碁会所を出て左右を見渡すと、普段帰宅する方向とは逆に、黒髪をなびかせて走っていく後姿を発見した。これなら追いつけるとヒカルも走ったが、意外に差が縮まらない。 (あいつ、碁ばっかで運動してないんじゃなかったのかよ) 足には自信のあったヒカルのプライドが燃え、まさしく全速力で逃げるアキラを追った。じりじり近づいていく背中が、何かの弾みでこちらを振り向く。ヒカルが追ってきたことに気づいたアキラは、ぎょっとして速度を上げようとしたらしいが――そこで限界だった。 ヒカルの手が、アキラの肩にしっかりかかる。 ようやく終わった追いかけっこ、しかしアキラは乱れた息のままヒカルを振り返ろうとしない。ヒカルもまた、肩で息をしながらアキラの肩に手を乗せて、そのまま動こうとしなかった。 やがて二人の呼吸が少しずつ落ち着いてきた頃、ヒカルはアキラを刺激しないように静かに口を開いた。 「あのさ……俺、お前とは昨日みたいに打たないって訳じゃなくて……たまたま社がオモシロイ碁を仕掛けてきたから、それにのっただけだぜ」 「……」 「お前の碁とはスタイル違うしさ。ホラ、社と打ったの今回が初めてだし、全然分かんない状態で打つのがまたちょっと冒険心くすぐったかなーなんて」 我ながら何のフォローにもなっていないことがよく分かったが、とりあえず何か話をつながなくてはとヒカルは焦っていた。 運良く平日の午後、碁会所からかなり走ってきたせいで住宅街まで来てしまったが、人通りはない。ヒカルはこのまま、少し離れたところに見える公園までアキラを連れて行こうとその腕をとった。アキラがそれを振りほどく。 あからさまに腕を振られてヒカルがむっとすると、アキラは俯いたまま小さな声を漏らした。 「……ボクが相手だったらあの対局はなかった。」 「え? そりゃ、当たり前だろ」 「違う、キミは気づいていない。ボクと打つ時のキミの碁とは明らかに違った、つまりキミはボクの知らない引き出しをまだ持っているということだ」 「???」 「ボクでは引き出せなかった……」 ヒカルはようやくアキラの言っている意味を理解した。 同時に、目の前で項垂れる黒髪が情けなくなってきた。 (バカかお前、勘違いするなよ!) 言い返したいがうまく言葉が見つからない。 アキラは碁打ちとしての社に嫉妬したのだ。確かに今のアキラとヒカルが対局しても、あんな運試しみたいな碁は打てないだろう。 だけど、明日のことなんて誰にも分からない。 社はアキラじゃないし、アキラも社ではない。 「お前……バカじゃねぇの」 「バ、バカ?」 アキラが顔を上げた。その頬は走ってきたせいか、その直前のやりとりのせいかほんのり色づいて、汗がしっとり額に髪を張り付かせている。妙な色気に不覚にもヒカルの胸がぎゅっと縮んだ。 「バ、バカだよ。普段頭いいくせに、なんで分かんねーんだ」 「バカバカってキミに連発されると腹が立つ」 こいつ、本当に俺に惚れてんのか!? ――思わずいつもの「帰る!」をこの場でやってしまいそうになったが、この可哀想で情けない猪をそのままにしておくのは気が引けた。 「あのなあ、そもそも俺が碁を打ち続けてるのは誰のせいだと思ってんだよ」 「……」 「俺らがまた一緒に打つようになってから半年くらいしか経ってねぇんだぞ。そんな簡単に俺の碁を完全発掘されてたまるか」 ヒカルはアキラの肩から手を離し、そのまま腕組みした。 アキラが呆けたような顔でヒカルを見つめている。 「大体そんなこと言うならお前だっておんなじだろ。今の俺と打っても新初段シリーズの座間先生の時みたいな碁はできない。一柳先生とやった時みたいな碁はできない。でも俺だってあんな碁を打ちてぇ」 「進藤……」 「俺たち、これから何百回も何千回も一緒に打つって言っただろ。今からお互いのこと分かりすぎてたらつまんねーじゃん。今は数える程度しか手がなくても、何年も経ったらもっともっと変わるかもしれねーんだぜ。それなのに、ちょっと知らない俺が出てきたからっていちいちへこんでたらどーすんだよ」 自分でも恥ずかしいことを言っているのは分かっているが、アキラにはこれくらいはっきり言ってやらないと分かってもらえない。なんたって超マイペースの暴走男だ。 まだ十五年しか生きていない自分たちは、心も身体も発展途上中だ。今日のヒカルは昨日のヒカルとは違うし、明日のアキラだって今日のアキラとは違う。 これから何度も何度も一緒に碁を打ち続けて、お互いの碁を全て理解してしまったら、そこで歩みは止まってしまうかもしれない。理解しきれないからこそ、打ち続ける意義がある。 ひょっとしたら、社との一局よりももっと危険な対局だって、二人でできてしまうかもしれないのだ。 目標は、彼方。 全力で走らなければ追いつけない相手がすぐそこにいるのに、出し惜しみなんてしていられない。