HEAVEN






 緒方たちとやりとりをしていた時、すでに胸ポケットに入れていた携帯電話は震えていた。
 独特の震え方はメールの着信だとすぐに気付いた。恐らく、出かける前にアキラが送ったメールに対しての返信が届いたのだろう。
 アキラは自宅を出てから足早に地下鉄の駅を目指し、その道すがらメールの内容を確認する。

『もうコーラ2杯目〜早く来い!』

 約束をしていたファーストフード店で頬を膨らませながらストローを銜える恋人を想像し、アキラは微笑んだ。すぐに向かう旨を素早く返信して、ほとんど小走りの状態で駅を目指す。出掛けに引き留められたせいで余計な時間をくってしまった――すでに頭の中からは先ほどの会話の欠片も残っておらず、これから逢う相手のことだけでいっぱいになっている。
 早く、速く。一分が、一秒が惜しい。
 ほんの数日前にも逢った人に、今すぐ逢いたくてたまらない。





 ***





「お〜いこっちこっち!」
 待切れなかったのだろうか、すでにファーストフード店の前でアキラがやってくるのを待ち構えていたらしいヒカルが白い息を吐きながら手を振っている。その姿を見つけてほっとしたアキラは、頬が緩むのも構わずにヒカルの元へと駆け寄った。
「ごめん、遅くなって」
「ん〜、まあこんなもんかって思ってたよ。それよか大丈夫だったのか? 出て来る時何も言われなかった?」
 ポケットに両手を突っ込んだまま、肩を揺らしてヒカルもアキラの傍へ走って来る。
 アキラは微笑むことでそれに応えた。
「明けましておめでとう、進藤」
「あ、あけましておめでと! 今年もよろしくな」
 にっこりと歯を見せて笑うヒカルに、アキラも相貌を崩す。
 笑い合い、隣り合って歩き出しながら、二人は言葉を交わす。大した話があるわけではない。年を跨いで、数日前に逢っていた相手なのだから当たり前だろう。
 それでもこの何でもない会話は何よりの幸せな時間だった。
「先生元気?」
「ああ、変わりないよ。キミはどうしているかと聞かれた」
「マジ? やっぱ俺、今日挨拶行っても良かったんだぜ?」
「キミが顔を出してくれようとするのは嬉しいけど、去年よりもずっと抜け出すタイミングが難しかったぞ。いいよ、まだしばらくこっちにいるみたいだから近いうちに来てくれれば」
「そうかもしれないけどさ〜。今年も袴着たんだろ。見たかったのに」
 せめて写メくらい送れよなあ。ヒカルの不満げな呟きが耳に痛い。
 横目でちらりとヒカルの様子を伺うと、冗談っぽく口唇を尖らせているのが見えた。
 子供じみた仕種にアキラは目を細めつつも、その色を僅かに曇らせる。
 ――まだ、去年のことが頭から完全に追い出し切れていない。
 渋るヒカルを誘った去年の元旦、緒方と打った一局からヒカルの様子がおかしくなった。
 あれだけ近くにいながら、理由も分からず目を泳がせるヒカルをどうすることもできなかった一年前。
 時間をかけてヒカルの心を引き戻したとはいえ、あのきっかけを作ったのが紛れもないあの日だというのが未だにアキラの胸に閊えていた。
 もう二度とあんなことは起こらない。それは確信としてしっかり二人の間に根付いているが、それでもヒカルをあの場に近付けたくないという自己中心的な理由のために、元旦に直接挨拶に行こうかというヒカルの申し出を断ったのだ。
 ――うちに来るまでもない。何処かで待ち合わせをして、一緒に初詣に出かけよう――
 ヒカルはどちらでも構わないと返事をくれた。なるべく早く家を出て来ると約束したアキラは、元旦の午後をヒカルと過ごすことへの喜びに溢れていた。
 もうひとつの理由。一度ヒカルを自宅に招いてしまえば、去年よりも他の棋士たちに囲まれる可能性が高くなるだろう。
 北斗杯以降、ヒカルの評価はぐんと上がり、棋戦での功績も認められ、メディアへの露出も増えてきた。そのためここ数カ月はヒカルも以前よりずっと忙しいスケジュールで動いており、芹澤にやんわりと釘を刺されたように研究会などにも出席できていないのが現状である。
 そんなヒカルが顔を出せばしばらくは拘束されてしまうだろう。もしかしたら他でもないアキラの父がその筆頭になるかもしれない。うまく抜け出して、なんて簡単にはできるものではない。先程だって、意地の悪い兄弟子がアキラ一人の行動でさえ見張っていたのだから。
「なあ、お前今年は予選からやるって本気?」
「え?」
 別れ際の、緒方のほろ酔いながらも眼光衰えない瞳を思い出して顔を顰めていたアキラは、ヒカルの問いかけに慌てて振り返った。ヒカルが横目でじっとりとアキラを睨み付けてくる。――こうして並ぶとヒカルは随分背が伸びたな、とアキラは苦笑いを漏らす。
「人の話聞けっての。北斗杯だよ、お前予選から出るんだって?」
「ああ、それか。うん、本気だよ」
「どうせ今年もシードの話来てたんだろ? 何でわざわざ」
「去年の戦績を見てもボクだけが際立っているとは思えないからさ。キミも、社も順調に棋戦に絡んできている。特別扱いされるほどの差はないと思っている」
 アキラの言葉に、ヒカルは肩を竦めてフーンと呟いた。少し目線が上に逸れたところを見ると、彼なりに照れがあったようだった。
「それに、予選があろうとなかろうと関係ないから」
「言うじゃねえか。俺と当たったらどうすんだよ」
「まさか。そんな組み合わせになるはずがない」
 にやりとアキラが口角を釣り上げると、ヒカルも良く似た笑顔を見せた。
「ま、それもそーか。でも万が一お前と当たったって、手加減しねえからな」
「望むところだ。お互い最後の北斗杯だからな」
「もうそんな年かあ」
 ヒカルの呟きにアキラは笑い、ヒカルもアキラを見て笑った。
 冷たい風が頬を撫でて、二人の間に白い息が棚引く。
 気持ちが高揚している時、寒さを感じないと言うのは本当だ。隣にヒカルがいて、笑顔を向け合っている今、街を行く人々が身を竦めて歩いているのにアキラは胸を張って一歩一歩を踏み出す。
 愛する人が隣に居て、何の翳りもなく微笑んでいる。それがここまで素晴らしいことだなんて。
 怖いものなど何もない。
 少し前、言い知れぬ不安に怯えていた頃が嘘のように。
 ヒカルがいる。隣に、目の前に、手の届くところに居てくれる。
 マンションの部屋に帰れば、そこはもうアキラとヒカルだけの空間になる。他の事を考えなくても、お互いさえいれば事足りる最高の場所が生まれる。
 ――こうして並んで街を闊歩するのも良いけれど。
 早く、二人になりたい――アキラは靡くヒカルの前髪に見蕩れながら、心を急かされるままに足を速めた。




