 ヒカルがかかとを突っ込むために俯きがちに腰を屈めたその前方で、社と和谷が何やら慌てて頭を下げたような気配がした。
 何事かと顔を上げると、前方に壁に凭れて偉そうに腕組みをしている白スーツ。
 緒方は彼らに軽い会釈を返して、そうしてヒカルに真直ぐな視線を寄越した。
 そのあからさまな視線にヒカルは肩を竦め、よいしょと適当な声を出しながらスニーカーを履き終える。
「和谷、社、悪い。先行ってて」
「え? 先って……」
 和谷に問いかけられているというのに、ヒカルは緒方に顔を向けたまま答えた。
「ちょっと用事できたから。すぐ行くよ」
 ヒカルと緒方の間の無言のやりとりを社も和谷も感じ取ったのだろう。
 二人は少々狼狽えつつも、分かったと何度か頷いてそそくさとその場を離れて行った。
 ちらちらと振り返りながらも二人が姿を視界から消した時、ヒカルは軽く首を傾げて「こんにちは」と緒方に挨拶をした。緒方はにやりと笑うだけ。
「なんだよ。待ち伏せ?」
「最近忙しいもんでな。狙いをつけなきゃお前と話もできん」
 ヒカルは軽く笑い返したが、緒方の瞳に含まれた小さな光に気付いているため緊張は崩さない。
 それほど時間を取らせる気はない、と緒方はヒカルを屋上へと誘った。ヒカルは黙って頷く。

 クーラーの硬い冷気から解放された身体が、暑さでふわりと弛んだ。
 高いところを吹きすさぶ風に髪を煽られ、ヒカルは思わず目を閉じる。
「これじゃ煙草も吸えんな」
 緒方は苦笑しながら胸元に伸ばしかけた手をポケットの中へ移動させた。
 ヒカルは風の吹く方向をじっと見据え、時折前髪が瞼を掠るせいか何度も瞬きを繰り返す。
 日射しは強いが、風のせいでそれほど苦にならない。青い空にぽっかりと浮かぶ太陽の強烈な光を肌で感じながら、ヒカルはじっと緒方が話し始めるのを待っていた。
 緒方はすぐには口を開こうとしなかった。
 昼の休憩時間がいつまでもある訳ではないのは分かっていたが、ヒカルは緒方に話を催促しようとはしない。時間の経過は気にならなかった。多忙な緒方がわざわざ暇を作ってヒカルに顔を見せたのだ。何の話かはおおよそ予想がつく。
 ふいに緒方が一歩ヒカルに近寄った。距離を詰めなければ風で会話がしにくいと思ったのだろう。
 緒方の声が風に混じる。
「――アキラが連絡してきたぞ」
 ヒカルは一瞬ぴくりと肩を揺らし、微かに喉を上下させた。
 その瞳の小さな炎がゆらりと揺れたのを、恐らく緒方は見逃さなかっただろう。
 口こそしっかり結んだままだったが、ヒカルの目は雄弁に緒方に向かって「いつ?」と尋ねていた。
 緒方は風に弄ばれる髪を手で押さえながら、低いながらも風圧に負けない声を出す。
「先月。手合いをサボり出してから少し経った頃だ。あいつ、明け方に電話してきやがった」
「明け方?」
「ああ。人の迷惑を全く考えない、あいつらしい」
 緒方の愚痴っぽい口ぶりに、ヒカルは思わず頬を緩める。
「……そっか」
 静かに笑ったヒカルを見て、緒方もにやりと口角を釣り上げた。
「満足そうだな?」
「緒方先生が言うと、やけにやらしく聞こえる」
「この野郎」
 はは、と声を出して笑ったヒカルは軽く目を伏せ、再び風へと顔を向けた。
 緩やかにカーブを描く口元が優しい笑みを作り上げている。
「そっか……。緒方先生、助けてくれたんだ」
「……」
「良かった。……アイツが気付いて」
「……そう仕向けたのはお前だろう?」
 ヒカルはゆっくり緒方を振り返る。
 緒方は口元は笑っているが、目は先程出会った時のように眼鏡の奥で鈍い光を携えている。
「お前が近くにいれば、あいつは限り無く盲目になる。だから離れた……そうだろう?」
 ヒカルは答えない。
 ただ、目は緒方から逸らさなかった。
 風の中、沈黙が続く。
 しかし流れる無言の時は決して居心地の悪いものではなく、二人の探り合いの表情の中にも何処か柔らかい眼差しがお互いを見据えていた。
 先に目を伏せたのは緒方だった。
「……本当はもっと早く知らせてやりたかったが。こっちも何かと忙しくてな」
「ううん、ありがとう。……教えてくれて」
 ヒカルの微笑みに緒方も目を細める。
「話はそれだけだ。……そろそろ行け。待たせてるんだろう」
「うん。……先生は?」
「下に戻るとすぐ捕まっちまうもんでな。もうしばらくここで休憩する」
「分かった」
 ヒカルは緒方にぺこりと頭を下げる。顔を上げると、腕組みをした緒方が不敵な笑みを浮かべてヒカルを見下ろしていた。
「来月、楽しませてくれるんだろうな?」
 ヒカルもにやりと口唇の端を釣り上げた。
「緒方先生こそ、ちゃんと勝ち上がって来てよ?」
「生意気なこと言いやがって」
「へへ。でも緒方先生としばらく打ってないから、俺も楽しみにしてる」
 去年の王座戦、そして今回の本因坊リーグ第四戦では黒星を記した相手。
 ヒカルは胸を張って来月の対局相手となるだろう三冠を見据えた。

 ――負けたくない。

 強い意志の宿る目を正面から受け止めた緒方は、飽くまで動じずに余裕の微笑を見せる。
 タイトルホルダーの貫禄。
 憧れなどと寝惚けたことを言っていられない場所へもうすぐ手が届く。
 数秒そのままじっと緒方を見ていたヒカルはすとんと肩の力を抜き、じゃあ、と階下へ続くドアへと身を翻そうとした。
 その瞬間、
「進藤」
 強風に紛れたが確かに聞こえた自分を呼ぶ声に、ヒカルは反射的に振り返る。
 緒方は静かな瞳でじっと眼鏡の奥からヒカルを見つめていた。
「……以前、俺はお前に「アキラを頼む」と言ったが」
 ヒカルは僅かに目を見開いた。
「……俺の判断は正しかったと思っている」
 はっと小さく口を開けたヒカルは、しかしその口唇の隙間からうまく言葉を紡ぎだせずに――歯を見せて笑った。
 鮮やかな、夏の日射しの強さに負けない純粋な笑顔だった。





 ――アキラが気付き始めた。
 アキラの周りにいる人たちの存在に。






棋院に屋上ってあるんでしょうか……!?
調べたんですけど結局分かりませんでした。
もし無かったら皆様の頭の中にだけひっそり屋上追加してやって下さい!
調査不足ですいません……。
あ、調査不足と言えばもう一つ、この一つ前のお話、
ヒカが芦原さんに棋譜集めてもらってるんですけど、
今は記録係がつかない対局も勝者がパソコンに
棋譜入力して皆で見られるようにしているんですって!
うわー知らなかった!どんどん進化していたのね……
でももうどうにも直しようがないので旧時代のまま行きますね。
貴重な情報くださったA様有難うございました!