かけがえのない人






「……ありません」
 対局開始のブザーが鳴り響いてから僅か一時間足らずで、碁盤を挟んでヒカルの向かいに座っていた男が頭を下げた。
 碁石を打つ音が印象的に響く対局室で、ざわめきの声すら上がらなかったものの、空気が感嘆の色を含んで僅かに揺れた。
「ありがとうございました」
 一礼したヒカルは立ち上がり、風を切るように対局室を横切った。何人かの視線がその姿を追っているのが分かる。
 三段が七段に対し、驚異的なスピードで中押し勝ち――字面を追えばそれは快挙とも称されるだろう。
 しかし、ヒカルの背中を追い立てる焦りは拭えなかった。
 自分でも、ピリピリと神経が張り詰めているのが分かった。出口の見えない迷路には制限時間が迫っていて、おまけに闇雲に走るのではなく最短距離でクリアしなければならない、その焦燥感。
 焦ったってどうしようもないと何度も自分に言い聞かせるが、形だけは納得した傍から胸は不安に襲われている。
 すぐには強くなれない。そんなこと、初めて囲碁に触れてからすでに五年が経過したヒカルにはよく分かっている。
 それでも、求めているのは強さだった。
 昨日の自分より、今日の自分は目に見えて強くなければならない。そんな思いがヒカルの碁を急がせる。
 一年前のような出鱈目な碁を打つわけには行かなかった。自分のことしか考えられなかったあの時に比べて、今背負っているものはまさに碁の化身。何より碁を愛した彼を貶めるような棋譜は残せない。
 かつて自分の背中を守ってくれていた、その大きな存在を意識しながら握る碁石は酷く重い。彼がどれだけ一手一手に魂を込めていたのか、今ならよく分かる。
 それだけに、心身の消耗も激しかった。
 勝っても勝っても心が休まらない。
 あの偉大な影に、僅かでも近づけているのかが分からない。
 何年経っても追いつけないのではないかという怖れが喉を締め付けるように纏わりつく。
 今日明日でどうにかなるようなことではないと、理解してはいるのに……



 帰宅して、自室に戻ってリュックを下ろすと、そのまま身体も床に引っ張られるように尻をついてしまう。
 一局一局に全集中力を研ぎ澄ませるため、疲労が次々に蓄積されていく。そしてそれを発散させる方法が、ヒカルには分からなかった。
 これまでも集中はしていた。しかしそれはヒカル自身の集中力だった。
 今は、ヒカルの中にあるかつての彼の力を強く表に出そうとしているため、並ではない精神力が必要だった。
 あれから数え切れないほどの佐為の棋譜を手にした。毎晩、いや、毎日時間さえあれば、自ら棋譜に起こしたものも含めると、本当にどれだけ目を通したのか分からない。
 その中で息づいている確かな佐為の存在を感じると安心するのに、自分一人で碁盤に向かうとそのまま佐為を見失いそうな気がした。
 佐為が傍にいた間、一体自分は何をやっていたのかと思う。
 そして佐為が消えてからの間、何をやっていたのかと。
 佐為の棋譜を洗い直そうとすればするほど、いかに自分の一手が中途半端だったかを思い知らされる。確かに佐為の影響を受けていながら、時に動きの定まらない一手は相手次第で好手にも悪手にも化ける。自分の力ではコントロールし切れていない。

『モノマネ』

 緒方の言葉は正しい。
 今の自分はたかがモノマネレベルなのだ。
 佐為の一番近くにいながら、モノマネ碁に甘んじてきたのは他でもない自分自身だ。
 佐為の意志を継ぐのは自分しかいない。しかし伝えるべき佐為の碁は、実に中途半端に自分の中で燻っている。

 ――saiの棋譜を見たよ

 昨日、初めてアキラを伴わずに芹澤の研究会に訪れた。
 そこで芹澤に言われた言葉が耳から離れない。

『進藤君はsaiに詳しいようだったね。少しは影響を受けているのかな? 君の打ちまわしに似たものを感じたよ』

 端から見れば、所詮その程度のもの。
 中途半端なモノマネレベルで、誰が佐為の存在を信じてくれるというのだろう……

 ヒカルは尻をついたまま膝を立て、足の間に顔を埋めるように蹲った。
 ――アキラに逢いたかった。
 アキラが中国に発ってからすでに五日。未だに連絡はなかった。
 電話はしなくていいとは言ったが、音沙汰がないと不安になる。
 無事に着いたのだろうか、行洋の容態はどうなのだろうか。
 アキラの強さが愛しい。あの腕に強く抱かれて、何も考えられなくさせて欲しい。
 何も聞かずに抱き締めてくれたら、疲れた心がいくらかでも休まるだろうか。


