KING OF BEAUTY






 動けなかったのは、心の何処かで「これは悪い冗談だ」と楽観していたからかもしれない。
 アキラがようやく深い息を吐き出すのと同時に強張った肩を下ろした時、すでに部屋からは完全にヒカルの気配が消えていた。
 一度息をつくと、荒い呼吸が次々に漏れて来る。アキラは開きっぱなしで乾いた目の痛みを堪えながら思い出したように瞬きし、何かを探すようにゆっくりと室内を見渡した。
 ――どのくらい時間が経過したのかよく分からない。数分か、ほんの数十秒か、それとも数時間か。
 だらりと頬に纏わりついた髪が鬱陶しくて、無意識に右手で払った。その時に頬に触れた指先が、思わず身が竦む程に冷たくて、アキラはまじまじと手のひらを眺める。
 冷えきった手のひらは、そのくせ表面にしっとりと嫌な汗を掻いていた。
 ふら、と一歩足を踏み出してみる。うまく動いてくれないのは、やはり思った以上に長いこと突っ立ったまま固まっていたせいだろうか。
 静まり返った部屋の中で、アキラが足を引き摺る音だけが耳障りに響いていた。
(まさか)
 身体を動かすと着ていたシャツが肌に擦れて、不快な汗で濡れていることを気付かされる。
(冗談だろう)
 べったりと肌にへばりつく衣服の気持ちの悪い感触をじっと堪え、アキラはゆっくりとリビングを出た。
 廊下には人の気配が全く無い。灯りも落とされたまま、シンと静まり返っている。
 アキラは静かにライトをつけ、目に優しいオレンジ色に照らされた廊下の木目をぼんやりと追った。
 そうして再び歩き始める。真直ぐに廊下を進み、突き当たって右へ、すぐそこにある玄関を見下ろしても、そこにはアキラが脱いだ革靴一足分しか置かれていなかった。
 靴を履きかけて、鍵を持っていないことを思い出す。先ほどのようにゆったりとした動作で鍵を取りにリビングへ戻る余裕があったのだから、やはり想像以上に頭は落ち着いていたのだろう。いや、感情が現実に追い付いていないのかもしれない。
 アキラは鍵を手に、一人部屋を出た。もうとっくに消えてしまった面影を追って、エレベーターへ向かう。
 エレベーターはアキラの部屋がある階とも、一階とも関係のない中途半端な階から呼び出された。それはつまりヒカルがエレベーターで階下へ降りてから他の住人が利用したということで、やはり随分時間が経っているだろうことを改めて思い知らされる。
 それでもアキラはやってきたエレベーターに乗り込んで、機械的に一階のボタンを押した。
 静かに降りて行くエレベーターの中で、アキラは不自然に目を見開いたまま何処ともつかない一点を見つめている。
(きっと、冗談だ)
 べたついた身体が無性に不愉快だ。
 一階に辿り着いたエレベーターから降りて、アキラはエントランスを出た。その途中、ヒカルがいつも飲み物を購入していた自動販売機にちらりと顔を向け、すぐに前を向いた。
 外の風は生温く、そのくせ服の隙間から執拗に入り込んで汗ばんだ身体を冷やして行く。
 アキラは覚束ない足取りで、駐車場へと歩いて行った。
 いつもヒカルが愛車を停めているそのスペースはがらんとして、ひゅうひゅうと風が葉っぱを巻き上げている。
 アキラはしばらくぽっかり空いたスペースの前で立ち尽くしていた。


 出て行った時と同じように鈍い足取りでリビングへ戻って来たアキラは、相変わらず妙に大きく開いた瞳のままでぼすんとソファに腰を下ろした。やけに重い身体を重力が力任せに引っ張ったような沈み方だった。
 ヒカルはここに座っていた。温もりの欠片も残っていないソファは、少なくとも彼が立ち上がってから数分といった時間の経過ではなさそうだ。
 ヒカルがマンションを出てから、きっと相当時間が経っている。
 アキラはぼんやりと時計を見上げた。……そもそもヒカルがこの部屋を訪れた時、何時であったのか覚えていない。
(悪い……冗談だ)
 アキラは背凭れを掴んでよろよろと立ち上がり、そうだ、と何かを思い付いたようにわざとらしく頭を振ってみせた。
 携帯電話がある。
 まず、連絡を取らなければ。
(酷い冗談だ)
 電話をしてみよう。落ち着いて、話をしようと切り出そう。
 ……何の話を?
(あれは、冗談だ)
 ソファから腰を上げたままアキラは再び動けなくなった。
 指先は相変わらず冷たく硬く、拭っても拭ってもべたついて気持ちが悪い。
(冗談……?)


