無事に、北斗杯出場の切符を手に入れて二日後―― 「ヒカルーっ! いつまで寝てるの、電話よー!」 緊張の解けた体はいつまでも惰眠を要求したが、そうもいかなくなってしまった。 ヒカルは渋々ベッドから下り、大あくびをして目を擦った。 時計を見るとまだ午前中。 「ったく、誰だよぉ……」 ヒカルにとってはまだ午前中でも、すでに時刻は十一時を指していた。 一昨日、ヒカルが北斗杯出場権を得て、昨日はもう一人の代表選手が社清春と決まった。 選手決定後も予選で繰り広げられた各対局をじっくり検討し、興奮状態が続いていたヒカルは、昨夜も寝付くまでに少々時間がかかってしまった。おかげでまだ頭ははっきり起きていない。今日は対局の予定もなく、もう二、三時間寝たかったくらいだ。 「ヒカル、早く起きなさい!」 「今行くよー」 ぶつぶつ文句を言いながら階段を下りて、あくびを繰り返しながら母親から受話器を受け取った。誰からとも確認する前に耳に当て、 「もしもし」 『進藤?』 突然アキラの声が響いてきた時は思わずむせた。 電話に出ていきなりゲホゲホやっているものだから、受話器の向こうで『大丈夫か?』とアキラが心配そうに声をかける。 「大、丈夫」 少し涙目になってしまった。 四ヶ月前の突然のキス以来、アキラのふいうちにはかなり弱くなってしまっている。 『キミ、こんな時間まで寝ていたのか? 呆れるなあ』 「うるせーよ、死闘続きだったんだ。なんだよお前、今日休みなの?」 『夕方まで予定がないんだ。午後から打たないか』 ヒカルは時計をちらっと見る。寝坊してしまったせいで、アキラの言う午後にはそれほど時間がない。 「別に……いいけど、どこ?」 『もう公約は守ったんだから、うちの碁会所でいいだろう?』 途端にヒカルは苦虫を噛み潰したような顔になった。 アキラが待つ碁会所。北斗杯に出場が決まるまで来ないと吐き捨て、それ以来通っていなかった。少し気まずいが、確かに大口叩いた通りになったのだから、そろそろ行ってもいいかとも思う。 ただ、あの碁会所には行かなくとも、この三ヶ月アキラとは何度も碁を打っていた。大抵はアキラから声をかけてきて、碁会所には行かないと宣言したのだからと断ると、ボクの家なら問題ないだろうなんて返してくる。 確かにあの時、アキラとはもう打たないと言った訳ではないから彼の言う通りなのだが、ヒカルとしても衝撃の告白を聞いた後なので、ひょこひょこアキラの家に行くのも躊躇われる。 『ボクはキミと碁を打ち続けたいけど、キミと一緒にいると自制心がきかなくなるときがあるんだ。そんな時にキスしてしまうかもしれない。それでもボクと碁を打ちたい?』 ひどい脅し文句だと思った。 アキラと打つ碁は自分にとって他の何にも代え難い。でもヘンなことされるのはあんまり……。だからと言って行かなければ碁は打てないし、行ったら行ったでヘンなことを容認すると思われても困る。 悩んで迷って結局出向いたアキラの家だが、意外にも対局中のアキラは常に真剣そのものだった。 いつものようにヒカルの弱い部分を遠慮なく指摘し、碁会所での景色と全く変わらぬ言い争いまでいつも通りにやってのけた。 もしかしたら襲われるかも、なんて怯えていたヒカルが拍子抜けするほど、一度碁盤を前に向き合うと、アキラは一人の棋士としてヒカルと碁を打っていた。その一手一手は容赦なく、ヒカルが悔しさをありありと表した声で「負けました」と言わざるを得なかったことも一度や二度ではない。 尤も、対局が終わって検討も一段落つくと、時折アキラの中の野性が暴れだすこともあったのだが…… 何かに痺れたみたいに、妙に熱のこもった瞳。ヒカルの指を握り締めてくる手の力は強いのに、裏腹に名前を囁く声は酷く優しい。 『進藤』 「うわっ」 受話器越しで囁かれて、ヒカルの全身が一気に総毛立った。 『聞いてるのか? うちの碁会所でいいのか悪いのかどっちなんだ』 「い、いいよ、分かった! 