来る日も来る日も、電話をかけてもメールを送っても。 何一つ反応が返って来ないまま、時間だけが刻々と過ぎて行く。 朝起きて。水を口に含んで。仕事をして、帰宅して、携帯を手に暗闇に座る。 かろうじて人としての生活を成り立たせているのは、往生際悪く「認めない」と繰り返す自己暗示のお陰だったかもしれない。 生活といってもその大部分は考えて行動しているものではなく、その場その場で適当に身体を動かしているだけといったおざなりなものだったため、仕事の面ではしばしば障害が出ることもあった。 そのフォローすらどうしていいのか分からず、アキラは困惑の日々を送り続ける。 ヒカルとの連絡は取れない。 棋院で姿を見かけても、身体が竦んで動かなくなる。ヒカルも決してアキラを振り向こうとしなかった。存在すら彼の意識から抹消されてしまったような、それほどヒカルの態度はきっぱりとしていた。 それなのに、彼を求めて追い縋ることができない。 子供の頃に純粋な気持ちで彼を追っていた、あの時のアキラに恐れるものなど何もなかった。 だが今は違う。「恐怖」というものに片足を突っ込んでいる。そこから足を引き上げようともがくのに、泥濘にはまった足首はしっかりと何かに掴まれて動けなくなっていた。 気を抜けば、そのままずるずると引き込まれて行く。 それだけはさせない、とアキラは今日も「認めない」とまじないを呟く。 恐怖を感じていることを認めてはならない。 認めてしまえば、今度こそ完全にヒカルを失ってしまう。 時間だけが過ぎて行く。 *** 風が気怠い熱を膿み始めた七月。 本因坊リーグ第六戦、塔矢アキラと進藤ヒカルの対局は予て注目の的となっていた。 片や青龍、片や白虎と謳われた若手の二大看板。先の北斗杯ではそれぞれ大将を二分し、その伯仲した実力でどんな展開を見せてくれるだろうかと週間碁による記事は踊っていたが。 実際、人々は必ずしも文面通りに受け取ろうとはしていなかった。 不調著しいアキラは負けが続き、対してヒカルは全ての棋戦で着実に勝ち進んでいる。 対局前から結果は出ている、と嘲けるように肩を竦める輩も少なくはなかった。 その日は朝からずっと、冷たい汗で全身がべたついていた。 久しぶりに会った人間なら、アキラが面窶れしたことがよく分かっただろう。窪んだ瞳には覇気どころか生気もなく、額に青い影を纏って対局室に現れたアキラを見て、関係者は一瞬声を失ったようだった。 用意されていた碁盤の前に正座し、まだ姿を見せていない対局相手を祈るような気持ちで待つ。 あれから言葉を交すことはおろか、顔すらまともに見てはいない。 アキラは自分でも驚く程身動きが取れず、この一ヶ月ろくな行動を起こすことができなかった。 縛り付けられたような手足は震えるばかりで役に立たない。 ヒカルがアキラの呼び掛けに応えることはなかったし、アキラも呼び掛ける以上の行動は取れないまま、現状を否定し続けるだけでこれまでじっと耐えて来た。 このリーグ戦では顔を合わせざるを得ない。ヒカルもそれは承知の上だろう。 恐怖に支配されることを怯える頭が、小さく「これが最後のチャンスだ」と囁いていた。 (最後?) 今や自分は審判を待つだけの存在に成り下がったのだろうか? 「おはようございます」 澄んだ声がさして広くもない和室に響き渡る。 アキラは知らず脇を引き締めていた。 入り口で二言三言関係者と言葉を交したらしい声の持ち主は、ゆっくりと畳を踏み締めてアキラの横を通り過ぎ、その対面に腰を下ろす。 あぐらをかくために俯いた彼の前髪がはらりと垂れて、金色が誇らし気に揺れていた。 アキラは微かに顎を震わせてその髪の隙間から覗くだろう顔を見つめようとした。口の中に溜まる唾液が不愉快で、ごくりと飲み下すと思った以上に喉が大きく上下する。 アキラの目の前、碁盤を挟んだその場所に腰を据えたヒカルは、毅然と顔を上げた。 