乱暴にドアの開く音、次いでばらばらと靴が振り捨てられる音、そしてけたたましい足音…… それほど長くもない廊下を、片手で口を押さえながら蒼白になって駆けて来たヒカルは、そのまま狭いトイレに突入した。 開けっ放しだった便器の蓋に手をかけて、顔を下げると一気に口の中に酸味が溢れ出す。辿り着くまでずっと闘い続けていた、胸や喉を苦しめていたむかつきが堪える間もなく飛び出して行った。 ごほごほと咽せながら、目尻に浮かんだ涙を拭ったり汚れた口元を拭ったり、情けないやら哀しいやら。 パーティー会場から一転、帰り着いた自室は質素で酷く寒かった。 パーティー会場、といっても、ヒカルの誕生会の時のように賑やかで小汚い場所ではない。 アキラに連れられて恐る恐る顔を出したヒカルが目にしたのは、長い渡り廊下を越えて案内された座敷にずらりと並ぶ塔矢門下の異様な迫力と、彼らの前に鎮座する彩り鮮やかな会食料理の数々。 料亭に到着するまでのタクシーの中、アキラは気軽に気楽にを連発していた。どこが気軽だ、と突っ込んでやりたかったが、にこにこ笑顔を絶やさないアキラにはあれが普通の光景なのだろう。育ちが違うのだから仕方がない。 確かに見知った顔は多かったが、誰も彼も先輩棋士で、とてもリラックスしてアキラの誕生日を祝う雰囲気ではなかった。おまけにあのメンバーの中ではアキラを除いて一番若かったものだから、飲め飲めと注がれるまま酒を口にし、翌日を待たずにすっかりタチの悪い二日酔い状態になっていた。高い酒だからと油断していたのもまずかっただろうか。 いや、雰囲気にいたたまれずに酒で誤魔化してしまったのだ――ヒカルは悪寒を苦痛と共に吐き出し切って、便器に凭れながら一息ついた。 口の中に纏わりつく吐瀉物の名残が不快だが、すぐに立ち上がる気力がない。一度トイレの水を流し、吐水口から流れる水へ指先を伸ばして洗いながら、まだ完全には取り去ることができない胸のむかつきに顔を顰めた。 酒が過ぎたと気づいた時にはもう遅かった。解散を待つほど余裕がなくなったヒカルは、宴の途中で席を立つことを決めた。精一杯平気なふりをしてみせたが、アキラの心配そうな顔からも具合が悪いのは見抜かれていただろう。 いいとこなしだ、と水に当てていた指先を軽く振って、だらりと下ろす。へたりこんだ格好の腰辺りに手がぶつかり、何か角張ったものに触れたことに気づいて、ヒカルの顔がますます渋くなった。 丁度コートのポケット部分。のろのろと手を突っ込み、中から現れたものは小さな箱だった。自分には不似合いなほど、綺麗にラッピングされたそれは明らかに誰かへのプレゼント。 誰か、だなんて。ヒカルは苦笑する。―― 一人しかいない。 『時計、なくしたんだ。少し不便だけど、買いに行く時間がなくて』 確かに耳にしたあの台詞は、ほんの二週間前のこと。それから一週間後に自ら時計を買い求めていただなんて行動が早すぎる。 ヒカルなりに、アキラの腕に似合う時計をじっくり選んで決めていた。時計なくしたって言ってたろ、大したもんじゃないけど、プレゼントに添える言葉まで気恥ずかしくもシミュレーションしていたというのに。 アキラの腕に燦然と輝く『Ω』のマーク……覚えがある、店頭でヒカルがアキラに似合いそうだと目を奪われた、しかし実際にヒカルが購入した時計よりも軽く二十倍はする値段のシックな黒皮の時計。 アキラによく似合っていた。店員はきっと女だろうと歯軋りする。 あんなものを見てしまっては、どうぞと安物を渡せるはずがない。パーティーすらこんなふうに潰れて早々に退席してしまって、あれでは何のためについていったのか分からないではないか。 九月のあの時は、アキラがあんなに親身になって傍にいてくれたのに。 三ヶ月前の自分の誕生日を振り返り、ヒカルは切なさとそれに交わる暖かい感情に包まれて細く息をついた。 優しくて頼もしかった肩のぬくもりを思い出す度、自分はヘンになってしまうのだ――吐き気とは違う胸の苦しさを感じて、ヒカルは気怠く目を閉じた。 あの日以来、アキラと顔を合わせるとどうにも照れ臭くて仕方がない。今日だって、もっと堂々とおめでとうを伝えるつもりだったのに、アキラの姿を見た途端に脈が暴れて声がかけられなくなって……不審者さながら気持ちが落ち着くまで後をつける羽目になった。 一体どうしてしまったのだろう。この胸の高鳴りは何なのか。アキラのために、できることをしてやりたいと思う無償の心は何処から産まれてくるものか。 