後で行くからっ!」 アキラの返事を聞かないまま、ヒカルは慌てて電話を切った。 少し前までは分からなかったけど、アキラの声は自分よりも少し低い。静かな低音で響く声は、なんだか無性にヒカルの背中をぞくぞくさせるのだ。 「アイツ、背ぇ伸びたからなあ……声変わりも俺よか進んでるのかも」 もごもごと誰に対してでもない言い訳を呟き、ヒカルは部屋に戻って行く。取り付けられたばかりの約束の時間には、それほど余裕はない。 今すぐ着替えて顔を洗って、食事をかっ込んで出かけなければ。 碁会所の風景は、四ヶ月前と変わっていなかった。 いつもの常連客が、ヒカルの姿を見て少し眉を持ち上げる。彼らがそれほど驚かないのは、恐らく奥にはすでにアキラが座っているからで。 「進藤くんお久しぶり。北斗杯出場決定おめでとう!」 受付の市河嬢も以前と変わらず、笑顔でヒカルの鞄を預かってくれる。 「ありがと、市河さん」 「アキラくんがお待ちかねよ。さ、いってらっしゃいな」 「う、うん」 景気良く送り出されたが、向こうに見えるアキラの後姿はまだこちらを振り向かず、それがヒカルを緊張させる。ヒカルが来たことは気づいているはずだ。 あんなことがあってから、アキラの表情をまず探るようになってしまった。怒ってるのか、そうでないのか、それともヘンなスイッチが入ってしまっているか。 大抵はいつも通りのすました顔をしている。だから今日もすました顔をしていたらいいなと思いながら、ヒカルはアキラの正面に回りこんだ。 (ゲッ) ヒカルの顔が青ざめる。 (怒ってる〜!?) 切れ長のすっきりした目元が若干角度を上げ、眉間には薄ら皺も寄っている。しっかり結ばれた口唇はやけに力がこもって見えて、険しいという表現がぴったりくるようなそんな表情だった。 対局も始まっていないのに、何故こんなにピリピリした顔をしているのだろう。ヒカルは思わず時計を見上げる。まだ午後一時をちょっとすぎたところ、そんなに遅れたつもりはない。 「進藤」 ヒカルの肩がびくっと揺れた。 「座らないのか」 「あ……、座る、座ります」 何故か敬語になって、ヒカルは恐る恐るアキラの正面に腰掛けた。 目の前のアキラの目がじっとヒカルを見据え、そのやけに厳しい視線に居心地はすこぶる悪い。 (超怖ええ〜!) 何故アキラが怒っているのか、ヒカルには見当もつかなかった。 つい一昨日、社清春との対局を追え、手にしたばかりの北斗杯出場権。その一戦はヒカルにとっても非常に面白い、まるで博打のような一局だった。 勝敗がどちらに転ぶか分からないスリル。大事な一戦だったはずなのに、手堅く攻めようという気持ちは社の初手で吹っ飛んで、いかに相手を驚かせるかに終始徹したような気がする。 こうくるなら、こうしてやれ。これならどうだ。そうきたか。 あそこまで自分と張り合って仕掛けてくる相手は初めてだった。本音を言えばもっと社と打ってみたい。結局アキラとヒカルに続くもう一人の代表選手は越智ではなく社となったが、社が出てきてくれて良かった、と思う自分を隠せない。 そんな有意義な対局の結果は、アキラだってその場にいたのだから知っているはずだ。昨日は社と越智の一局の検討も一緒に行った。更に一晩明けた今日、何故彼はこんなに不機嫌オーラを出しまくりで、ヒカルの目の前に座っているのだろう? 「検討、しようか」 「え?」 「一昨日のキミの一局。社くんとの予選決勝の一局だよ」 「検討なら……」 お前、その場でやってたじゃん。そう言いかけて言葉をヒカルは飲み込む。アキラの強烈な視線が身体に刺さって痛い。 ヒカルと社の対戦中、別室で検討しながら対局の行方を見守っていた数人の中にアキラもいたのだ。なんで今更? ――しかし、それを目の前のアキラに指摘するのは躊躇われる雰囲気だった。 「……分かったよ、並べるよ」 ヒカルが黒と白両方の碁笥を手に取ろうとしたが、それより早くアキラが自分の元に二つの碁笥を引き寄せた。