かけがえのない人






 ヒカルはもう何度も来たことがある塔矢家の台所に辿り着き、ガス台に置きっぱなしになっている鍋のフタをとって、中を覗き込んだ。何やら芋を煮たようなものが入っている。
 隣の鍋には味噌汁。炊飯器を開けると冷えたご飯も残っていた。
「充分じゃん」
 これをアキラ一人で作っていたのかと思うと、なんだか感動的ですらある。まあ、見るからにごつごつした芋の切り方など多少ダイナミックすぎるきらいもあるが、なんの男らしさと言ってしまえばそれまでだ。
 去年の夏辺り、一時期頬がこけるまでに痩せたアキラだが、両親不在の間もきちんと自炊するようになってからはすっかり元通りになった。
 作る料理は簡単なものが多いようだが、米すら満足にとげないヒカルにとってはあまりにレベルが高いものに見える。
(アイツ、一人で何でもできるようになっちゃったな)
 そういえば、この家はいつ訪れても綺麗に片付いている。
 アキラの性格ゆえかもしれないが、もしヒカルがこれだけ広い家を任されたとしたら大変なことになるだろう。
 その上、手合いや出張の仕事をこなして、その棋力が衰えない辺り、並大抵ではないアキラの努力が伺える。
 ――俺とはえらい違いだな。
 自嘲気味に呟いて、ヒカルは小さく苦笑した。
 自分の碁さえもままならない俺とは。
「……やめよう」
 今は碁のことを考えると表情が暗くなりそうだった。ヒカルはぺちぺちと軽く頬を叩き、味噌汁の鍋を温め始める。白飯は茶碗によそって、このままレンジでチンでいいだろう。煮物は小鉢に……
 質素さが戦後の食卓のようでもあるが、アキラが作ったものなので文句は言わない。しかし、アキラは明日からしばらく中国に行ってしまうのだから、残しておかないほうがいいだろうと山盛りに盛った芋はなかなか圧巻である。
 案の定、食卓に現れたアキラはその極端な盛り方に吹き出していた。
「凄いな」
「だって、残さないほうがいいかと思ってさあ」
「そうだね。キミ、頑張って食べてくれよ」
 勿論、と答えたヒカルの向かいに、穏やかに笑うアキラが腰掛ける。
「向こう、いつまでいんの?」
「検査結果も聞きたいから……少なくとも一週間はいることになると思う。早く戻れるにこしたことはないけど」
「もう棋院には連絡したのか?」
「ああ、スケジュールの調整があるからね。今週は大きな仕事がなかったから幸いだった」
 先ほどから何度も電話の音が聞こえていた。その都度丁寧に受け答えしていただろうアキラは疲れの色を見せない。
 それでも心労は少なくないだろうと、ヒカルは出来る限り明るく振舞った。アキラが味付けしたちょっと薄い味噌汁とちょっと濃い芋の煮物を食べながら、今日の研究会での話題など、気分転換になるような話を途切れないようにし続けた。
 ふと、アキラが箸をとめてじいっとヒカルを見つめているのに気づき、ヒカルも動きを止める。
「……進藤」
「な、何?」
 ふいに真剣みを帯びた声に、ヒカルも思わず身構えた。
「……迷惑でなければ泊まっていってくれないか」
「え……」
「キミといると、……落ち着く」
 その時、短く息をついたアキラの伏せた目の中に、僅かに頼りない光がぼんやり揺れたような気がした。
 その様子に、ヒカルは逆に安堵を覚える。
「……分かった」
 なるべく明るい声の調子はそのままで、何でもないことのようにヒカルは返事をした。
 来てよかったと、今は確信できた。
 不安がないはずがない。遠く離れた場所で、大切な家族が苦しんでいる。連絡は受けていても、実際に状況を目に出来ないもどかしさがあるだろう。
 アキラの疲弊した心を癒してあげたい。
「よし、食べたら俺が後片付けしてやるよ。お前、準備の続きしてこいな」
「でも、悪いよ」
「いーのいーの! お前のしょぼい料理ごちそうになったお礼だよ」
「それがお礼を言う人間の言葉か?」
 アキラが眉尻を下げて笑った。ヒカルも悪戯っぽく笑い返した。



