ハートに火をつけて ACT2






 一年の最後の月。年忘れの忘年会に、加えて楽しいクリスマス。
 十二月の繁華街は、年末に向かって日に日に賑やかさを増していた。ほろ酔いで練り歩くサラリーマンやOLたち、彼らを祝福するように輝くきらびやかなイルミネーションが夜空の黒を忘れさせてくれる。
 時折冷たい風が黒髪を巻き上げ、吐き出した息は頬を白く掠めていくけれど、あまり寒さを感じないのは街中が浮かれた雰囲気だからかもしれない。
 アキラは一人、心なしか微笑を浮かべて、華やかな街を歩いていた。
 この楽しい喧噪を目にする度に、今年もあと残り僅かだと実感する。師走の名の通り、何かと忙しい時期ではあるけれど、目まぐるしく走り回る合間を縫って馬鹿騒ぎに興ずることは苦痛ではないのだから、人間は逞しい。
 さて、目的の場所までまだ少し距離がある。流しのタクシーを捕まえるつもりで通りを歩き続けたが、今日に限って空車の表示が見当たらない。
 時間は大丈夫だろうかと道の脇で立ち止まり、手首を覗き込もうとした時、

「よ、よお! 偶然だな!」

 やけに上ずった声が後ろから聞こえて来た。
 アキラが振り向くと、スーツにコートという珍しい出で立ちのヒカルがぎこちなく笑顔を見せている。
 アキラは僅かに目を見開いた。かろうじて「やあ」と返事はしたものの、突然現れたヒカルの違和感をすんなり受け入れられないまま、きょとんと瞬きを繰り返す。
「たまたま、この辺来てたんだけどさ。たまたま。」
「……うん」
「ちょうど、暇しててさ。そしたら、お前見つけてさ。」
「……、うん」
「……お前、一人?」
「……うん、まあ」
「……、……もし暇なら……飲みにでも行かね?」
 アキラの瞬きが止まった。
 ヒカルの強張った口元は必死で笑みを生み出そうとしているものの、表情に出てしまっている不安の色のせいでいつもの彼らしい笑顔には程遠い。
 不自然さばかりが目立つヒカルの態度と、躊躇いがちに紡がれた言葉から、アキラはヒカルが現れた今の状況を冷静に分析し始めた。
 黙ったままじっとヒカルを見つめているアキラを前に、ヒカルは何やら怖じ気付いたように「や、やっぱいい、何でもない」と誘いを撤回しようとする。しかし、頭を働かせるアキラの耳にそんなものは届かず、ヒカルの焦った様子を丸きり無視したアキラは、ああ、と納得したように大きく頷いた。
「ひょっとしてキミ、誕生日のこと知ってるんだ?」
 どきん、と聞こえるはずのないヒカルの心臓の音が響き渡ったようだった。
 オーバーなリアクションであからさまに動揺を見せたヒカルに、確信を深めたアキラは合点がいったと柔らかく微笑む。
「なんだ、やっぱり。気を遣って声をかけてくれたんだろう? その格好……仕事終わって追いかけてくれたのか?」
「あ、いや、その、別に、俺は」
「偶然だなんて嘘なんだろう? キミは義理堅いから……わざわざありがとう」
 予測を真実と信じて疑わず、アキラは頭を下げた。
 絶句してしまったヒカルの顔が真っ赤なのは、傍のイルミネーションだけのせいではないだろう。否定できず、肯定もできずに口をぱくぱくさせている哀れな様は、アキラの言葉が図星だと証明しているようなものだった。
 ヒカルの登場は明らかに妙だったのだ。「偶然」「たまたま」という単語が引っ掛かったのは、まず彼の服装のせいだ。
 日頃、ちょっとしたイベントの仕事でもかなり砕けた格好で参加するヒカルが、こんなふうにスーツを着込んでいることは珍しい。スーツを着なければならない仕事――大きな対局か、お得意客の指導碁の後だろうと見当をつけたが、今日この日に身を引き締めるような対局がヒカルにあったという話は聞いていない。
 消去法で、恐らく指導碁の帰りだろう。しかし、ヒカルがよく話題に出す大きな会社の社長や会長が、こんな繁華街にいるのはおかしい。彼の口から耳にしたことがある出先を即座に思い出したアキラは、ヒカルが「たまたま」この辺りを歩いているのは極めて不自然だと判断した。
 仮に偶然というヒカルの言葉を信じたとしても、「暇してて」という次の言葉はあり得ないはずだった。指導碁の帰りに繁華街までやって来るのに、目的がないはずがない。
 何より時刻はもうすぐ午後八時半――暇だからとぶらつく時間帯ではない。ヒカルはフリーターではない、彼の忙しさはアキラもよく知っている。
 となると、ヒカルは何らかの意図を持ってここまでやってきて、アキラに声をかけたことになる。
 そこまで答えを導き出したところで、アキラは重要な手がかりを思い付いた。
 それが今日という日だった。十二月十四日。――アキラの誕生日。
 誕生日というキーワードから、三ヶ月前のことが必然的に思い出される。
 九月二十日のヒカルの誕生日……彼の友人に誘われて祝いのパーティーへ出席したつもりが、主役が一人で項垂れている独房のような光景を目の当たりにし、アキラは全力でヒカルを元気づけたのだ。
 ヒカルはその時のことを何度も感謝してくれた。きっと、その礼も兼ねてアキラの誕生日を調べてくれたのだろう……ヒカルの行動が決して彼の言う通りの「偶然」ではなく、アキラのために気遣った結果だと最早信じて疑わないアキラは、目の前で完全にパニックを起こしているヒカルににこやかに笑いかけた。
「違った?」
 嫌味のつもりで言った訳ではないのだが、ヒカルの赤い顔が苦虫を噛み潰したように渋くなった。
 ぐっとへの字に曲げた口を、観念したように開いて……
「……おめでと。誕生日」
 照れ臭そうにぼそりと呟かれた予想通りの言葉に、祝われるのは嬉しいものだなとアキラは微笑み返した。


