ハートに火をつけて ACT3






  乗り込んだタクシーで行き先に自宅を告げ、背凭れに今日一日分の疲れを預けたのも束の間、思い出したように背中を浮かせたアキラは脇に置いた鞄に手を伸ばした。
 日本棋院を出る前、ふと売店で目について購入した週刊碁。鞄に無造作に突っ込んでいたそれを引き抜くと、充分な明かりのない車内でも誰が写っているのか判別がつく程、一面を飾る大きな写真が視界に飛び込んでくる。
 その人を認めて、自然と目を細めたアキラの口元が上品に吊り上がった。
 恐らく対局直後に撮影されたのだろう、写真の中で少し疲れの覗く笑顔を碁盤に向けているのは、自他共に認めるアキラのライバル・進藤ヒカル。名人戦七番勝負の第二局、接戦の末に現名人の芹沢から半目勝ちを奪ったヒカルの記事が大々的に取り上げられていた。
 途中で気持ちが昂って暑くなったのだろうか、写真のヒカルはワイシャツの両袖を捲り上げていた。そのヒカルの左手首に、シックな黒皮の時計が鎮座しているのがはっきりと分かる。
 棋院でその写真の中のヒカルと出逢った時、思わずアキラは週刊碁を手に取っていた。定期購読している新聞なのだから、自宅に戻れば同じものが届いているだろうにも関わらず。
 それでもアキラは穏やかに微笑み、写真のヒカルを連れて帰ることを決めたのだった。

 この対局の結果はとっくに知っていたし、本人に直接「おめでとう」とメールも送っていた。棋譜もすでに入手済みで、今更新聞記事に真新しい情報を求めるつもりはなかった。
 写真を見た瞬間、アキラは今日という日が何の日だったのか思い出したのだ。
 もう、一年も前の強烈な思い出が鮮やかに蘇り、過去の光景につい笑みが零れてしまう。
 一年も経ったのか、と少し感慨深気に目を伏せて、記事を元通りに鞄に差し込んだ。――思えばあのことがきっかけで、ヒカルと以前よりも親しくやり取りを交わすようになったのだ。
 一年前のヒカルの誕生日。そして、その三ヶ月後のアキラの誕生日。
 あの二つの出来事がなければ、現在のように対局の勝利報告だけではなく、日々の雑談をメールで送り合うような仲にはなっていなかっただろう。
 もう一年も経った。そう、丁度一年。つまり、今日がヒカルの誕生日ということだ。
 去年のように仲間と賑やかに過ごしているのだろうか。今日と言う日もあと数時間で終わろうとしている。
 今年は何の誘いもなかったとは言え、せっかく日付を思い出したのだから、帰宅後にささやかな祝いのメールでも送ろうか――そんなことを考えながら、ふと窓の外に視線を移したアキラは、次の瞬間運転手に向かってこう口を開いていた。

「すいません、あそこのコンビニで止めてもらえますか。」

 少しの間なら待っていると申し出た運転手に、近くですからここまででとタクシー代を払ったアキラは、立ち寄る予定などなかったコンビニエンスストアに足を向けた。
 そして店に入って数分後、小さなビニール袋ひとつをぶら下げて戻って来たアキラの顔は、不思議な晴れやかさに満ちていた。
 運転手に告げた通り、このコンビニから目的地である自宅は徒歩でも十分程度だった。静かな夜道にガサガサと音を立て、アキラは鼻歌でも歌い出しそうな様子で帰路を急ぐ。
 袋の中で揺られているのはショートケーキ一切れ。何の変哲もない、ありふれた苺のショートケーキだった。甘いものを日常的に食べる習慣がないアキラにとって、非常に珍しい買い物だったことは間違いがない。
 急に買ってみたくなったのだ。窓の外にコンビニの所在を知らせる明かりが輝くのを見た瞬間、悪戯心にも似たくすぐったい想いが沸き上がり、ケーキでも買ってみようかなんて気分になってしまった。
 購入したケーキはたった一切れ、これから帰宅する実家には自分の他に人はなく、結局自ら食べることになるのだから、祝いのケーキなどと言ってもまさに自己満足であることこの上ない。
 それでもまあいいか、とアキラは深く考えなかった。ささやかながら、友人の誕生日を自分一人で祝うのも悪くないだろう。本物を届けることはできないけれど、後で写真でも撮ってメールしてみようか……
 そんなことを脳天気に考えながら帰路を辿っていた途中。