 逢いたい……





 階下から自分を呼ぶ声がする。
 最初は聞こえないフリをしてやり過ごそうかとも思ったが、呼んでいる内容に「電話」という単語が含まれていることに気づいてヒカルははっと顔を上げた。
 部屋を飛び出し、転がるように階段を駆け下りる。
 廊下で電話を持った母親が目を丸くしていた。
「なあに、騒々しい」
「電話、誰から?」
「塔矢く……」
 母親が皆まで言い終わらないうちに、ヒカルは受話器を奪い取った。
「もしもし!?」
『進藤?』
 聴こえてきた低い声に、ヒカルの胸の中央で凝り固まっていたものがじわりと解けていった気がした。
 声を聞いただけで涙が出てきそうだった。こんなに心が弱っていた今だから特に。
 母親が、呆れたようにため息をついて居間へ戻っていく。その背中を見届けてから、ヒカルはそっと囁くようにその名を呼んだ。
「塔矢……」
 自分でもびっくりするほど甘ったれた声だった。
 母親の前で呼ばなくて良かったと心底安堵する。
『連絡が遅くなってすまなかった。こっちに着いてからちょっと慌しい日が続いて……』
「いいよ、そんなの。忙しいのに気にしてくれてありがと」
『元気かい?』
 五日前に会っていたというのに、何年も会っていないような聞き方をするアキラを愛しく思った。
「元気だよ。お前は? ……先生は?」
『ボクは元気だ。父も、落ち着いているよ』
 その言葉に、ヒカルはほっと息をついた。
「そっか……よかった……」
 まだ検査結果は出ていないのかもしれないが、落ち着いているというなら心配はいらないのだろうか。
 ひょっとしたらアキラもすぐに帰ってくるかもしれない……
『それで、帰国なんだけど』
「う、うん」
『実は、もう一週間ほど延ばそうかと思って』
「え……」
 ヒカルはそう呟いたきり詰まった言葉を搾り出せなかった。
 ごくりと唾液を飲み込んだ音がアキラに聞こえてやしなかっただろうか。すうっと足下へ下がっていく血の感覚が寒々しく、ヒカルは思わず両手で受話器を握る。
『心配しないで。こっちで思った以上に母が大変そうだったから、もう少し手伝いをしたくて。一度帰国してしまえばそう簡単にこっちには来れなくなるし』
 アキラが言葉を選んでいる。そう疑ってしまう自分がいる。
「だって、お前、……来週、名人戦の三次予選……」
『仕方ないよ、また来期に勝ち上がるさ』
 明るい調子のアキラの声に作り笑いが含まれているような気がする。
 父が持っていた名人というタイトルに、アキラは他のどのタイトルよりも固執していたはずだ。軽い調子で「勝ち上がる」だなんて、それがどれだけ大変かアキラ自身もよく分かっているはずなのに。
 ヒカルは、頭に浮かぶ嫌な考えを拭いきれない。
「塔矢……、先生、大丈夫……?」
『父は大丈夫だよ。進藤は心配しなくていい』
 嘘だと、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 心配する要素が本当にないのなら、わざわざ心配するななんて言うはずがない――ヒカルはそんな歪んだ見方をしてしまう自分に嫌気が差した。
 それをアキラに言ってどうなるというのだ。
 もしもアキラの言葉が嘘なら、理由があってのことのはずだ。
 そう、ヒカルを心配させないために。
 ヒカルが頼りないから?
 ――いいや、アキラは自分一人で抱えられる問題と判断したのだ。
 アキラにはそれだけの強さがあるから……
『進藤?』
「あ、う、うん、……分かった」
『来週末までには戻るよ。こっちで楊海さんにお会いしたんだ。北斗杯前だから出し惜しみされたけど、いくつか凄い棋譜を入手したよ。帰ったら検討しよう』
「うん、そうだな……」
 ヒカルは努めて明るい声を出そうとした。
 あまりわざとらしくならないように。聡いアキラはすぐ感づいてしまうから。まるで近頃の一局を再現するかのように、全神経を尖らせて。
 身体に気をつけてと、くれぐれもアキラの両親によろしく伝えてくれるよう頼んで、ヒカルは受話器を静かに置いた。
 ……早く帰ってきて欲しいだなんて、言い出せなかった。