答えが出ないまま、渡せなかったプレゼントを緩く握り締めたヒカルは、ふわりと手のひらから力を抜いた。 ただ、お祝いしたかっただけなのに。 リボンで飾られた箱がころころと転がる。そのぎこち無い動きを目で追っているうち、再び吐き気がこみあげてきたヒカルは顔を便器に戻した。 その時だった。 コンコン、と控え目な音がする。 最初は気にも留めずに咽せていたヒカルだったが、音がやまず、どうやら自分の部屋のドアを誰かがノックしていると勘付いてから、涙目のまま背後を振り返った。 トイレのドアは開けっ放しだが、角度が悪くて玄関の様子は伺えない。この体たらくなのだ、やり過ごそうと再び便器に向かいかけた瞬間、 「進藤? 帰ってるんだろ?」 穏やかな声が薄いドアの板を擦り抜けて、ヒカルの耳に突き刺さった。 アキラだ――気持ちの上では飛び上がって驚いた。が、実際は身体がついていかずにがばっと顔を上げ、気分が悪くなって頭を垂れるに留まった。 何か答えようにも、部屋の外まで届く声量は出せそうにない。おまけにこんな情けない姿、アキラに見られるなんて冗談じゃない。 このまま居留守を使おう、と息を潜めて吐き気を堪えていると、アキラの声がとんでもないことを言い出した。 「開けるよ?」 ヒカルがぎょっとしたのも無理はなかった。一秒を争う状態でトイレに駆け込んだものだから、玄関のドアなど構っていられなかった。よって、現在ドアは無施錠だ。 待て、と思わず口にしかかった時、お邪魔します、と断りの声と共にドアノブが回る音が聞こえてきた。 ヒカルが状況を誤魔化す暇もなかった。玄関からひょいと顔を出せばすぐに見渡せる廊下、その途中のドアを開けっ放しにしてトイレに掴まっているヒカルと、今日の主役であるはずのアキラと目が合ったのはほんの三秒後。 「進藤!」 ヒカルの有り様に驚いたアキラが慌てて近寄って来る。 最悪だ、と小さく呟いたヒカルは、突っ伏して顔を隠した。せめてもの足掻きとして、残骸を隠そうと水洗の水を流しながら。 ヒカルの横に膝をついたアキラは、その大きな手のひらで背中を優しくさすってくれる。暖かさに涙が出そうだったが、嬉しさよりは惨めさのほうが勝っているとヒカルは口唇を噛んだ。 「調子が悪そうだったから、気になって。良かった、様子を見に来て」 「……お前、宴会……」 途切れ途切れにようやくそれだけ尋ねると、アキラは嫌味のない笑顔で首を横に振る。 「大概みんな酔っ払っていたからね。ボクがいてもいなくても関係ない」 「……でも、……主役……」 「充分祝ってもらったよ。キミのほうが心配だ」 静かな声には何の棘もなく、強張った身体を溶かすような暖かさが溢れていた。 自分の身を案じてくれたこと、過去に二度しか来たことのない部屋の場所をきちんと覚えていてくれたこと、それから登場と共にガサガサ音がしたあのビニール袋……恐らくコンビニあたりで何らかの物資を調達してくれたこと。 どれもこれもヒカルのためにしてくれたと思うと、何故か切なさで喉までいっぱいになってしまう。 「大丈夫か? 全部吐いたほうがいい。すっきりするから」 ――そんな残酷なこと言わないで欲しい。これ以上情けない姿を見せたくない。 「水を持って来るか? あと、薬と栄養剤買って来たよ。すまなかった、みんなが無理に飲ませるから……連れて来て悪いことをしたね」 ヒカルは黙って首を横に振った。不思議なことに、吐き気は大分萎みつつあった。 代わりに膨らんでいるのは羞恥だ。この格好……コートも脱がずに便器に掴まっている目も当てられない姿を、アキラに見られてしまった。恥ずかしくて、気分の悪さなどどうでも良いことのように思えてしまう。 おまけに今日はアキラの誕生日なのだ。主役である彼に、酔い潰れた状態を介抱されているだなんて、なんという失態だろう。 この場をどう取り繕うべきかと、ひたすら浮かぶはずもない打開策を考えている時、ずっと背中を優しく撫でてくれていたアキラの手の動きが止まった。 思わず不安になったヒカルが振り向くと、アキラはある一点をじっと見つめていた。その視線の先をヒカルも目で追い、アキラが見ているものが何かに気づくと、真っ青になってそれに手を伸ばそうとした。 ――が、アキラの手の動きのほうが速かった。 アキラが掴んだ小さな箱。渡すつもりで渡せなかったプレゼントの存在に、ヒカルは顔色をくるくる変えて分かりやすい焦り具合を披露した。 