 ――冗談じゃなかったら?


 さっと頭の血が下に向かって降りて行き、胸の辺りでじんわり不気味に弾けて行った。
 心臓を中心に全身がジンジンと痺れている。
 カタカタと、微かに震え始めた右手の指先をアキラは左手で押さえ付けるように握り締めた。
 ――まるで本気で告げていたようなあの瞳。
(冗談だ)
 迷いのない無の表情。きっぱりとした口調とやけに澄んだよく通る声。
(冗談だ、冗談だ)
 耳にこびりついて離れない忌々しいあの言葉。
「――そんなはずがない」
 カラカラに乾いた口が絞り出すように紡いだ音は、まるで別人のようにしゃがれた声になっていた。


 それまでの鈍い動作が嘘のように、ばたばたと騒々しく寝室へ飛び込んだアキラは、帰宅した時に置いたままだった鞄を探って携帯電話を取り出した。
 画面には何の特別な表示もない。――ヒカルからの連絡は入っていない。
 電話帳を呼び出すのももどかしく、アキラは迷わずリダイヤル機能でヒカルの番号を表示させて耳へ当てた。冷たい塊が耳に押し当てられる感覚がたまらなく不快だったが、そんなことに構ってはいられない。
 かん高いコール音が響く。……三回。四回。五回。六回。
 一回ごとに瞬きしながらアキラはごくりと喉を上下させた。
 十回。十一回。十二回……
 コール音は鳴り続ける。今か今かと途切れるのを待っているアキラの耳に、無機質な音を響かせ続ける。
 ふいに、ピーという聞き慣れない音が漏れて、アキラは咄嗟に携帯電話を耳から外してしまった。手の中の携帯の液晶画面は真っ暗になっている。一瞬何が起こったのか分からなかったアキラは、少しの間を経て、ようやく残量が少なかった充電が切れたのだと気付くことができた。
「くそっ!」
 苛立ちそのままに床に投げ付けた携帯電話はラグの上だったこともあり、ぼん、と鈍い音を立てて転がる程度の被害で済んだ。
 指先は未だに震えている。その震えが目障りで、アキラは口唇を噛みながら拳を握り締めた。
(……落ち着け)
 そう、落ち着かなくては。――アキラは無意識に荒くなっていた呼吸を、深く細い深呼吸へと変える。

 ……言い争いが、悪い方向へ飛躍しただけだ。
 ヒカルも、アキラも冷静ではなかったのだ。それで思わずあんな話になってしまったのだ。
 落ち着こう。ヒカルも今頃後悔しているかもしれない。
 そうだ、一晩経ったらヒカルのほうから謝りの言葉をかけてくるかもしれない。今まで、間違ってもあんなことを口にしたことなどなかったのだから。
 明日は手合いがある。ヒカルも棋院に来るはずだ。その時に顔を合わせて、目を見て話し合えば……きっとすぐに元通りの二人になれる。
 下らない喧嘩のひとつじゃないか……アキラは無理に口唇を釣り上げようとして、うまく行かないことに苦々しく顔を歪める。



 ならば何故、こんなに身体が震えるんだ!――



 落ち着こうと自らに言い聞かせながら、へたりとその場に座り込んだアキラは、ベッドにも入らず暗い寝室の中で一晩中そうして震えていた。
 ぎらぎらと見開いた目が時折瞬きをする程度で、その瞼は決して下ろされることはなく、やがて白々と朝の光がアキラの疲れ切った顔を照らし始めた。






若挙動不審になってきました。
ずっとブルブルしています。