KING OF BEAUTY






 鏡を見ると、酷い顔をした男がアキラと同じ仕草で覗き込んでいた。
 目の下のくっきりとしたクマに渋く眉を顰めたアキラは、頬をぱんと叩いて顔を洗い出す。
 ――ヒカルと話をしなければ。
 できるだけ、早いほうがいい。あんなやりとりの後、なるべく間は空けないほうがいい。
(最初はムキになるかもしれないけれど)
 髭を剃り、髪を整えて再び鏡を睨む。
(ゆっくり話し合えば、きっと大丈夫……)
 大股で寝室に入り、気持ちだけはてきぱきと着替えを済ませようとする。
 身体の震えは収まっていたが、やけに心が焦っていた。
 指先もとっくに震えてなどいないのに、シャツのボタンをかけるのに手間取って苛立ちは募って行く。
 些細な喧嘩なのだから、それほど大した問題じゃない。
 きっといつもみたいに分かり合えるはずだ。目を見て、抱き合えば体温と一緒に伝わって行く。
 胸にもやもやと巣食う負の感情を置き去りに、アキラは自分に無理にそう言い聞かせて身支度を整えた。
 最後に覗いた鏡の中のアキラは酷く青い顔をしていた。




 棋院ではいつも通りの風景が眼前に広がる。
 様々な年齢の棋士たちが挨拶を交しながら対局室へと向かっている。
 それらの人々の顔かたちがぼんやりと歪んで、どれもこれも粘土で作られた人形のようにしか視界に入って来ない。
 時折誰かに声をかけられたような気配があったが、そうと身体が反応する前にアキラの足は彼らを通り過ぎていた。振り向くための動作に思考が追い付かない、そんな状態だった。
 車の中から興味のない景色の流れをただ目に映しているように、全てが朦朧として形にならない。
 心臓は昨夜からずっと早鐘を打ち続け、収縮のしすぎて燃え尽きてしまうのではないかと思うほど。
 アキラはゆっくりと対局室へ進んでいた。
「よ、おはよ」
「おーおはよー和谷」
 ぎくりと胸が竦む。
 軽やかな声の明るい響き。
 背後で交される何の変哲もない挨拶は、アキラにその人だと知らせてくれているのに、途端に床に縫い付けられたように足が動きを止めてしまった。
 振り向かなくては、と脳に必死に指令を与えても、身体はストライキを起こしたまま。
 ふいに涼やかな風がアキラの横を颯爽と通り抜けた。

 靡く金色。

 目を見開いたまま立ち尽くすアキラを追い越して、その背中は少しもアキラに特別な反応を見せずに前へ前へと遠ざかる。
 声ひとつかけられなかった。
 アキラのこめかみを冷たい汗が滑り落ちていた。




 対局は酷い有り様だった。
 自分の持つ石が黒か白かもよく分からないまま、中途半端に囲碁のルールをプログラミングされた機械が適当に石を置いているようなものだった。
 呆然と薄く口唇を開いたまま、アキラは夕べからずっと離れて行かないある感情を押し殺そうと浅い呼吸を繰り返す。
 その度に、今朝見た振り返りもしない金色の気配が容赦なくアキラの弱い心をグズグズと刺した。
 せめて一言。声を交すことができたら。
 振り向いて、目を合わせてくれたら。
 何故彼があんなに怒ったのか? ――分からない。
 何故あんなことを言って出て行ってしまったのか? ――分からない。
 あの言葉は、……どういう意味だ?