「ちょ、それ、何でもないって」 何でもありそうな誤魔化し方にピンと来たのかは分からないが、手の中の箱をじっと見つめたアキラは、おもむろにヒカルに顔を向けて 「……ボクに?」 そう、尋ねてきた。 余計なところばかり勘がいいやつだと、ヒカルはうっかり言葉に詰まる。その一瞬の間を見逃さなかったアキラは、手にしたものが自分への贈り物だと確信したようだった。 「用意してくれていたのか? ボクのために?」 「いや、その、それマジで大したことねえから、」 「そんな、嬉しいよ。さっき言ってくれれば良かったのに。ボクにだろう?」 最後の念押しの問いかけは、言外に開けて良いかを尋ねているのだろう。 ヒカルは迷いに迷い、ダメだとも、どうぞとも言えなくて、ひたすら渋く顰めた顔を赤くしたり青くしたりしていた。 返事はなくとも無言の了解と受け取ったのだろう。アキラは箱の包装紙に手をかけた。戸惑うヒカルの目の前で、丁寧に梱包された箱は裸にされ、中からヒカルなりに真剣に選んだ時計が姿を表した。 アキラは少しだけ息を詰めたようだった。文字盤としばし見つめ合い、全てを納得したように細めた目を伏せる。 ヒカルは自分のいたたまれなさにぎゅっと目を瞑った。穴があったら入りたい、この際便器でもいいだろうか……そんな冷静さを失った思考に、アキラの優しい声が入り込む。 「……もらっていいんだろう?」 さすがに頷けなかったヒカルは、アキラから顔を逸らしながら首を横に振った。 「いいよ、気ぃ遣わなくて。ふたつもあったって仕方ねえだろ」 「そんなことはない」 「いいって!」 思わず声を荒くした拍子に再び胸の悪寒が下りて来そうになったが、それよりもじっとヒカルを見るアキラの目が真直ぐであることに動揺して、ヒカルはただ口の中の酸味を飲み下した。 アキラはヒカルに向けていた静かな眼差しを、手の中の腕時計にゆっくり下ろす。 「……そういえば、ボクはキミに何のプレゼントも渡していなかったな。」 独り言のように呟いて、アキラは実に穏やかな微笑を見せた。 ヒカルが声を失うほど優しい眼差しが、ふと自らの左手首に下り、アキラはおもむろに自分の腕時計を外し出す。 そして、その時計をすっとヒカルに差し出した。 「これ、お古ですまないが。悪くない品だから、長く使えると思う」 これにはヒカルも絶句した。そしてすぐに、具合の悪さも忘れてアキラを突っぱねた。 「ば、馬鹿! 見たら分かんだろ、それすげー安もんだぞ! 俺だって、これがいくらするかぐらい知ってるって!」 「気にしなくていい。値段は関係ない」 「関係ないはずないだろ! マジでダメだって、こんなのもらえるかよ!」 「でも、ボクはこれがいい」 口調は静かだが、ヒカルが選んだ時計を握り締めてきっぱり宣言したアキラの前で、ヒカルは呆然と口を開けた。 潔さを感じさせる真直ぐな瞳。薄明かりを反射して宝石のように輝いている。 驚きのあまりに声も出せなくなったヒカルに、アキラが促すように手のひらを見せた。釣られて出したその手の上に、つい先ほどまでアキラの腕に捲かれていた腕時計が置かれ、そのままぐっと握られた。 心臓が胸を突き抜けるような錯覚。 「交換。ね。」 再びアキラは優しく笑う。その笑顔に、羞恥も躊躇も焦躁も何もかも蕩かされてしまったのかもしれない。 ヒカルは魂を抜かれたように放心しつつ、かくりと頭を垂らして、何故か「はい」と敬語で頷いた。その様子に、アキラも満足げに二度三度と頷いてみせる。 「改めて、誕生日おめでとう、進藤」 「……おめでと……」 こんなに心のこもった、しかし抑揚のないおめでとうを告げたのは初めてだった。 年に一度の誕生日。 九月のお礼のつもりで、ささやかに祝いの気持ちを伝えられればそれで良かったのに。 燻っていた胸に、どうやら本物の火がついた。まだ小さいけれど、確かな炎は日に日に成長し、ひょっとしたら心を焼き尽くしてしまうかもしれない―― 栄養ドリンクでの密やかな二次会をアキラと共に過ごしながら、ヒカルは左手首で熱く時を刻む針よりも、速度を増し続ける脈を持て余していた。 |
アキラ HAPPY BIRTHDAY!
ヒカ誕生日の続編になりました……
「勘がいいけど天然」なアキラさんです。
22歳のアキラさんも素敵でしょうね〜!
天然アキラさんが気づくのはいつになるかな。
それにしても安易なタイトル……!
(BGM:ハートに火をつけて/LOOK)