「おー、大吉! やり!」 広げたおみくじをアキラに突き出し、ヒカルは歯を見せて笑う。 アキラも少し目を丸くしながら微笑し、良かったね、と囁いた。 「お前は?」 アキラの手元を覗き込むヒカルの動きが大きな犬のようで、アキラは苦笑しながら手元のおみくじを丁寧に解いていった。二人の視線の下、注目の結果は……「吉」だった。 ヒカルが堪え切れずに吹き出した。 「すげえ地味! 吉かよ〜。」 「いいじゃないか、凶とかではないんだから」 「ある意味そっちのがすげえ気するけどな。どれ、見せて……、……お前今年「忍耐の時」だって」 「へえ」 ヒカルに言われておみくじの中身をまじまじと見てみる。 ――忍耐の時。心を正しく、初心忘るることなく…… アキラはさも当たり前のことが書いていると言わんばかりに肩を竦めてみせた。 「心掛け次第で困難も乗り切れる、ねえ。キミは?」 「俺? 俺は直感を信じろってさ」 ヒカルはアキラに小さくウインクを見せ、手早くおみくじを縦長に畳みだした。 「結んでく?」 「ああ、そうだね」 アキラもヒカルに倣っておみくじを畳み、二人で同じ場所に括り付けた。アキラの結び目は綺麗に、ヒカルの結び目は少々いびつに。 無事役目を終えたとばかりに神社を出たアキラとヒカルは、ようやく人込みから解放されてそれぞれに背伸びをする。そして、これからどうする? と顔を見合わせた。 時刻はまだ午後の二時前。タイムリミットの夜までは時間が充分残っている。 「俺、腹減った。なんか食おうぜ」 「そうだね。何処かに入ろうか。その後は……」 「打つ?」 首を傾げるように笑顔で尋ねて来たヒカルを見て、アキラは微笑を浮かべたまま……何故だかすぐに頷けない自分に気がついた。 (あれ……?) 打つかと言われて、もちろんと答える以外に選択はなかったはずだった。 それなのに、不思議と首が縦に動かない。 思わず表情が強張りかけて、そんなアキラの顔を覗き込んだヒカルが再び首を傾げる。 「塔矢?」 「え? ……あ、ああ……そうだね、でも……少し歩かないか? 二人でここまで出て来たのは久しぶりだし……」 笑顔を繕いながら、不自然な言い訳をすると、ヒカルはほんの数秒透明な瞳でじっとアキラを見つめ、すぐににっこりと全快の笑顔を見せた。その屈託ない表情にアキラはほっと吐息を漏らす。 「おし、そんじゃちょっとデートすっか!」 「……うん」 ヒカルの力強い言葉に安心しつつ、アキラは先程自分の胸に飛来したおかしな感覚は何だろうと視線をヒカルから逸らす。 何をさておいても碁を優先してきた自分が、ヒカルからの誘いにすぐに反応できないなんて。 いや、反応できなかったのではない。 ――せっかく二人でいるのに、少しは碁から離れたい―― そんな感情が……胸を過った、そんな気がした。 (まさか) ヒカルと碁盤に向かいあう時間は、何にも代え難いものだというのに。 (少し疲れが出たんだろうか) ずっと碁漬けの日々を送ってきたから。とはいえ、それがアキラにとっての日常であるというのに。 まあいい、とアキラは髪を揺らしてヒカルの隣で風を切った。――言葉通り、たまには碁から離れて二人でいるのもいい。 ヒカルの言う通り、久しぶりのデートを楽しめば良いのだ。そんな結論にアキラが頷いた瞬間、それまで胸で燻りかかっていた不思議な感覚は泡が弾けるように消えてなくなった。 くだらないことに気を取られず、ヒカルといる今を楽しみたい。 その想いはアキラの背中を強く後押ししてくれた。 *** 遅めの昼食をとって、そのまま腹ごなしに街をぶらついて。 ヒカルお勧めのショップをいくつか覗き、慣れない雰囲気に戸惑いながらも常に隣にある笑顔が嬉しくて、アキラもずっと笑顔だった。 足を休めようと喫茶店で休憩し、珍しくコーヒーに砂糖を入れたくなって、シュガーポットに手を伸ばしたアキラはヒカルにからかわれた。そんなヒカルが頼んだのは紅茶で、アキラはおかえしとばかりにヒカルのカップにも砂糖を一杯放りこんでやった。ヒカルから苦情が来たが、心底怒っているわけではないのは目を見ていれば分かる。 そんなふうに二人の時間を過ごして夕方近くなった頃、昼食が遅かったせいで腹も減らないまま、出歩くのに疲れて来たアキラはヒカルを誘う。 「うちに来ないか?」 この場合の「うち」が何処を指すのか、ヒカルは何の疑問も持たずに理解してくれていた。 ヒカルはじっとアキラを見つめて、その目を優しく細めたまま「いいよ」と小さな声で囁いた。 その吐息混じりの返事がやけに扇情的で、アキラは思わず息を飲む自分を咎め切れなかった。 ヒカルは悪戯っぽく微笑み、相変わらず両手をポケットに突っ込んだまま跳ねるようにアキラを先導する。 引っ越し当日に渡した合鍵を、ヒカルが肌身離さず持ち歩いてくれていることはアキラも知っていた。銀色の鍵をまじまじと眺めていた時のヒカルの何とも言えない優しい表情を思い出し、アキラは胸の奥でどくんと熱がこもるのを押さえなければならなかった。 アキラはヒカルの背中を追った。つい、人目も気にせず後ろから抱き締めてしまいそうになるのを堪えながら。 