ひゅっと息を吸い込んだまま、アキラはそうして凍り付く。 ――その目…… 真正面からアキラを見据えるその顔に、最早恋人としての情はない。 きっぱりと構えたなだらかな肩には確かな力強さが、そして穏やかながらもしっかり見開かれた瞳には勝負師の色が。 全身から立ち上る気迫がまるでオーラとして目に見えるようで、神聖ささえ感じるほど。 その禁欲的な美しさがアキラを圧倒する。 ――その目は…… アキラは正座したまま、傍目には気付かれない程僅かに後ずさりした。 勝負にならないことは直感で分かった。雰囲気で気圧されていてはそれ以前の問題だ。 ――キミは……本気で……? 認めまいと強がっていたささやかながらも儚い願いは、一ヶ月振りに顔を合わせたヒカルを前にカラカラと惨めな音を立てて崩れ始める。 怯んだ心の亀裂から、恐怖という感情が蛇のように入り込んで来る。 全身を伝い、手足や指の自由を奪って、恐怖がそれに気付いた身体を支配しようと鎌を擡げた。 「時間になりました」 言葉ひとつ交すことも適わなかった。 その目を見つめ返すことさえできなかった。 はっきりと分かった、ヒカルの真意。 冗談などとごまかすことが、もうできない。 ――ボクは……見限られた…… 「お願いします」 低く告げたヒカルの声が、アキラの耳を裂いた。 *** どうすればよかったのだろう。 どこからおかしくなってしまったのだろう。 ヒカルが全てだった。あの存在がこの狭い世界の全てを象って、腕を広げて彼の身体を包む、小さな空間だけが傍にあればそれでよかった。 どうしてヒカルは離れていったのだろう。 何故あんなに怒っていたのだろう。 今はもうアキラを見ても眉ひとつ動かさない、二度とあの笑顔は戻らない。 がたがたと身体が震え始めた。 灯りをつけないリビングで、ソファの側面に背中をつけ、アキラは小さく蹲っていた。 抱えた膝はしっかり抱いていないと震えてどうしようもなく、目だけがやけにギラついて闇の中をうつろに彷徨っている。 身体が動かない。ここから一歩も動けない。 自分で造った二人だけのこの場所から、どうしても動けない。 冗談紛れにもしも別れ話をされたら、なんて仮定の元に、きっと自分は大騒ぎするだろうという酷く事態を楽観した予想があった。 しかし実際はこのザマだ。指先一つまともに動かせず、小さくなって一人でぶるぶると震えている。 あるはずがないと思っていた。こんなことは起こり得るはずがないと。 『明日のことなんか誰にも分からねえだろ』 『お前が信じてるものは絶対とは限らねぇんだ』 彼が本当に目の前から消えてしまうだなんて、そんなことが。 (進藤が……消える……?) ――俺が突然消えたらどうする―― ――俺がいなくなったら―― (ボクの前から……消える……?) 美しく澄んだあの目がアキラを見ている。 ――ボクの世界もそこで終わりだ―― 「あ……、あ……」 膝を抱える腕をもどかしく解き、何かを握ろうとしたのか関節のまがった指で両手のひらを顔に向けながら、短い呼吸と共に漏れ始めた小さな声が引き金だった。 あ、あ、と言葉にならない声が出る度に口唇は顎ごとがくがく震え、それを押さえようと不格好な指が顔を掻き毟る。 首を竦め、丸めた背中を震わせながら、何かに怯えるようにアキラは視線を上下左右へと走らせた。 ふと、ソファの前方、テーブルの下にひっそりと転がっている小さな欠片を見てアキラは目を剥く。 それは、ずっと存在を否定し続けた、ヒカルが置いて行ったこの部屋の合鍵だった。 甘く閉められたカーテンの隙間から漏れる薄明かりが、やけにくっきりと厚みの少ない鍵に黒い影を引かせている。 アキラの中で何かが弾けた。 「あ――」 自らの絶叫に耳を塞いだアキラは、そのまま意識を失った。 |
ようやく自覚するまで辿り着きました。
事の重大さに気付いたようです。
アキラ地底編スタート。
(BGM:KING OF BEAUTY/Mansun)