 去年同様、神社の境内に辿り着くまではそれなりに時間がかかった。
 波のような人を掻き分け、途中振り袖姿の女性の髪飾りがアキラの肩に引っ掛かったり、親とはぐれた子供の泣き声にヒカルが気を取られたりしながら、二人は離れないように神前を目指した。アキラが振り返ると、ヒカルが軽く頷いて「ここにいる」と目配せをしてくれる。その小さな反応がアキラに大きな安堵を与えた。
 ようやく賽銭箱まであと数人分の距離まで近付いたところで、それ以上前に出るのは諦めて、二人は賽銭を投げ入れる。ちゃりん、じゃりんと音が響く中、うまく自分達の賽銭が吸い込まれたかどうかまでは見届けられない。
 人に押されながらの参拝のため、きちんとした手順を踏むことは適わず、後は気持ちの問題とばかりにひたすら手を合わせた。
 アキラの願いはひとつ。――ヒカルのことだけ。
 その場所に立った時、面白いほどヒカルのことしか浮かんで来ず、アキラは緩く口元を歪ませながら一心にヒカルのことを想った。ヒカルとどうこうしたいというより、ヒカルへの想いの強さをただただ込めていただけだった気がする。神様にとっては良い迷惑だろう。
 アキラがふと目を開いた時、どんと後ろから押されて軽くつんのめる。ヒカルを振り向くと、まだ手を合わせていたヒカルがちょうど顎を上げたところだった。
 真直ぐに前を見据えた瞳に確かな光が宿っている。
 アキラがその横顔に見蕩れたのも束の間、アキラに目を向けたヒカルは実に柔らかく微笑んで、行こう、と身ぶりで人込みを抜け出すことを提案してきた。アキラは頷き、ヒカルに続いて人込みを掻き分ける。
 ほんの数分の参拝で、二人の身体は軽く汗ばんでいた。






去年はほんの数行でまとめてしまった初詣、
今年はもうちょっと詳しく書いてみました。
と言っても今回と次のお話合わせてほんのちょっと。
ヒカルが何をお願いしたのかは秘密です。