 歩いている振動ですぐに気づかなかったが、どうも胸ポケットに入れていた携帯電話が震えている。
 手を伸ばしたアキラは、すでに住宅街を歩いていることを気遣って小声で答えた。
「もしもし」
『あ……、も、もしもし』
 すぐに耳に当てたため、表示されていたであろう番号や名前を確認する余裕がなかったのだが、この声には聞き覚えがあった。
 頭で思い浮かべるより先に、口がその名前を尋ねていた。
「進藤?」
『う、うん』
 本日の主役がどうしたのだろうと、アキラは思わず耳を澄ます。受話器の向こうから賑やかな仲間達の声や店の音楽などが聴こえてくる様子はない。とても静かだった。
 それぞれ忙しい身、今年は去年のようなパーティーはできなかったのかもしれない。それともすでに解散した後か……時刻的に考えられない訳ではないが、彼らのように大騒ぎが大好きな連中がこの時間にお開きとするだろうか。
「どうした? 何か用かい?」
 あれこれ予想しながら、無難な質問を投げてみる。携帯越しに聞こえるヒカルの声は、どうも歯切れが悪い。
『いや、その……用って訳でもないんだけど』
「ふうん? でもタイミングはいいな。丁度キミのことを思い出していたところだよ。」
『えっ!?』
 やけに上擦った声が耳に響き、驚いて少し携帯から顔を遠ざけたアキラは、不思議そうに笑いながら続けた。
「誕生日だろう? 今日。後でメールでも送ろうと思っていた。おめでとう」
『あ……ありが、とう』
 なんだか奇妙な会話だな、とアキラは首を傾げる。
 まさか、本人自ら祝いの言葉の催促だろうか? ――ヒカルがそんな図太い性格ではないことをよく知っているアキラは、意図の分からないヒカルからの電話に苦笑した。
「それで、一体どうしたんだ? こんな時間に」
『あ、お、遅くにごめん』
「いや、ボクは構わないが……本当に、用事がある訳じゃないのか?」
『や、あの……、お前、今……家?』
 なかなか本題を切り出さないヒカルの様子がだんだん心配になってくる。
 ひょっとして何かの悩み相談だろうか。だとしたら、こんなふうに歩きながら聞くのは失礼にあたるかもしれない。アキラの靴音が速くなる。
「いや、まだ帰宅していないんだ。でももうす」
『そっ、そっか! そんじゃいいんだ! マジで!』
 もうすぐ着く、と告げるアキラの声を大きく遮り、ヒカルの口調が不自然に明るくなる。アキラは思わず眉を寄せた。
「いいんだって……どういうことだ? 用があるから電話をくれたんだろう?」
『その、マジでどうでもいいことだからさ、ホント気にすんな! マジ大した用事とかじゃなくて……』
 上擦った声はアキラの不審に比例して大きくなる。――いや、大きくなるだけではない、どうしたことだろう、同じ声が電話だけでなく別の場所からも響いて来るような気がする。
 アキラは思わず携帯電話を耳から話し、顔を上げた。
 真直ぐ前方――あと数メートルで自宅という距離、その塀の前に誰かが立っている。
「いきなり変な電話してごめん、ホント何でもないから――」
 自宅の前に立つ人影が、携帯電話から聞こえてくる台詞と全く同じことを口にした。
 呆気に取られたアキラは、思わず踵を鳴らして立ち止まる。その音と、ビニール袋の不躾な雑音が、人影にこちらを振り向かせた。
 遠目でもよく分かる、面白いほど硬直した影につい苦笑を漏らしたアキラは、携帯電話を閉じてその人に近付いて行った。
「――ただいま。家の前まで来ていたのなら、そう言ってくれれば良かったのに」
「あ……、その、おかえり」
 街灯の薄明かりの下、恐らく耳まで真っ赤に染まったヒカルはバツが悪そうに呟いた。



「どうぞ」
 渋るヒカルを無理に家に上げ、通した部屋で先程購入したばかりのショートケーキを勧めるが、ヒカルは気まずそうに肩を縮めたまま手をつけようとはしない。
「遠慮しなくていいよ。キミ用に買ったんだし」
「嘘つけよ。俺、お前ん家行くなんて一言も言ってないじゃん」
 ヒカルの言い分はもっともだが、ヒカル用に買ったというアキラの主張も間違ってはいなかった。
 ヒカルの誕生日がなければケーキだなんて買うこともなく、そもそもそれほどケーキのような甘い菓子が好きではないアキラにとっては、自分で食べるよりも当の主役が食べてくれたほうがずっと有意義だったのだ。
 それを何度か説明してみたが、ヒカルは頑なだった。どうやら、約束もなしに押し掛けてきたことを非常識だと恥じているらしく、自分がこうしてアキラの家にいることさえ落ち着かない様子だった。
 仕方ない、とため息ひとつ零したアキラは、ケーキを一旦下げることにした。その時にヒカルが見せた悲しそうな申し訳無さそうな表情は、決してケーキが惜しいからではなく、アキラの心遣いを断ったことに対する自責のためだろう。
 それがよく分かっていたアキラは、台所でケーキを半分に切り分けた。半分、と言っても元々が細長い三角形、縦にナイフを入れるのは難しくて大胆に横でカットした。それぞれを皿に、フォークもふたつ添え、両手に持って再び部屋を訪れる。
「ボクも半分いただこう。さあ、どうぞ」
 大きなほうをヒカルの前に滑らせれば、さすがにヒカルも参ったという顔をした。
 アキラは満足げに微笑んだ。



