JUST A HERO






 この日、アキラは朝から落ち着かなかった。

 干していた洗濯物を取り込み、居間と客間に掃除機をかける。たぶん不使用だと分かっていたが、念のため自分の部屋にも掃除機を持ち込んだ。
 テーブルを始め、テレビや棚など目立つ埃もきっちり拭き取った。元々それほど部屋が汚れていたわけではないのだが、両親が留守にしてしばらく経った室内は、物を散らかさなくても薄汚れて、何となく男臭いような気がする。
 つくづく母親の存在は偉大だと再認識させられる。
「……こんなものだろうか」
 部屋の入口に立ち、中を見渡す。意外にも掃除というものは重労働だ。アキラは額に薄ら浮かんだ汗を手の甲で拭った。
 掃除機はともかく、拭き掃除なんて面倒なことを自らやったのは初めてかもしれない。年末のお手伝いならある。それから、最近では母の手の届かないところを頼まれたりもするようになった。ここ数ヶ月のアキラはまさに成長期なのか、著しく身長が伸びている。それでよくヒカルに悔しがられるのだ。
 むくれた顔のヒカルを想像して、アキラは一人頬を緩ませた。
 今日は、ヒカルが泊まりにくる。
 アキラにとってのヒカルの存在は友達以上で、それどころかしっかり恋愛感情として確立してしまっているが、ヒカルにとってのアキラは未だに恋人未満状態で、飽くまでも友情の域を脱しない。
 というより、張り切っているのはアキラ一人で、ヒカルは暴れ馬アキラの手綱を引いて宥めているに過ぎない。ヒカルが必要としているのは碁打ちの自分。アキラもそれがよく分かっているから、なるべく気持ちの無理強いはしないつもりだ。
 ただ、ちゃっかり何度かキスはいただいてしまっているが。
 そんなヒカルが塔矢家にやってくるのは、何も今回が初めてではない。客間でアキラと碁を打ったことも一度や二度ではない。両親にも、ヒカルがたまに家にやって来ていることは告げてある。
 アキラにとって重要なのは、今回初めてヒカルが泊まりにくるということだった。
 一度目にヒカルが訪れたとき、泥酔したアキラの介抱をさせられたせいで一泊するハメになったことがあったが、その時とは事情が違う。
 あの日は居間で、しかも床に座り込んで一晩を明かしたが、今回はあらかじめ宿泊だと分かっている。それも三日間。妙に身構えてしまうのも無理はない――
 そんなアキラの気合い虚しく、正確に言うとヒカルの宿泊とは「合宿」であり、更にヒカルの他に社と倉田というお邪魔虫もやってくる予定なのだが、その辺りはうまく脳内で消去してしまっているらしい。
 北斗杯を目前に控え、関西から上京してくる社からヒカルに連絡があった。一緒に打たないかとの誘いを合宿という形に変えて、どうせホテルに泊まって宿泊費をかけるよりは、と両親不在の塔矢家で集まることになったのだ。
 もちろん目的は碁を打ちまくることであり、北斗杯でぶつかる中韓の棋士たちの棋譜研究である。アキラも中韓選手の実力は聞き及んでいるし、中途半端な碁の内容ではまったく勝ち目がないこともよく分かっていた。
 出るからには勝ちたい。そのためには合宿にも本気で挑む。アキラの決意に嘘はないのだが、それとヒカルがやって来るのとはまた別な枠があるようだ。
「そうだ、玄関も掃いておこう」
 甲斐甲斐しく細かな掃除を続けるが、恐らく来訪者たちはこの家がアキラの手によって磨かれたなんて気づきもしないだろう。
 なにしろやってくるのは他に興味のほとんどない、碁バカばかりなのだから。



 ***



 二人の到着は思いのほか遅かった。
 玄関での声を聞きつけ、アキラがヒカルと社を迎えた時には完全に陽が落ちていた。
「迷った??」
 アキラは社の言葉に耳を疑う。
 迷うはずがない。ヒカルはもう何度も自力でここまで辿り着いているというのに。
 アキラの顔にその疑問がはっきり出ていたのだろう、目があったヒカルはバツが悪そうに顔を背けてしまった。アキラの眉間に皺が寄る。
 そもそも、ヒカルが社と二人でここまでやってくるのもあまり気に入らなかったのだ。
 アキラにとって社は、自分にない碁のスタイルでヒカルをわくわくさせる危険人物であり、今回の宿泊(「合宿」ではない)の邪魔者である。
「だから駅まで迎えに行こうって行ったろ?」
 嫌味っぽくヒカルに仕掛けてみると、
「地図があるから大丈夫だと思ったんだ!」
 ヒカルもやり返してくる。
 地図だと? 何度も来たことがあるくせに! ――更に言い返そうとしたアキラは言葉を区切った。
 なんとなく、ヒカルの様子がおかしい。
 とりたててどこがどうという訳ではないが、いつも以上に落ち着きのない視線がやけに気になる。
 まさか、ここに来るまでに社となにかあったのだろうか?
(それでこんな時間に?)
 アキラは社に意味ありげな視線をぶつけてみるが、飄々とした社はまったく気づいていないようだ。
 もう一度ヒカルを見るが、やはり少し表情が冴えない。
 何故? 問いたくても、社の前ではヒカルは答えてくれないだろう。
(……ボクの家に、初めて来たフリをしてる……?)
 社から、アキラの家に来たヒカルの存在を隠そうとしている?
 それで様子がおかしいのか?
 アキラは悶々としつつも、二人を中へ招き入れた。




