かけがえのない人






 森下の研究会は混乱のままお開きとなり、ヒカルが棋院を出てすぐに電話をかけようと取り出した携帯電話は、何か操作をする前に今まさにかけようとしていた相手からの着信を知らせてきた。
 ヒカルは慌てて通話ボタンを押し、歩きながら携帯を耳に当てる。
「もしもし? 塔矢?」
『今、大丈夫?』
 ヒカルがアキラの名前を確認してすぐに聞こえたアキラの声は、予想に反してやけに淡々として、口調こそやや早口であったけれども、いつも通りの声に聞こえた。
「大丈夫。あ、あのさ、今、棋院で聞いた……先生のこと」
『……そうか。それなら話が早い。そのことで少し……』
「塔矢、今家? 俺、これからお前ん家行くよ。いい?」
 やけに落ち着いて感じるアキラの声が、かえってヒカルの胸を締め付けた。無理をしているのではないだろうか? せめて顔を見て元気づけてやれたら――自分がそう考えるのは思い上がりだろうかと自嘲めいた囁きが耳を掠めるが、聞こえてきたアキラの返事はそんなヒカルを安堵させた。
『……分かった。待ってるよ』
「うん、急いで行く」
『気をつけて。……ありがとう』
 穏やかな声色の礼を最後に、電話を切る。
 ヒカルは素早く携帯電話をポケットにねじ込み、一秒でも惜しいというように走り出した。
 アキラは今、自宅に一人きりだ。
 声にはあまり感情を出していなかったが、きっと不安なはずだ。
 行洋が倒れたのは二度目。――一度目の時は、本当はヒカルとの対局があるはずの日だった。
 精神力の強いアキラが、心の乱れを理由に手合いを休んだ。後にも先にも、そんな理由で対局を避けたのはあの時一度きりだ。
(お正月に会った時、元気そうだったのに)
 あの時は大事に至らなかったが、今回は遠く離れた中国からの知らせだ。直接様子を見に行けないもどかしさがあるだろう。
 大切な人を失う怖さなら、ヒカルもよく知っている。
(……塔矢先生、何でもないといいな)
 焦りが鼓動を高めていく。




