HEAVEN






 門の外にずらりと並んだ様々な色形の乗用車。二間続きの和室には、一様に上座に向かうスーツ姿の男たちがずらりと正座をしている。まさにその上座に座る塔矢行洋は、集まった面々の顔を一人ずつ眺めながら、表情を引き締めて頷く。
 塔矢邸の元旦は恭しい新年の挨拶でスタートを切る。門下生や高段棋士が集う畳の部屋は、その瞬間までは厳粛な空気に包まれていたものの、いざ大人たちに酒が入り始めればじわじわと陽気さが漂い出した。飲んだり食べたり碁を打ち始めたりと人が入り乱れる頃になれば、もう誰も周りの事に構わなくなって来る。
 この時を待っていた――それまで大人しく父親の傍らに座してにこにこと微笑んでいたアキラは、素早く場の雰囲気を読み取った。
 す、と腰を浮かしかけた時、ふと目の前に影が落ちて、アキラは直感的に動きを止めた。
「今年は進藤くんは来ていないのかな?」
 その声に顔を上げたアキラは、ぺたりと器用に営業用のスマイルを顔に貼り付けて頷いた。
「ええ、進藤は家のほうの都合があるとかで」
 見上げた先にある落ち着いた芹澤の表情には、そこそこに飲んでいたはずだろうにそんな素振りは一切無く、普段通りの涼し気な目元はすっきりと重力に逆らっていた。
 アキラの前で膝をつく芹澤に内心肩を落としながらも、アキラは穏やかな笑顔を崩さない。
 ――焦ってはいけない。チャンスはまだまだやってくる。
 幸い、厄介な兄弟子とは随分距離が空いている。芹澤の浅い座り方を見れば長居するつもりではないことがよく分かる。他愛もない会話を終えたら、さり気なくこの場を離れ、窮屈な和装を脱いで身軽になって……
「そうか。実は楽しみにしていたんだが。しばらく君も彼も忙しくて研究会で会えていなかったからね、一局お相手願いたかった」
「そうでしたか。進藤は最近泊まりの仕事も増えていますから。芹澤先生のお言葉、お伝えしておきます」
「君たちは研究会にはいつもセットで来てくれるからね。君ともなかなか打つ機会がなくて残念に思っていたんだよ」
「近いうち、必ず進藤と二人でお伺いしますよ」
 さりげない誘いをやんわりと躱し、アキラは念を押すように鮮やかな笑顔を見せた。
 芹澤も察してくれたのだろう、微かな苦笑を見せて「今年もよろしく」と腰を上げた。アキラは頭を深く下げて、油断することなく芹澤が場を移すのを見届ける。
 長くこの場所に縫い付けられることがなくて助かった、とアキラは小さく息をついた。そして黒目だけをゆっくりと、右へ左へ走らせて、近寄って来る輩がいないかを確かめる。
「お父さん、ちょっと出て来ます」
 小さく父親に声をかけ、その返事を待たずに無駄のない動きでアキラは立ち上がった。誰かに咎められる隙を与えず、飽くまでさりげなく場を辞した後、閉めた障子を背にようやくアキラは細く長いため息を漏らした。