用意しなければならない引き出しの数は、無限にあっても足りないかもしれない。 「だから……今からそんなにへこむなよ。俺、悔しいけどお前の碁好きだし」 これはちょっとサービスしすぎだったか、とヒカルが照れ笑いすると、それまで口を半開きにしてヒカルの言葉を聞いていたアキラの腕が、突然ヒカルに向かって伸びてきた。 ヒカルが飛びのくよりも早く、アキラの腕はヒカルの身体を捕まえ、そのまま激しい力で掻き抱く。 「ちょ、塔矢っ」 胸が圧迫されて息苦しいほどの抱擁。顔が押し付けられたアキラの肩口は、ほんのり男のニオイがする。軽く目眩がしそうな大人のニオイだった。ヒカルはもがこうとして、自分を抱くアキラの腕が指が微かに震えていることに気がついた。 「ボクが馬鹿だった……」 消え入りそうな声でアキラが囁くと、耳のすぐ傍で響く低い音がくすぐったくて、ヒカルは目を開けていられない。 「見たことのない対局で気持ちばかり焦った。だってボクにはキミしかいないのに、キミはボクが相手じゃなくても一人で高みを目指して行ってしまうんじゃないかって……」 アキラの声も僅かに震えている。でかい図体で、しかもこんな路上で何やってんだよ。そんなふうにふざけてしまえたらよかったのに、胸が苦しくて声が出ない。 「ボクは恥ずかしい。キミが好きだ、進藤、キミが!」 お前メチャクチャ支離滅裂だぞ。言い返せなかった。 無我夢中でヒカルを掻き抱いたままの力で、アキラが口唇を合わせてきたから。 「んーっ!」 声と一緒に呼吸も奪い取られた。 すっぽり包まれた口唇の中央目指して、生き物みたいに意志をもった舌がするりと下りてくる。歯を食いしばる暇はなかった。迷いなくヒカルの口内に辿り着いた温かいものは、怖気づいて小さくなっているヒカルの舌を誘ってくる。 力の入ったヒカルの舌が優しく突付かれ、思わず解いた緊張の後、一気にアキラの口の中までヒカルは引き込まれた。 絡み合うとはこういうことか。 舌と舌が離れる瞬間も逃さずに、口唇を啄ばまれ、また激しくアキラの口がヒカルを飲み込もうとする。粘膜の弱い部分を舌先で刺激されると、腰の辺りがむずむずと痺れてうまく立っていられなくなる。 ヒカルはいつしかアキラにしがみつくように縋り、きつく瞑った瞼がぶるぶる震えてしまって目を開くことができなくなっていた。 (おい、やべーってこれ……) キモチいい。 こんなキスしたことない。尤もキスはアキラとしかしたことがないから当たり前でもある。だけどこんな腰の砕けそうなキスをアキラがするなんて。 ――どこでこんなの覚えてきたんだよ、ムッツリスケベ。 全身から力が抜けて、もうどうにでもなってしまいたいような、考えるのをやめたくなるようなおかしな気持ち。 このまま流されてしまったら、きっと自分は首を横に振る事ができない。でも、それすらもどうでもいいような気がしてくる…… キキー、ドン! 静寂は呆気なく破られた。 弾かれたように二人の身体が離れ、音のした方向を見ると、自転車に乗った学生が電信柱に激突したらしい惨状が目に入る。 「……」 「……」 なんとも気まずい空気の中、ヒカルは真っ赤な顔で髪を掻き毟った。 (ゼッタイ見られた……) こんな住宅街、道のど真ん中、人目も憚らず男同士でベロチューかましてしまった。自転車の彼には心からお詫びしたい――ヒカルはすいませんすいませんと口の中で平謝りする。 あんな激しいキスの後、何を話そうか切り出しかねているらしいアキラにため息をつく。――あんなとんでもないことしておいて、今頃おろおろしたって遅いんだよ。被害者まで出してしまって。 いつまでも路上で困っているわけにはいかないので、渋々ヒカルが助け舟を出してやることにした。 「……お前、夕方まで時間あんだろ。碁会所戻りにくいし、お前ん家行こーぜ。続きやろう」 「続きをさせてくれるのか!?」 途端に鼻息荒くなった猪の頭を引っぱたく。ぱかんといい音がした。 「バカっ、検討の続きだよっ!」 進藤ヒカル15歳、まだまだ心も身体も子供に近いが、今日初めて知らなかった世界の扉に手をかけてしまったような気がする。――アキラの責任は重い。ヒカルはじっとりライバルの背中を睨みつける。 その後塔矢家では検討の続きが行われ、隙あらばイケナイことの続きも目論んでいたらしいアキラだが、ヒカルの見事なまでの鉄の防御に阻まれて想いを叶えることはできなかった。 北斗杯まであと少し、ヒカルにとってもアキラにとっても前途多難の道程は続く。 |
なんだか、ヒカルはあんまり変わらないというか、
アキラがヒカルのことを好きで好きでも
それをそこまで重たいもんだと思ってない
……といいなあと思っています。
(BGM:JEALOSYを眠らせて/氷室京介)