ハートに火をつけて ACT3






  全力で駆け抜けて、無我夢中で飛び乗った地下鉄の車内、汗だくで呼吸も荒くやけに殺気立った表情を警戒してか、決して少なくなかった利用客がヒカルから若干距離を置いているようだった。
 しかし、そんな異様な様相を改める余裕は今のヒカルにはなかった。
 指先が白くなる強さで手すりを握り締めたヒカルは、闇の中を走る車両の窓にぼんやり映る自分の輪郭を睨む。
 胸に浮かんでくるのは後悔の言葉ばかりだった。

 ――マズイだろ、あれは。

 顔から火が出そうだとはよく聞くが、本当にあそこまで温度が上がるものだとは。
 まだ火照った感覚の残る頬にそっと手の甲で触れてみるが、さすがに火傷することはない。しかし、あの瞬間確かに自分は全身が炎になったようだった。
 なんであんなこと言っちまったんだ――音もなく呟くが、いやいやとすぐに首を振る。それ以前の問題だ。何故、アキラの家まで出向いてしまったのか。

 思い起こせば今から丁度一年前。ヒカルの誕生日を祝ってくれるはずだった友人たちが揃いも揃って大幅に遅刻し、唯一傍にいてくれたアキラがあまりに優しかったのが全ての始まりだった。
 気の迷いだと何度も自分に言い聞かせたが、心底疲れて倒れ込む日々のベッドの中、微睡みに揺られて見る夢に現れるアキラの暖かな腕と低い囁きがヒカルの胸を締め付け続ける。
 とどめがその三ヶ月後に訪れたアキラの誕生日だった。
 あの日、思いがけずプレゼント交換して得たアキラの時計はそのままヒカルの時間を奪ってしまったのだろうか、もう九ヶ月も経つのに騒ぐ心が落ち着かない。
 今も左手首にそっと絡まるアキラの時計。いつでもどこでも、肌身離さず身につけている。特に大勝負の時はなくてはならないもの、お守りというか精神安定剤のようにも感じている。
 そしてアキラもまた、ヒカルがプレゼントした時計をいつもつけていてくれるのだ。今日も向かい合って挟んだテーブルの上に置かれたアキラの手首を目敏くチェックし、あの時計が居座っていることを確認して、例えようのない幸福感に包まれてしまった。

 この感情は何なのだろう。……何なのだ、ととぼけたフリが許される期間はとっくに終わったような気がする。
 そろそろ認めなければならないのではないだろうか。この感情に特定の名前をつけることを。
 しかし、一握りの理性がそれを許さない。――だって、そんなのおかしいじゃん。子供っぽい否定の言葉に根拠も説得力も何もなく、いつも頭の中の議論はここで強制的に終わってしまうのだ。
 答えは出せないのに、時折身体だけが暴走する。今日もそうだった。冷静になれば、こんな夜中に連絡もなく友人の家の前に立つだなんて常識的ではないことが分かるはずなのに。
 今日はヒカルの誕生日。昨年のように友人達の都合がつくことはなく、それぞれぱらぱらと祝いのメールが届いてはいたが、肝心な人からの「おめでとう」は来ていなかった。
 無駄に期待するのはよせと自分を叱咤したが、裏腹に膨らむ気持ちをついにヒカルは持て余した――顔だけでも見たい、ただそれだけ。
 年に一度の誕生日、少しくらいの我が儘が許されてもいいんじゃないだろうか。
 そんなことがほんの一瞬頭を掠めた途端、ヒカルはその先を考えずに自宅を飛び出していたのだった。

 しかし、いざ会いたい人の家まで来てしまうと、猛烈な自責の念に襲われた。
 まだ電車が動いている時間とはいえ、あと数時間で今日と言う日が終わる頃。元々約束をしていた訳でもなく、そして顔を見るための具体的な理由など何ひとつなく、突然現れたヒカルに対してアキラが一体どんな反応を見せるか。
 想像すればするほど恐怖にも似た羞恥心が沸き起こって来た。
 辺りは閑静な住宅街。こんなところで長い間突っ立っていたら、近所の人に不審人物と思われて通報されても仕方がない。
 やはり帰ろうか……そもそも動機が無茶すぎる。いや、でも折角ここまで来たのだし……だけど、よく見ると家の明かりがついていないようだし、ひょっとしたら留守かもしれない。そうだ、留守だ、それだけ確認してみよう。もしもアキラが帰宅していなければ、ここでこうして待っていても無意味だし、自分を納得させる充分な理由になる――

 そしてかけた支離滅裂な電話が、せめてあと五分早ければ。
 まさか電話とほぼ同時刻にアキラが帰宅するだなんて、そんなハプニングを期待していた訳ではなかった。
 明らかに不自然なヒカルの存在を責めもせず、さあさあと家に通してしまうアキラ。その強引な優しさが無性にヒカルを揺さぶって仕方がないと言うのに。
 おまけにアキラはしっかりヒカルの誕生日を覚えてくれていて、後でメールを送ろうと思っていた、なんてさらりと口にしたのだ。
 つまり、ヒカルがあと少し辛抱していれば、こんな無茶な真似に走らずに、一番欲しかったメールを受け取ることができたはずだった。
 なんという単細胞だろう――自分の浅慮を責めたところで、本物のアキラと向かい合ってしまったのだからもうどうしようもない。