 ***



 森下の研究会に向かう少し前、事務局に用事だと寄り道をした和谷を廊下で待ちながら、ヒカルは険しい表情でため息をついた。
 会うなり、和谷に「体調でも悪いのか」と聞かれた。何故か問うと、顔色が良くないと怒ったように返された。
 ――お前、快進撃続いてるけどさ。ちゃんと休んでるか?
 曖昧に笑い返すと、和谷はやはり怒ったような顔になった。
 休んでるかと聞かれたら、……正直頷ける状態ではない。
 追われるように打ち続け、頭だけがやけに冴えている。そんな状況では眠りも浅く、また寝る間を惜しいと思っている自分もいる。
 酷い状態だというのは自分でも分かっていた。一度碁盤に向かってしまえば相当な神経を使う。心身が消耗しているのに、ぐっすり眠れないものだから身体に反応が出てもおかしくないだろう。
 このまま潰れたくはない。
 しかし思い通りにいかない身体を、酷使することしか今は思いつかない。
 頭の中に溢れている佐為の棋譜。すでに棋譜の一枚一枚が定石だと言わんばかりに指が石の並びを記憶している。
 しかしそれでは駄目なのだ。棋譜並べをしても意味がない。

 ――ただ人形のように打つのではなく、私の一手一手に石の流れを感じなさい――

 あの頃、佐為が背中を守ってくれていた時は何の苦もなくできたことが、今はこんなに難しい。
 あの時もっと、全身をそばだてておくのだった! ――後悔をするにはあまりに遅すぎる。

 事務局のドアから和谷が出てくるのが見え、ヒカルは壁に凭れていた背中を浮かせた。
 和谷はヒカルを見つけて「お待たせ」と告げ、並んで研究会が開かれる部屋へと向かい歩き出したその時、
「……塔矢先生、あまり容態良くなさそうだぜ」
 前を向いたままの和谷がぼそりと呟いた。
「え……?」
 和谷を振り向いたヒカルは表情を強張らせ、その続きを何故? と目で尋ねた。和谷はそんなヒカルの視線をちらりと横目で読み取り、苦い表情で眉を寄せる。
「事務局で、ちらっと話聞こえてきてさ。外部には極力漏れないようにしてるみたいだから、お前も誰にも言うなよ」
「良くないって……、まさか、危ないとか……」
「そこまでじゃないかもしれないけど、まだ退院の目処はついてないみたいだ。……塔矢、確か中国行ってんだよな。大変だな、アイツも……」
 ――足元が、カラカラと小さな音を立てて、少しずつ少しずつ崩れていく。
 気付かないうちに、足場はこんなに少なくなっていた。
 もう背後に道がない。あまりに時間を無駄にしすぎた。
 心臓が破れるまで走っても、望む場所に追いつけるかどうか……


「先、生……」


 まだ逝かないで欲しい。
 何も聞かずにいてくれた貴方の期待に、ずっと応えたかった。
 俺はまだ、貴方に佐為を会わせてあげられていない――




(いいや)

 いいや、まだ。
 ――まだ!

『あの父がこのまま死んでしまうなんて考えられない』


 信じよう。
 アキラの言葉を。
 行洋は必ず戻ってくる。彼がこのまま死んでしまうなんて、そう、彼が佐為との対局を待たずに死んでしまうだなんてあるはずがない。
 行洋だけではない、佐為を待っている人はたくさんいる。
 彼らの願いを叶えられるのは、――自分しかいない。



 ヒカルは目を閉じ、微かに眉を顰め、そして開いた。
 その目に映る懐かしい背中。
 心の覚悟は出来た。後は身体がどこまで追い付くか。




『進藤君』

『saiともう一度打たせてくれ』

『もう一度』



 ……ええ、必ず。
 必ず、俺が――








ヒカルなりの結論が。
予想通りの展開です。
(BGM:かけがえのない人/河村隆一)