 アキラと電話を切ってから三十分後、ヒカルは息を切らせて塔矢邸の前に立っていた。
 チャイムを押してからしばしの間があり、中から人の気配がして、すぐに玄関の引き戸が開かれる。
 予想していたよりずっと穏やかなアキラの表情がそこにあり、何故かヒカルは胸の痛みを覚えた。
「早かったね。そんなに急がなくてもよかったんだよ」
 そう言って微笑みすら浮かべてヒカルを迎えたアキラを見て、ヒカルは胸から溢れる愛しさが堪えきれなくなり、そのまま飛びつくようにアキラの身体を抱き締めた。
 咄嗟の行動にアキラの身体が一瞬だけ強張ったが、すぐに同じ強さで抱き返してくれる。ヒカルは自分より少し身長の高いアキラの頭を、掻き抱くように腕を伸ばした。アキラの額がヒカルの肩に押し付けられる。
 少しの間、二人はそうして玄関口で抱き合っていた。やがてアキラがヒカルの背中を優しく撫で、そっと身体を離して頬に小さくキスを落としてきた。
「……ありがとう、進藤。ボクは大丈夫だから」
「塔矢……」
「さ、中に。少し散らかってるけど」
 アキラに手を引かれ、通されたアキラの部屋は、確かにいつもの整然とした景色とは様子が違っていた。
 数日分はあると思われる服が畳の上に引っ張り出され、部屋の中央には……大きめのスーツケース。
「中国、行くのか?」
 見た瞬間、ヒカルは尋ねていた。
「ああ。急だったけど、明日の便がとれた」
「……先生、そんなに悪いのか?」
 恐る恐る尋ねたヒカルに、アキラは安心させるような微笑を見せて、「大丈夫だよ」と告げた。
「軽く発作はあったみたいだけど、今は落ち着いていると連絡があった。正月疲れが抜けないまま向こうに渡ってしまったから、無理が出たのかもしれない」
 その言葉に、ヒカルはほっと肩の力を抜いた。
「そうか……落ち着いてるんだ、よかった」
「ああ、心配かけたね」
 アキラは床に膝をつき、畳まれた服をスーツケースに詰めながら話し続ける。
「急な出発だけど、キミには伝えておきたくて。念のため、様子を見に行くだけだから。母も心配だし」
「うん、行ってあげたほうがいいよ」
「父のことだから、元気になったらまた無茶をしでかすかもしれない。釘を刺してくるよ」
 そう言って笑ったアキラに、ヒカルもようやく安堵の笑みを浮かべる。
 ふと、離れた場所から電話の音が聞こえてきた。
 アキラは立ち上がり、軽くため息をつく。
「さっきからひっきりなしだ。ちょっと出てくる」
「うん、いってらっしゃい」
 電話をとりに部屋を出たアキラを見送り、残されたスーツケースをまじまじと見つめる。
 アキラのことだから、取り乱したりすることはないだろうとは思っていたけれど。想像以上に冷静に、自分のすべきことをこなしている。
 自分だったら、とヒカルは仮定した。
 もしも両親のどちらかが倒れたりしたら、どうだろうか。
 きっと酷く動揺するだろう。今まで、万が一にもそんなことを考えたことがなかったから。
 自分は一人息子なのだからしっかりしなければと思うが、今目にしたアキラのような表情を作れるとは思えない。
 しかも行洋が倒れたのはこれで二度目だ。不安でないはずがない、それなのに気丈に振舞うアキラの器用さが辛くて、愛しかった。
「忙しかったかな……?」
 自分が来ることで少しでも気持ちが和らげばいいと思ったのだが、突然決まった中国渡航のためにアキラはなんだか慌しそうだ。
 仕方がないだろう。行洋が倒れたとなれば、各関係機関からの問い合わせも多いだろうし、中国に行くためには忙しいアキラ自身のスケジュール調整も工面しなくてはならない。見たところあまり準備が進んでいないのは、ひっきりなしと言っていた電話の応対に追われていたからではないだろうか。
 何かできることがあったらしてやりたいが、何も思いつかない。こんな時、多少の料理でもできれば夕飯くらい作ってやれるのだが。
「そうだ、何か晩飯買ってきてやるかな」
 それくらいなら自分でもできる、と思いついた時、電話を終えたアキラが戻ってきた。
「ごめんね、慌しくて」
「いいよ、忙しい時に来て悪かったな。俺、何か食べるもの買ってこようか?」
「ああいいよ、昨日適当に作ったものが残ってる。……よかったらキミも食べていく?」
 アキラの提案に、ヒカルの顔がぱっと綻ぶ。
「いいの?」
「うん、あまり美味しくないけど」
 アキラの謙遜に、ヒカルは知ってるよと笑った。むっとしたフリをするアキラの肩をぽんと叩いて、ヒカルは台所へと足を向けた。
「俺、セッティングしててやるよ。お前は明日の準備してな」
「でも」
「いいって、鍋あっためるくらいなら俺でもできるよ。お前忙しいんだからさ、俺にもなんかさせて」
 そう言って部屋を出ようとしたヒカルは、振り返った先のアキラの、少し眉を垂らした慈愛に溢れる笑顔を見て、思わず動きを止めた。
「……いてくれるだけでいいのに」
 そう、聞こえた気がした。
 その安らかな声の響きがあまりに小さくて、ヒカルは確信が持てないまま「え?」と聞き返した。アキラは笑って首を横に振るばかりだった。
 何となく照れ臭くなって、ヒカルはアキラから顔を逸らして足早に台所へと向かう。
 妙にドキッとするような笑顔だった。
(俺、少しは支えになってるのかな)
 ――やっぱり、アキラも本当は不安なんだろうか。






アキラ中国へ。
身長はアキラ>ヒカルが理想。