 顔が見られて嬉しかった。それは間違いのない事実だった。
 何故かヒカルのお祝い用にケーキまで用意してくれていた。タイミングが良すぎて疑わしかったが、アキラの強い口調はヒカルに幸せな錯覚を起こさせる。
 半分ずつに分けたらヒカルが手をつけると理解していたアキラの行動。……あの時と同じだった。交換条件でこの時計をヒカルに渡してくれた時と。
 その優しさは涙が出そうなほど嬉しいことなのに、裏腹に胸が苦しくてどうにかなりそうだった。
 純粋なアキラの優しさに対して、自分は酷く薄汚れた心を抱えているのではないだろうか。あの清潔な笑顔に向かい合う資格なんてないのでは――ネガティブな感情は、一度忍び寄ってくるとそう簡単に立ち去ってはくれない。
 あまりに自分がいたたまれなくなり、ついにヒカルは逃げ出すことを選択した。突然押し掛けてきたと思ったら、唐突に帰ると言い出す。アキラにとっては意味不明なことこの上なかっただろう。
 それでも振り切れば良かったのだ。不自然さはとっくに隠しようがないのだから、多少の引き留めなどに後ろ髪引かれている場合じゃなかったのだ。
 なのに、何故最後に本音を言ってしまったのか。


 ――顔が見たかっただけなんだ!


 あの発言は最悪だ。
 どう考えてもフォローできない。
 あり得ないだろう。いい歳した男が、「顔が見たかった」なんて理由で同じ男を訪ねるだなんて。
 あれだけ引き留めようとしていたアキラが、追い掛けて来なかった。勿論追い掛けられても逃げ切るつもりで全速力を出したが、途中振り返った先にアキラの姿はちらりとも見えなかった。
 さすがに、気味悪がられたかもしれない……そう思うと、自分が惨めで情けなくて消えてしまいたくなる。
 気味悪がられるだけならいい。
 気付かれたかもしれない。
 ヒカルでさえ理解できない、この炎を孕む強烈な想いの正体を。
 言うべきじゃなかった。
 堪えなければならなかったのだ。
 まだ、自分だってこの気持ちを認めた訳でもない癖に。

 取り返しのつかないことをしたかもしれない……項垂れて地下鉄の駅を出たヒカルに、未だ生温い夜風が嘲るように吹き付けてくる。
 自棄酒食らってとりあえず寝てしまおう、と重い足を動かしかけた時、尻ポケットに入れていた携帯電話が乱暴な振動を伝えて来た。
 不必要に跳ね上がり、一気に速度が上がった脈を宥めながら開いた画面には、新着メール一件の表示。
 メールを開いてヒカルは目を見開いた。



 From:塔矢アキラ
 Subject:Happy Birthday !
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 そろそろ帰宅した頃かな?

 直接君の顔を見て、ささやかだけどお祝いできて良かった。
 来てくれてありがとう。
 いつでも訪ねてくれて構わない。
 僕も君の顔が見たくなったら、遠慮せずに会いに行くことにするから。
 今度、時間があったら一局打とう。

 改めて、誕生日おめでとう。
 よい一年になるように。




 かく、と膝から力が抜けそうになって、咄嗟に伸ばした左手が掴んだのは冷たい電柱だった。
 その冷たさでさえ、身体の中を暴れ狂う熱を冷ましてくれそうにはない。

 ――コイツ、ひょっとして全部分かっててこんな台詞吐いてんじゃねえだろうな!?

 思わず疑ってしまうほど、届いたメールは残酷に甘く、危険な香りを漂わせている。
 何かの罠ではないだろうか。アキラは知らないフリをして、翻弄されるヒカルを楽しんでいるのでは――最初は小さかったはずの炎をこんなにも煽るだなんて。
 おかげですっかり勢いづいた。そして思い知らされる。どうやらもう後戻りはできないようだ。
 胸の奥で踊る業火が、背後の道すら焼き尽くしている。ヒカルを囲んで大きな火柱に成長しようとしている。そうでなければこんなに熱く、息が苦しくなるはずがない。
 さあ、この熱をどうするべきか? 抱えたままでは燃え尽きてしまう。だからといって、腹を括って炎を纏う勇気はまだない。それとも、放っておけばやがて消えてしまうものなのだろうか?
 震える指ではとてもすぐに返信など打てず、新たな火種となったメールをそっと保護するのが精一杯だった。――おめでとう、の言葉にありがとうと答えるだけの関係で良かったはずなのに。
 炎を鎮める術は見当もつかなかった。





ヒカル HAPPY BIRTHDAY!

しかし祝う気持ちがあるのかよく分からない内容に!
凄く中途半端なところで止めてすいません……
果たしてこのアキラさんはただの天然なのか否か。
できれば12月アキラ誕に繋げ……たい……
(BGM:ハートに火をつけて/LOOK)