 「別れよう」 だ なんて ……


「あの」
 対面で碁盤を囲む相手が、申し訳なさそうに小声でアキラに呼び掛けた。
 アキラは機械的に顎を上げ、しかし返事をすることまではできなかった。
「もう……終わりにしてもいいかな? その、……これ以上、続けても……」
 言われて、呆けた表情のままアキラは碁盤を見下ろす。
 デタラメに置かれた石はまるで繋がらず、何がしたいのかよく分からない。
 その意図不明な石は全て自分が置いたものだと気付き、アキラは彼の提案をようやく理解した。
 アキラは目を不自然に開いたまま、名前さえよく覚えていない相手に「負けました」と頭を下げた。
 その時だった、恐らく中押しで勝ったのだろう、対局室の端で立ち上がる金色の前髪がアキラの視界を掠めて、アキラも思わず立ち上がる。
 碁石の片付けも忘れて、ふらふらとその人影に近付こうと、やけに足の裏に柔らかく感じる畳を踏み締めた。
 対局室を出ようとするその影を必死で追う。それなのに、足はうまく動かない。まるでコントロールのきかない夢の中。霞む視界の中で凛と背筋を伸ばして歩いて行く背中を追いかけて――
 ふいに彼が立ち止まる。

 アキラの足も止まる。

「……!」
 ゆっくりと振り返ったヒカルは、何の感情の色も見せない無表情で、黙ったままアキラを見据えた。
 引き締まった口唇はぴくりとも動かず、眉すら揺れないその下の瞳の透明度の高い眼球。
 アキラは大きく目を見開いて、背筋が凍るような美しささえ感じるその顔に射竦められた。

 ――こんなキミは知らない――!

 ヒカルは無言のままにアキラから視線を逸らし、再び前を向いて歩いて行く。
 アキラはただ立ち尽くしていた。
 足元からがくがくと震えが身体を昇って来る。
 押し殺そうとしていた嫌な感情が、胸を伝い脳に働きかけ、アキラの身体の隅々まで支配しようと舌舐めずりをする。
 いつのまにか顔から滴り落ちていた汗が、ぽたりと床に染みを作っていた。






 どうやって帰宅したのか、よく覚えていない。
 気付いたらマンションのリビングで、灯りもつけずにソファに腰を下ろしていた。
 浅く荒い呼吸がふと耳障りになって、無意味に口元を拭う。
「認めない」
 誰に聞かせるでもない言葉は酷く弱々しい。しかし怖じ気付いた勇気を無理矢理にその言葉で奮い立たせたのか、アキラは立ち上がってテーブルに置いたままの携帯電話を手に取った。
 ヒカルの番号をコールする。
『おかけになった番号は電波の届かないところにいるか電源が入っていません』
 一度切ってもう一度コールする。
『おかけになった番号は電波の届かないところにいるか電源が』
 もう一度。
『おかけになった番号は電波の届かないところに』
 もう一度。
『おかけになった番号は電波の』
 狂ったように何度も何度も機械の音声ガイダンスを聴き続けたアキラは、やがてぎりりと口唇を噛んでメールに切り替えた。
 ――連絡して欲しい。話がしたい。
 ――電話してくれ。もう一度きちんと話そう。
 ――お願いだから。
「認めない」
 ――ボクはこんなにキミを愛していて。
 キミだってボクのことを好きでいてくれた。
 好きだと言ったはずだ――
 送っても送っても反応のない携帯電話を握り締めてどのくらい時間が経っただろう。
 身体を着々と蝕むその感情を、アキラは振払うように頭を何度も振った。
 情けなくも足は震えたままで。


 動けない。
 動けないのだ。
 無理に彼の家に押し掛けようにも、この足が竦んで動かない。


『俺が、冗談を言っているように見えるか』

 ――あの目を向けられるのが、怖い……

 ビク、と肩を竦めたアキラは思わず自分の身体を抱き締める。
(認めちゃ駄目だ)
 震えは全身を這いずり回り、指先から口唇までがたがたと揺らして行く。
(認めたら、ボクは……)
 抵抗し切れないマイナスの感情。
 それは、アキラが愛する人に対して初めて感じた恐怖だった。
 愛する人が去って行く恐怖。それはアキラの心の根をしっかりと握り締め、その身体を縛り付けようとしていた。






思わず「お前が電波だ」とツッコまずにいられません。
だんだん気付かざるを得なくなってきました。