 手早く袴を脱いで、用意していた普段着に着替えながら、アキラは何度も時計を見上げる。
 もう昼を過ぎた。大体の予想通りとはいえ、もう少し早く出て来たかったと嘆息する。着替え終わると、すぐに携帯電話を手に取ってメールを打ち始めた。準備完了の合図。――よし、出発だ。
 コートを纏い、マフラーを緩めに巻いて、軽く手櫛で髪を触ってから自室を出る。母親には途中で外出することをあらかじめ伝えてあるので、後はこのまま外へ出てしまえば逃亡完了!
 なんて、浮かれる心を押さえ切れずに下駄箱から革靴を取り出したところで。
「どちらにお出かけだ?」
 低い囁きが背後から刺さり、アキラは思わず似合わない舌打ちをした。
 一瞬顰めてしまった顔を気合いでまずは無表情に、それからなるべくソツのない微笑を浮かべるまでに修正して、アキラは自分の革靴を来客の靴で溢れる玄関の隙間に下ろしてから振り向いた。
 思ったとおり、薄ら赤ら顔の緒方と、そのお供をするように傍に控える芦原の姿がそこにあった。芦原はともかく、緒方はずっとアキラの様子を伺っていたに違いない。このタイミングで現れるなんてそれしか考えられない――アキラは苛立ちを押さえて黙って微笑む。
「兄弟子に何の挨拶もないとはいい度胸だな。一局もつき合わずに誰と待ち合わせだ?」
「新年の挨拶は一番最初にさせて頂きましたよ。何か勘違いされていませんか? ちょっとマンションに戻るだけです」
「その新しい御殿にはいつ招待して頂けるのかね」
「お忙しい三冠にわざわざお時間を裂いて頂こうとは思っていませんよ。どうぞお暇な時に」
 眼鏡の奥で、酔いに据わっていながらもぎらりと鈍い光を放つ細い瞳。その眼力に対し、飽くまで不敵に笑うアキラと緒方の間で見えない火花がちりちりと焦げている。その不穏な空気に全く気付いていない酔っ払い芦原が、猫背でふらふらと二人の間に割って入ってきた。
「アキラほんとにこれから出かけちゃうのか〜? 久しぶりに打っとこうと思ってたんだけどな〜」
 いい年をして小首を傾げる仕種に違和感のない芦原は、ぼんやり赤く染まったうつろな目でアキラを見下ろして来る。これは相当飲まされている。適当にあしらっても問題はなさそうだ――アキラは苦笑しながら、すいません、と小さく謝った。
「マンションに忘れものをして、取りに行かなきゃならないんです。またの機会に是非お願いします」
「でもお前最近碁会所にも来ないし、先生が向こう行ってる間は研究会だってろくにやらなくなっちゃったじゃないか〜。市河さん淋しがってたぞお」
「なかなか忙しくて……都合がつけば必ず行くと市河さんに伝えてください」
 答えながらも素早く靴に爪先を突っ込んだアキラは、口調だけはゆっくりと丁寧に、しかし足元ではやや強引にかかとを捩じ込んでいた。無理矢理靴を履いたアキラは、くるりと二人を振り返って優雅に微笑んだ。
「それでは、急ぎますので」
「おい、戻りは遅いのか?」
 芦原を押し退けてアキラに一歩詰め寄った緒方から、アキラはついと目を逸らす。
「買物もしてきますから、皆さんがいらっしゃる時間には戻れないかもしれません」
「だったら行く前に一局打っていけ。お前、今日はほとんど誰とも相手していないだろう」
「すいません、もう時間がないので」
 ほとんど緒方の言葉を遮る勢いで、アキラはぎゅうぎゅうに並んでいる来客の靴を飛び越えて引き戸に手をかけた。勢い良く開いたドアの外に身体を滑り込ませると、最後に「お見送り」状態の二人を振り返って笑顔で頭を下げた。
 がらがらと閉まる扉。
 取り残された二人は、しばし呆然とアキラの消えた玄関に佇んでいた。
 芦原は丸めた背中のまま、ぼけた表情で半開きの口から間の抜けた声を漏らす。
「……緒方さんの言ったとーりでしたね。アキラ、抜け出すつもりだったって」
「……「アイツ」が来てなかったからな」
「アイツぅ??」
「なんでもない。戻るぞ」
 何も分かっていない芦原を軽く小突いて、おまけにふらついている足を後ろから蹴飛ばしながら、緒方はもう一度玄関を振り返る。
 軽やかに揺れていた弟弟子の黒髪を思い出しながら、薄い口唇を開いてぽつりと呟いた。
「……打ってみれば分かると思ったんだがな」
「え? なんすか、緒方さん?」
「うるさい。芦原、部屋に戻ったら一局つきあえ」
「ええ〜、俺これからお節にありつこうと思ってたのに〜」
 芦原の抗議に耳を貸さない緒方が正面を向いた時、その瞳は決して酔っている人間のそれではなくなっていた。

 ――軽やかに揺れていた黒髪。
 迷うことに迷いのない目をしていた。






アキラ早々と脱走しました。
久しぶりに緒方さんも登場です。
緒方さんがトランプのジョーカー的役割だとしたら、
社は予備に入ってる真っ白なやつです。