 いざ、碁を打ち始めてしまえばアキラは容赦しなかった。
 二人きりの時には甘い言葉を囁きたくなっても、碁盤を前に向かい合えばお互いに一人の棋士だ。遠慮など必要ない。
 アキラに食らい憑いてくるヒカルと社を何度となくさばき、夜通し打ち続けてかなり頭も朦朧としてきた。さすがに心身に疲労を感じる。
(でも、幸せだ)
 碁ばかり打ち続けて、他のことを何も考えないでいられる空間に身を任せてしまえる喜び。
 頭から爪先まで碁一色、打ち、打たれ、何度繰り返しても違う形を選ぶ黒と白の広い世界。
 ヒカルと社の勝負勘は鋭い。打てば鳴るとはこのことだろうか、攻防は時に厳しくアキラを攻め立て、時にアキラの興味をひいた。
 押していた形勢がいつのまにか押し返され、それを更に押し戻す。駆け引きも上等、相手に手を読ませずに、相手の手を読み続ける。脳が痺れたような、一種のトランス状態が長いことアキラを襲う。
 ずっとこうしていたい。ずっと。ずっとって何?
 形のない時の流れに縋りたくなるほど、この刺激的な時間が心地よくて。
 ずっとこうして生きていけたら。ずっと。自分と。ヒカルと。
 そうして夜は明け、東の空が白々と闇を脱ぎ、三人とも交互に転寝をしながらそれでも碁石を握り続ける。  碁だけの時間――なんと贅沢な時間であることか。
 今更ながら、自分は碁打ちなのだと思い知らされる。黒と白の宇宙の中、アキラはこの夜何度も空を飛んだのだ。




 ***




 合宿二日目の夜、ようやくアキラたちは布団で寝ることを選んだ。
 徹夜も度を過ぎると無意味になってしまう。北斗杯本番に疲れを残さないよう、この日は早々に眠りにつくことになった。
 ヒカルと社は客間に布団を敷き、アキラはいつものように自室で眠る。本当はアキラも客間で寝たかったが、客間の広さではとても男三人川の字になることはできない。
 客間の様子が気になって寝付けない。アキラは何度も寝返りを打つが、その目は暗闇の中で見開いていた。
(……やっぱり進藤の様子がおかしかった)
 昨日からヒカルに感じた違和感、それは今日も同じだった。
 どこか落ち着かない様子だったかと思うと、時折何か考えているような難しい顔をしている。おまけに突然大将に立候補したりして、さすがに倉田や社もその異変に気づいているようだ。
 自分で言うのもなんだが、ヒカルの棋力は未だアキラに及ばない。しかし出鱈目に一番でなければ嫌だと駄々をこねるような、そんなくだらない我儘を言うタイプでもないはずだ。
 目標が遠ければ、死に物狂いで追いかけてくる。他でもないアキラを、そうしてヒカルは追ってきたのだから。
(何かあったんだろうか)
 アキラはあれから、隙を狙ってヒカルを問い詰めていた。
『迷ったってどういうことだ?』
 社の一言が妙に引っかかっていた。
 迷うはずのないヒカルが道に迷ったなんて。何度も来ているはずのヒカルが初めてきただなんて。
 ヒカルもアキラが尋ねてくることは分かっていたのか、少しふてくされたような顔を返してくる。
『何となく、初めて行くって言っちゃったんだよ。別にナンも意味ねぇし』
『……社君に知られたくなかったのか? 何かの弾みでばれるかもしれない、ボクがキミのことを――』
『そうじゃねぇよ! ……知られたってどうもこうもないだろ。俺は別にお前のこと恥ずかしいとか思わねぇもん。社は関係ねぇ』
 ヒカルは明らかに不機嫌だった。その落ち着かない瞬きの回数がアキラを焦らせる。
 社は関係ない。社が関係ないなら、他の何に関係がある?
『社君に対して後ろめたいから嘘をついたんじゃないのか?』
『だーかーら、違うって! 話の流れでそうなったの! それに迷ったのは本当だし』
『え?』
『考え事してたら一本曲がり間違えた。ここらへんって、ちょっと変なとこ入ったら全然訳分かんなくなるのな……』
 どこか遠くを見ていたが、アキラをごまかそうとするものではなかった、ヒカルの静かな目。
 嘘をついていないのなら、慣れた道を間違えるほどに何を考えていたのだろう。
(さすがに聞ける雰囲気じゃなかったな)
 ヒカルはそこまで話すと鬱陶しそうにアキラを追い払い、また碁に集中していた。碁盤に向かっている彼はいつも通りに見えるのだが。
(何故勝ちを焦っている?)
 アキラにも社にも、妙に急いで仕掛けてくる。尤もヒカルと一度局しただけの社は気づいてはいないかもしれない。些細だが、その小さな変化から感じられるものは負のイメージばかり。
 不安、怒り、恐れ……
 初めての国際棋戦を前に緊張しているのかとも思ったが、それにしても妙な感じだった。
 不安、怒り、恐れ、……哀しみ。
(何故哀しそうな目をするんだ?)
 誰よりもヒカルを見ているアキラだけが気づく、淡い色の揺れるヒカルの頼りなげな瞳。
 きちんと眠れているだろうか? ――そう思うと居ても立ってもいられなくて、アキラは布団を抜け出した。





原作突き合わせると妄想も甚だしいのが
よく分かってるんですが。
それにしても原作でさえ非常にナチュラルに
とんでもないアキラさんって本当に凄い。