 ***



 それから後も次々入る電話に追われながら、アキラは明日の準備を少しずつ進めていった。
 後片付けを買って出たヒカルは、慣れない茶碗洗いで何度も手を滑らせかける恐怖に怯えながらも、無事に二人分の食器を洗い終えた。
 その後は、ヒカルもアキラの準備を手伝った。アキラのパスポートをまじまじと見つめて、ヒカルは写真の中の今より少し幼いアキラに顔を綻ばせた。
「すげえな、お前パスポート結構前からとってたんだ。」
「ああ、プロ入りした時にね。中学を出てしまったら身分を証明するものがなくなるだろう? キミも取っておくと便利だよ」
「う〜ん、外国行くようになったら考える。俺はそれより運転免許が欲しいな〜」
 それから二人でアキラの荷物の指差し確認を行って、無事にスーツケースを閉じた頃には真夜中近くになっていた。
 アキラの部屋にもう一組、客間からよいしょと布団を運んできて、ぴったりくっつけて二組の布団を敷く。
 いつもだったら一組あれば充分なんて邪まなことを考えてしまうが、今日はさすがにそんな気になれなかった。アキラもそれは同じだったようで、ヒカルの提案に特に反対することはなかった。
 二人並んで歯を磨き、眠る支度をしていると、この広い家で二人だけの家族になったような錯覚を覚える。
 しかし、アキラの大事な父親は今海の向こうで苦しんでいるかもしれない。
 異国の地でそれを支えている母親の心痛を思うとヒカルまで胸が痛くなる。
 今すぐにでも飛んで行きたいだろうに、時間と距離がそれを簡単に許さない。
 焦燥感はヒカルだけのものではないに違いない。