かと思うと、白石と黒石を次々に手に取り、昨日の一局を恐ろしい速さで並べていく。ヒカルは碁盤の上に広がる黒と白のコントラストを半ば呆気に取られて見ていた。 ふと、途中でアキラの手が止まる。ヒカルの目もその一手で止まった。 「……ここ。何故キミはここで守らなかった?」 アキラが指した一手は確かに覚えがあった。本来なら守りに入るべきかと思うが、きっと社はそれでは満足すまい。ヒカルが更に強気に出た一手である。 「守ってもいいと思うけどさ、あいつ相手じゃ面白くねーかなと思って」 「面白い面白くないで碁を打つのかキミは? もしこの後こうこられたら形勢は一気に逆転だぞ」 アキラは架空の社の一手を打つ。ヒカルは口をへの字に曲げた。確かにその通りだが、社が実際その選択をしなかったことはヒカルが一番よく知っている。 「だけど、あいつはこう打ったじゃねぇか! 堂々受けてたったぜ」 ヒカルが社の一手を打つ。 「ならば次のこれはなんだ? こっちから攻められたらどうしようもないだろう!」 アキラが次のヒカルの一手を打ち、新たな手を示す。 「だから、あいつはそう打たなかっただろ!」 ヒカルも負けじと本当の社の一手を打った。 だんだん苛々してくるのが分かった。昨日の一局はヒカルにとって本当に楽しいものだったのだ。確かに無茶苦茶な部分もあったが、お互い分かってて引っ掻き回した冒険の対局、何もかも納得済みである。 ヒカルが来て早々、暗雲立ち込める二人の気配が伝わったのか、碁会所の客たちが遠巻きにこちらを眺めているのが分かった。それでもアキラは不機嫌さを隠そうとしないし、ヒカルも意地になってしまった。 「ここからこっちに向けるなんてキミも彼も馬鹿げてる。まともに打てば勝敗はすぐ決まっただろう!」 「あのなあ、勝ち負け以外にも大事なもんがあるだろ! お前何そんなカリカリしてんだよ、なんでそんなにこの一局が気に入らないんだ!?」 「気に入るものか! キミは普段ボクとはこんなふうに打たない!」 次はアキラがはっと口を押さえる番だった。 ヒカルは、目の前で湯気を出さんばかりに興奮していたアキラが突然固まったことに驚き、その様を呆然と眺めてしまった。 まるでリモコンで停止ボタンを押したみたいだ。アキラは口を押さえたまま、ヒカルを凝視した状態で凍っている。 ヒカルはアキラの失言を反芻する。 ――キミは普段ボクとはこんなふうに打たない! 「もしかして」 周囲も二人の様子を伺っているのが分かっていたから、ヒカルは声をぐっと落として囁くように尋ねた。 「……お前、シットした?」 「……!」 その瞬間、ヒカルはアキラの顔から首から耳まで真っ赤に染まるのを、大きく見開いた両目でしっかり見てしまった。そのあまりの反応の大きさに、続けて言おうとした言葉がさっぱり消えてしまう。何を言ったものかと口をぱくぱくさせていたら、アキラが派手な音を立てて立ち上がった。 「お、おい、塔矢!」 アキラは振り向かずにヒカルの横、常連たちの間をすり抜け、市河のところまで足早に進むと、そのままジャケットと鞄を受け取って出口に向かってしまう。 「待てって! おい! 誘ったのお前だろうが!」 ヒカルも慌てて後を追う。 いつもなら逆なのだ。帰ると言い出すのは常にヒカル。普段アキラは後を追っては来ないが、今回は放っておくわけにいくまい。 いつも冷静な若先生がいきなり飛び出すなんて――周囲の目が一斉にヒカルを串刺しにするが、怯んで立ち止まったら負けだ。ヒカルはつい先ほど預けたばかりの鞄を市河から奪い取って、全速力でアキラの後を追う。 (バカ、お前は社とは全然違うじゃねーかよ) 猪はすっかり碁会所の外に出てしまったようだった。 |
この話、とりあえず記憶の中だけでがーっと書いて、
この頃の原作を後から読み返したら、なんか辻褄が合わな……
で、急遽いろんな穴を埋めたり余分なのを削ったりしたので
なんとなく不自然かつ説明的な感じ。