「べ、別に後つけてたんじゃねえんだぞ。声かけるタイミング探ってただけで」
 隣を歩きながら、やけに目線を泳がせて言い訳を繰り返すヒカルに対し、笑顔を崩さないアキラはうんうんと頷いていた。
 アキラの予想通り、ヒカルは指導碁の帰りだったようだ。棋院に戻ったところでアキラを見つけたが、アキラがすぐ外に出てしまったのでとりあえず追いかけて来たらしい。
 ずっと後ろにいたのか? とのアキラの質問に答えたのが先ほどの言葉だった。ヒカルの様子から察するに、加えて照れ臭かったというのが理由のようだ。
 そうだ、彼は案外シャイな男だった――アキラは再び九月の誕生パーティーを思い出して一人ほくそ笑む。
 すっぽかされたかもしれない、という不安をぶつけ切れずに、悶々と孤独に堪えていた健気な姿がやけにいじらしく見えた。揃いも揃って彼の友人たちは大遅刻だったが、無事にパーティー開催までヒカルを留めることができて本当に良かったと思う。
 一年に一度の大切な日を、淋しい思いで終わらせてしまうだなんてあまりに辛い。あの哀し気な目が、実に嬉しそうに輝いた瞬間は、アキラにとっても素敵な贈り物をもらった気分だった。
「……で、お前ずっと歩いてるけど……どっか、行くの?」
 一人でにこにこしているアキラの横で、ヒカルが躊躇いがちに伺いを立てて来る。
 そういえば、とアキラはヒカルから飲みに誘われたことを思い出した。
「ああ、うん、一応……。うちの兄弟子たちがちょっとした誕生会を開いてくれることになっていて」
「あ、そ、そか、じゃ、邪魔したな、またな!」
 アキラの言葉が終わらないうちに、逃げ出すように踵を返そうとしたヒカルのコートの襟を、アキラは慌てて捕まえた。
「待ってよ、良かったらキミも一緒にどうだ?」
「え!? だ、だって、俺塔矢門下じゃないし」
 目を剥いて振り返るヒカルに、アキラは何でもないと言うように笑顔で首を横に振る。
「問題ないよ。どうせ内輪の集まりだ。みんなキミも知ってる人ばかりだよ」
「で、でも、場違いじゃね?」
「そんなことない。忘年会も兼ねてるみたいだから、堅苦しいもんじゃないよ」
「……でも……」
「時間、あるんだろ? キミがいてくれたらボクも嬉しい」
 揺れるヒカルの目を見つめながらアキラが告げると、何故かヒカルの顔がぼっと赤くなった。
 不思議そうに小首を傾げるアキラに襟を掴まれたまま、ヒカルはあれこれ口の中で呟きながらきょろきょろと目線を彷徨わせていたが、もう一度アキラに「ね」と念押しされて、釣られたように小さく首を縦に振った。
「良かった! じゃあそろそろ向かわないと……さすがに急いだほうがいいな」
 ヒカルの参加が決定したことに浮き浮きと、左腕のコート袖口をずらして時計を覗き込むアキラの隣で、ヒカルもまたぎょっとしたように目を剥いて文字盤を凝視し始めた。
 その不自然な反応に、アキラは時計とヒカルの顔を交互に眺めた。
「……何か変か?」
「……いや……、お前、この前時計なくしたって……」
「ああ、つい先週新しく買ったんだよ。時間さえ分かればいいから、店の人に適当に選んでもらったんだけど」
 そこまで言いかけた時、ふと脇の道路を通りかかったタクシーに「空車」の表示を見つけたアキラは、咄嗟に手を上げて呼び止めた。
 静かに停車したタクシーに向かい、さあさあとヒカルを促すが、行くと頷いたヒカルが突然尻込みし始めた。
「や、やっぱやめる、俺」
「どうして急に。大丈夫だよ、本当に大した集まりじゃないから」
「そ、そうじゃなくて、……やっぱやめる」
 怖じ気付いたように背を向けるヒカルの腕を後ろから掴み、アキラは後部座席のドアを開いて待機しているタクシーへと引き摺って行く。
「は、放せって!」
「さっき行くって決めたじゃないか。頼むから来てくれ、ボクのために」
「……っ」
 ボクのため、と冗談ぽく訴えると途端にヒカルは大人しくなり、不服そうでありながらも引き摺られるままタクシーに押し込まれる。
 アキラは満足げにヒカルの隣へ身体を滑り込ませ、運転手ににこやかに行き先を告げた。