 布団に入る頃には、電話も鳴らない時間になっていた。
 並べた布団にそれぞれ入り、どちらともなく伸ばした手が触れ合った。緩く握り締めたアキラの指先が少し冷たいとヒカルは思った。
 静かな夜。この家はいつも静かだ。
 こんなに広くて静かな家で、長いこと一人で暮らしているアキラは偉いな、とヒカルは暗闇の中で瞬きをする。
(でも)
 ――泊まっていってくれないか
 今日ばかりは、一人でいたくなかったのかもしれない。
 やはり、今日はここに来て正解だったのだ。僅かでも憂鬱な考えから気が削がれることになれば。
「……進藤、起きてる?」
 ふと、隣から囁くような呼びかけが聞こえてきた。
 ヒカルは振り向かずに、「ん?」と返事をする。
「今日は……ありがとう。わざわざ来てくれて」
「……なんだよ、水臭い言い方すんなよ」
「でも、ボクを気遣ってくれたんだろう?」
 そんなふうに言われても、そうだなんて頷けない。
 返事に困っていると、微かにアキラが笑ったような振動が伝わった。
「……思ったより落ち着いてるだろう?」
「え? い、いや……その、……うん」
 ヒカルの素直な反応に、先ほどよりもはっきりアキラは笑い声を出した。
「自分でも驚くほど落ち着いている。一連の対応に疲れたという自覚はあるけど、不思議と……あまり不安は感じてないんだ」
 やんわり手を繋いでいたアキラの指に少し力がこもった気がした。
「……正直、まだ実感が沸かないんだ。父が倒れたというのが、どんな意味を指すのか」
 アキラは、暗い天上を睨んだまま淡々と語り始めた。
 二人は目も合わさずに、ただ仰向けに横たわって、繋いだ手のひらだけに温もりを感じている。
 触れ合っている部分はそれだけなのに、想像以上に確かな熱だった。
「父は大丈夫だという漠然とした自信がある。四年前、初めて倒れたと聞いた時はそんなふうには思えなかった。心臓なんて、生き物の核になる部分だしね。怖かったよ。……でも今は、あの父がこのまま死んでしまうなんて考えられないんだ」
「……どうして?」
「今、父は好きなことをして暮らしている。好きな碁を追求する自由を許された。それでも、まだ父は満足していない……ボクには何となく分かる」
 アキラはそこまで一気に喋った後、ふうと息をついた。
 少しの間を置いて、再び口を開く。
「そう、あの父がやりたいことを全てやらないうちに死んでしまうだなんて考えられない。あの、我儘で子供みたいな父が」
 ヒカルは少し笑った。
「先生にそんなこと言えるのお前くらいだな」
「母もね」
 アキラも小さく笑い返す。
「そんな漠然とした理由で……本当は根拠も何もない自信を信じていて……もし、父に万が一のことがあったら、ボクは自分を愚かだと思うんだろうな……」
「塔矢」
 ヒカルがアキラの指を包み込むように指先を絡めた。
「大丈夫だよ。そーゆー時のカンは当たるんだ。お前は自信持って、親父さんに会いに行けよ。大丈夫。きっと大丈夫だ」
「……だといいな」
「大丈夫だって」
 ふふっと笑ったような吐息が隣から聞こえてくる。ヒカルが耳を澄ましていると、アキラの気怠そうな声が途切れ途切れになり始めた。
「……キミの手、暖かいな……」
 気づけば、握った直後は少し冷たいと感じたアキラの指がいつの間にか暖かくなっている。
「キミが来てくれて……よかった……」
 とろとろとまどろみに招かれ始めたようだ。
 自分より先にアキラが寝てしまうのは珍しいと、ヒカルは暗闇に目を細めた。
「きっと……大丈夫、……、ボクは、……見たんだ……」
 ヒカルが軽く首を傾げた。しかしアキラは気づいていないだろう。
 恐らく、アキラの瞼は開いたり閉じたりしているに違いない。
「お父さんは……待ってる、……との……対、局……だから……きっと、まだ……」
 掠れた声は寝息に変わった。
 ヒカルは闇に目を見開いていた。
 落ち着いていた心臓が、にわかにドクドクと身体の奥底から血流に勢いを増すように力強く脈打ち始める。
 よく聞き取れなかった。……だから自分の聞き間違いかもしれない。
 明日、アキラに聞いたところで覚えていまい。たとえ覚えていても、教えてはくれないだろう。意識がはっきりしている時に、アキラが迂闊なことを漏らすはずがないから。
 アキラはアキラのすべきことがあり、今は疲れて眠っている。これ以上余計な心配をかけたくない。
 ならば自分は何をすべきか。
(――俺にできること……)
 ヒカルは眉を顰め、やがて目を閉じた。
 ……今はいい。今は、アキラを眠らせてあげられた。
 今夜はこれで役目を果たした。明日からアキラと離れている間、自分は自分なりに走り続ければいい。
 行洋が無事であるように、強く強く祈りを込めた。
 もう少し、時間が欲しい。
 まだ、貴方に逝ってもらっては困るんです。
 俺に、役目を果たさせてください。……それまで、どうか無事で……




 繋いだ手をきつく握り締めて。







 翌朝、手合いがあるため空港まで見送りに行けないヒカルは、塔矢家の玄関でアキラと別れることになった。
「気をつけて行ってこいよ」
「ああ、向こうに着いて落ち着いたら電話するから」
「いいよ、電話高けぇじゃん」
 アキラは愛おしそうに目を細めて、そっとヒカルに顔を近づけてきた。
 ヒカルが目を閉じると、やがて口唇が柔らかいものに包まれる。
 激しさはなかったが、長いキスだった。
「……先生によろしく伝えて」
 口唇が離れた後、ヒカルは少し掠れた声で囁く。
 アキラは頷き、もう一度、ヒカルの額にキスで触れてくれた。
 ヒカルもまた、軽く背伸びをしてアキラの額にお返しのキスをする。
 アキラが無事に着きますように。
 行洋が無事でありますように。
 ヒカルからのキスを受けて、アキラはこれ以上ないほど美しく微笑んだ。






アキラ寝惚けました。珍しい……
行洋が倒れた情報は実は昼くらいから入っていて、
それからずっと飛行機の手配やらスケジュール調整やら
関係機関からの問い合わせの対応やら疲れてたみたいです。
料理スキルはまだいまいちです。