杞憂






 その日は朝から気温が高く、太陽が真上に上がる頃にはうだるような暑さがゆらゆらと景色を揺らす程になっていた。
「勘弁してほしいよなあ。よりに寄ってこの夏一番の暑さだなんてよ」
「まったくだなあ。おまけに今日の取材場所はクーラーの望み薄な地味なところだしなあ」
 じりじりと焼ける石段を昇りながら、二人の男はそんな会話を交わしていた。
 一人は肩に一般に普及しているものよりはやや大きめのカメラをぶら下げ、記者風のもう一人が持つショルダーバッグは何が詰められているのか傍目にもずっしり重そうに見える。
 二人は顔の汗を拭いながら、足取り鈍く石段を上がっていった。
 石段の途中で振り返ると、背後には空の青と山々の緑が美しいコントラストを描いていた。
「見ろよ。絶景だな」
 絶え絶えの息の中そう呟いた男は、写真家としての本能をくすぐられたのか景色に向かって持っていたカメラを構える。
 数回シャッターを切り、もっとよいアングルが欲しくなったのか、カメラを構えたままじりじりと位置を変える。そして傍にあった岩の上に脚をかけた時、もう一人の男がからかうように声をかけた。
「おいおい、それ墓だろ。上に乗るのはマズイんじゃないのか」
「どうせ誰も見ちゃいないって……人っこ一人いやしない。地味な場所だからなあ」
「まあ、それもそうか……、おい、誰か上から来るぞ」
「え? うわっ……」
 墓に乗っていた男は慌てて飛び降り、もう一人の男も一緒にその影に隠れた。
 これから向かう予定の記念館の関係者だとしたらまずい。
 こんな罰当たりなところを見られてしまったら、棋聖と名高い本因坊秀策の取材に差し支えるかもしれない。
 しかし現れた人影は、二人の存在には気づいていないようで、何事か言葉を交わしながらゆっくりと石段を下りて来た。二人は墓の影でほっと胸を撫で下ろす。
「よかった、バレてなかった」
「あんまり羽目外すなよ。……あれ、あの二人見たことあるな」
「うん?」
 墓の影から小さく顔を覗かせ、ゆっくり石段を下りて来る青年二人組に男たちは目を凝らす。
 カメラを抱えていたほうの男が、あ、と小さな声をあげた。
「囲碁の棋士だろ。なんだっけ……ほら、若手でトップ争ってる」
「あーあー、今回の取材資料で見たな。えーと、……そうだ、塔矢アキラと……進藤なんとかだ」
「まだ十代だろ。やっぱトップ棋士は違うね、若いのにこんなつまんないとこ見に来るんだ」
「丁度いいじゃん、ちょっと取材させてもらおうぜ。『囲碁の関係者も多く訪れる場所』なんて紹介ができる」
 そうだな、と頷いた男はカメラを改めて構え直す。
 記者風の男が立ち上がろうとした時、すでに若い棋士たちは墓に隠れている二人の前を通り過ぎ、その背中が遠ざかろうとしていた。呼び止めようと口を開きかけた瞬間、金色の前髪を持つ青年の身体ががくりと揺れた。
 あっと息を呑んだ二人だが、黒髪の青年が彼の腕を咄嗟に掴み、どうやら足を踏み外しかけたらしい青年を引っ張り上げる。
 よかった、転げ落ちずに済んだ――安堵する二人の男が見ているとも知らず、間一髪を助けられた青年は腕を取られたまま黒髪の青年を振り返る。
「え」
 記者風の男はその様子を呆然と見ていた。
 カメラを抱えた男は、カメラマンの性なのか、条件反射とも言える動きでカメラを構えていた。
 シャッターを切る音が耳障りな蝉の声に掻き消される。
 視界もぶれるような暑さの中、容赦なく太陽に照り付けられながら、流れる汗もそのままにそこだけ時が止まっていた。



















 ……ヒカルとアキラのキスシーンの写真が週刊誌に載ったのは、それから一ヶ月後だった。














 ***






 風を切って髪を靡かせ、真っ直ぐに正面だけを見据えて廊下を進むアキラの表情は険しかった。
 すれ違う人間が振り返る。単にアキラの剣幕に驚いただけではない、好奇な視線が含まれているのは気のせいではないだろう。

 ――やだな、あれはほんの冗談なんですよ〜。

 アキラは微かに眉を寄せながら、棋院の廊下を突き進む。

 ――まさか記者の人がいるなんて思わなかったし。ちょっとふざけたんです。友達同士でよくやるでしょ? あ、理事長はそういう遊びはしませんでした?