 ケーキを食べ終え、急遽インスタントでいれたコーヒーもなくなる頃、さてどうしたものかとアキラはまたも首を傾げる。
 ヒカルの様子が落ち着かないのは来てから今までずっと、下手に訪ねてきた理由を問うと空気がおかしなことになりそうだったため、当たり障りのない会話で時間を繋いで来た。
 しかしそろそろ疑問が前に出しゃばり始めた。――何か用があってここまで来たのではないのだろうか?
 それを尋ねて良いものか、アキラは思案に暮れる。表情だけは穏やかに、何気なく棋戦の状況についての話など口に乗せてはいるのだが。
 いつから家の前にいたのか、どのくらい待っていたのか。ひょっとして呼び鈴を鳴らしたが、誰も出ないせいで電話をくれたのか。聞きたいことはたくさんあった。
 誕生日だというのに、一人でこんなところにいるのは何故だろう。まさか、また友人達に約束をすっぽかされたのだろうか。――いや、あの時は全員が偶然にも派手な遅刻をしただけで、おまけにヒカル本人と連絡がつかない事情があった。先程ヒカルは何の問題もなくアキラに電話をかけたのだから、連絡不可という事態ではないだろう。
 だとしたら、ヒカルがアキラを訪ねて来た理由とは。
 どんなふうに尋ねたらスムーズだろうかと、場を繋ぐためにコーヒーのお代わりでも勧めてみようかとアキラが口を開きかけた時。
 ヒカルが唐突に立ち上がった。
「マジで急にごめん。……俺、そろそろ帰るわ」
 驚きのあまり言葉も出ず、ただ瞬きするアキラにごちそうさまと頭を下げたヒカルは、背中を向けて本当に部屋を出て行こうとした。慌てたアキラも急いで床を蹴り、ヒカルの腕に手を伸ばす。
「待ってくれ、さっき来たばっかりじゃないか。三十分も経ってない。もう少しゆっくりしていっても」
「もう遅いし。いきなり上がり込んで迷惑だし」
「別に迷惑だなんて、どうせこの家はボクしかいないんだ。気にすることはない、それに、理由があってわざわざ来てくれたんだろう?」
 逃がさぬようにしっかり腕を掴みながら、ずっと尋ねたかったことをズバリ追求した。
 ヒカルの頬にさっと赤味が増す。目線を逸らすヒカルの顔を、アキラは追い詰めるようにわざとらしく覗き込んでみせた。
「話があるのなら、なんでも聞くよ。ボクにできることなら」
「いや……、ホントに、そんなんじゃなくって……」
「遠慮するな。キミの家からここまで、決して近い距離じゃないじゃないか。理由もなく立ち寄ったなんて、そんなのボクが納得するはずないだろう」
 少しアキラの語調が強くなると、ヒカルの言葉がぐっと詰まる。
 あ、とか、う、とか、言葉に繋がらない音をしばらく漏らしていたヒカルだったが、やがて観念したのか、ぽつりと口を開き始めた。
「その……」
「うん」
 ヒカルを刺激しないよう、できるだけアキラも優しく相槌を打つ。
「ただ……」
「……うん」
「……ただ……」
 うん、ともう一度頷いてみせようとしたアキラの目を、それまでひらひらと拠り所なく泳ぐだけだったヒカルの目が正面から貫いた。

「か、顔が見たかっただけなんだ! マジでそれだけだから!」

 大音量で響き渡る声と、目の前にある湯気の出そうな赤い顔の迫力に押されて、アキラはぽかんと口唇を半開きにさせた。
 その隙にヒカルはアキラの手を振り解き、言葉通り逃げるように廊下を駆け抜けて行く。
 床板を踏み抜きそうな騒々しさが遠ざかり、それが家の外に出ていった頃、アキラは思い出したように瞬きをして、通り過ぎた台風に再び首を傾げるのだった。