マンションに寄る前に近くのコンビニで軽い食料を調達し、ヒカルはすでにお気に入りになっているエントランスの自動販売機で自分用のジュースを買って、アキラは手慣れた手付きでオートロックを解除する。 まだ暮らし始めて三週間にも満たない。それでも自宅に比べて暖かみの薄れるこの機械仕掛けの入り口が、やけに身体に馴染んでいるとアキラは実感していた。 ヒカルがこのマンションを訪れたのはすでに五回。そのうち三度は泊まって行った。今日はお互い両親に戻ると約束してしまっているため泊まりは叶わないが、それでも真夜中まではまだ充分時間がある。 「おじゃましま〜す」 ガサガサとビニール袋の音を立てながら、迷いなくリビングへと向かって行くヒカルの背中を見つめてアキラはドアに鍵をかけた。 徐々に大きく燻って来た熱を押さえ切れずに、部屋に入るなり背中からヒカルを抱き締めたアキラはそのうなじに口唇を寄せた。どさ、と袋が床に落とされる。 ヒカルがぴくりと肩を揺らし、アキラを振り向くように首を仰け反らせた。 「お前、がっつきすぎ」 「だって、四日ぶりだ」 「どんだけ情けねーこと言ってんのか自覚ねえのかよ」 自制心の足りないアキラにそれでもヒカルは笑いながら、くるりと身体を回転させてアキラと向かい合い、首筋に腕を絡ませて来た。どうやら嫌がっている訳ではないようなので、アキラはつい口元を緩めてしまう。 その締まりのない口唇にちゅっとキスを仕掛けてくれたヒカルは、アキラの顔を覗き込むようにきらりと光る上目遣いを寄越して来る。 ヒカルの瞳に映る自分を見て、アキラはもどかしげにマフラーを外し、コートを脱ぎ捨てた。ヒカルも自らジャケットに手をかけて床に放り投げている。上着一枚脱ぎあったところでもう一度ヒカルの身体をきつく抱き締めたアキラは、その頬に口唇を寄せる。外から帰って来たばかりで頬はまだ冷たかった。 身体に纏う衣服を剥ぎ取ろうとアキラが手を伸ばすと、ヒカルはそれを小さなキスで制止する。 「ベッド行こう。お前余裕ねーぞ」 「……うん」 ヒカルに腕を引かれて素直に従う。確かに留められなければ、そのままリビングで絡み合ってしまいそうだった。 しかし言われた通り余裕がないのは紛れもない真実で、寝室に入るなりヒカルをベッドへ突き飛ばすと、手早くシャツを脱いだアキラはその上に伸しかかる。咄嗟のことで一瞬ヒカルの身体が強張ったものの、すぐにヒカルも自分の服を脱ぎ始め、寒い、と言いながらアキラに腕を伸ばして来た。上半身裸になって抱き締め合いながら、まだ冷たい指先と熱い胸の温度差に目眩を感じて深く口付け合う。 不思議なほど呆気無く身体に火がついた。 驚いたのは、ヒカルもまたアキラの性急な動きにすんなり応えてくれたことだった。 新年早々何考えてる、なんて怒鳴られたって仕方がないと思っていたのに――ヒカルの反応はアキラをのぼせ上がらせるのに充分だった。 夢中でヒカルに手を伸ばすアキラの頭を掻き抱くように、ヒカルは腕を指をアキラの髪に絡めて来る。 行為の最中にアキラの髪に触れるのは、ヒカルの癖のようだった。 「……ヒカル」 「……っん……」 「ヒカル……」 声にならない吐息がアキラ、と僅かな形を作った。 滑らかな肌を伝う汗。いつしか脱いだ直後の肌寒さなど忘れ、皮膚から蒸気が立ち上るような熱気に包まれて、二人は身体を重ね続けた。 こんなにあっさりと溺れてしまえる快楽がここにある。 アキラは何度もヒカルの名前を囁いて、その渇いた口唇からありったけの愛情を注ぎ込むように深い深い口付けを繰り返した。――ヒカル。ヒカル。呆れるほどに名前を呼びながら。 ――ヒカル。 ヒカル。 ヒカル。 ヒカルがいい。 ヒカルがいればそれでいい。 他のことを全て忘れて、ヒカルを抱き締めていられればそれだけでいい。 他には何もいらない。他の誰にも渡さない。このままここで、二人の部屋に永遠に鍵をかけてしまいたいくらい。 ヒカル。 ……ヒカル。 ……ヒカル…… 「アキラ」 呆れるほどに名前を呼ぶ合間、ヒカルがアキラの下でぼんやり微笑みながらアキラの名前を囁いた。 「……ろよ」 掠れた声はうまく聞き取れない。 何、と聞き返す余裕はなかった。 「アッ……」 ヒカルの微笑みが歪み、白い前歯が下口唇を押さえ付けるその表情にアキラも眉を顰める。 「ヒカルッ……」 意識が弾けて行く。 聞き返すことは叶わなかった。 一度張り詰めたものを解放してしまえば、後はお互い糸の切れた人形のようにベッドに横たわり、薄闇の中で優しく口唇を合わせるだけ。 性急なセックスでも、愛情ありきの快楽を得られる。 アキラはそれが何より喜ばしかった。アキラが求めたことにヒカルも求め返してくれる。決して独りよがりの行為ではない。 だからそのことにすっかり安堵して、結局聞き返すことは叶わなかった。 『……ろよ』 ――信じてろよ―― シャワーを浴び、それぞれの実家の息子の顔に戻らなければならない二人は、逢瀬の終わりに名残惜しくお互いを振り返り振り返り帰路についた。 おみくじに忍耐の時と諭されたアキラは、この日一度も碁石に触れることがなかった。 |
ちょっとわざとらしさに自己嫌悪……!
おみくじにまで諭されるってどうなのこれ。
(BGM:HEAVEN/Tourbillon)