 口唇を引き締め、一心に何処かを目指して歩いているらしいアキラの様は、怒りの様相とも見て取れた。

 ――コイツいっつも澄ました顔してるでしょ。ちょっとからかったんですよ。まあ気色悪いかもしんないけど、友達だし、ジュースの回し飲みと同じようなもんですよ。ホント、それだけなんです。迷惑かけてすんません。

 昼の打ちかけ時間に棋士たちが集う休憩室の前で足を止めたアキラは、その扉に手をかけた。

「まいったっつーの、マジで。運悪いよなあ、おかげですっかりホモ扱いだよ。サイアク」
 聞き慣れたあっけらかんとした声が響いてきて、アキラは思わず動きを止める。
「でも理事長に呼び出されたんだろ? 大丈夫だったのかよ?」
「もーふざけてゴメンナサイってひたすら謝ってきたよ。おかげで謹慎は免れたよ、厳重注意食らったけど」
「お前もなあ、シャレんなんねえ相手に馬鹿やるからだよ。あんな堅物相手に、マジっぽくとられても仕方ねえだろ」
「んだよ、門脇さんだって酔っ払ったらキス魔になんのにさー。なんなら和谷、お前にもチューしてやるか?」
 聞くに堪えない会話が我慢できなくなり、アキラは扉にかけていた手に力を込めた。
 がらっと開いた扉に視線が集中する。
 戸の付近で院生時代からの友人と出前の昼食をとっていたヒカルも、同じく扉を開けたアキラを見上げた。
 アキラは険しい顔つきのまま、じっとヒカルを見据える。
 休憩室には十数人の棋士がいたが、アキラの顔を見るなりシンと静まり返ってしまった。
 沈黙を破ったのは、不躾ともとれるヒカルの悪びれない声だった。
「よーう。お前も災難だったなあ? んだよ、まだそんなコワイ顔して」
 その口調に、張り詰めていた空気が解れる。
 しかしアキラは表情を緩めなかった。
「……進藤、話がある」
「あん? またかよ。どうせ小言だろ、「キミは棋士としての自覚が足りなさ過ぎる」――」
「いいから来い」
 有無を言わせないアキラの口調を聞いて、ヒカルはやれやれと肩を竦めた。
「……ったくもー、うるせーヤツ。和谷、戻ったら残り食うからそのままにしといて」
「お、おお……」
 隣で丼を手にしたままの和谷が躊躇いがちに頷いた。
 アキラは立ち上がるヒカルを認め、休憩室にくるりと背を向ける。ヒカルがついてくる気配を確認しながら、厳しい表情のまま休憩室を後にした。




「……なんだかんだでみんなあーゆーネタ好きなのな。さっきの休憩室、こっそり話伺ってるヤツ大勢いたぜ」
「……だからってああいう言い方をする必要があるのか?」
「しょうがねえだろ? あーやってごまかしちまうしかねえじゃん。ふざけてました、スイマセンって言ってりゃそのうち皆忘れるよ。あー、それにしてもドジったよなあ」
 他に人の気配のない空き部屋の、奥の隅にどっかりあぐらを掻いたヒカルは、未だ神妙な顔つきのアキラを見上げて言った。
 面倒臭そうに頭を掻く様子に緊張感は見られない。
「キミは……平気なのか。あんなふうに茶化すことが……」
「だから、しょうがねえだろって。面白おかしく話したほうがいいんだよ。耳障りだろうけど、もうちょっと我満してろ」
「ボクは……」
 ヒカルはふいに顔を顰め、不機嫌そうに口唇を引き締めた。
 それからアキラに向かって両腕を伸ばす。
 来い、と言われていることが分かったアキラは、ヒカルの前で膝をついた。
 立て膝のアキラの身体を、ヒカルの腕が包み込む。
「心配すんな。……ちゃんとお前のこと愛してる」
「進藤……」
 ヒカルの腕に抱かれながら、アキラは苦しそうに目を細めた。
 そのまま目を閉じると、瞼の裏に今もくっきりとあの日のことが浮かんでくる。
 眩暈を起こしそうなほど暑い日の、ヒカルと二人だけの旅行。
 因島への不思議な旅――







本編の二人とはちょっと違ったアキヒカで。
因島の様子はヒカ碁の単行本や他のサイト様の
旅行記を拝見してイメージで書いたので
かなり微妙だったらすいません……