杞憂






「なあ、広島行かねえ?」
 裸のままベッドにごろりと寝そべったヒカルが、ふいにそんなことを言い出した。
 その隣で同じく裸とはいえ、下半身には申し訳程度にタオルケットをかけていたアキラが瞬きをする。
「広島?」
「うん。来週さあ、珍しく二日かぶるだろ、俺らのオフ。そん時」
「……また急な話だな。何故広島に?」
「んー? お前と一緒に行きたいんだよ」
 ヒカルの返事は決してアキラの質問にきちんと答えたものではなかったが、「お前と一緒に」と言われて悪い気はしない。
 ――旅行か。それもいいな。
 アキラは微笑み、仰向けに寝そべっているヒカルの顔を覗き込むように顔を寄せる。
「……いいよ。行こうか」
「マジ? ……サンキュ」
 はにかむように笑ったヒカルが、軽く口唇を突き出すような仕草を見せる。
 アキラは優しく目を細めて、その口唇をちゅっと吸った。
 十六歳の時から続いているアキラとヒカルのこんな関係は、もう二年目を迎えていた。
 その間にヒカルは家を出て一人暮らしを始め、アキラといえば未だに実家暮らしではあるものの、留守がちな両親のためにほぼ一人暮らしと言っても差し支えない。
 その夜はアキラがヒカルの暮らすアパートに出向いていた。
 いつものように一局打ってから、どちらが誘うでもなく肌を合わせてベッドになだれこみ、ひとしきり汗をかいた後にだらだらと寝転がっていた時だった、ヒカルが突然広島へ行かないかと言い出したのは。
 枕話にしては冗談めいたところのない提案に、アキラは少し驚いていた。
 何しろヒカルは公の場でのつきあい方に随分気を遣っていたのだから。
 いつのことだったが、アキラも家を出ようかとヒカルに話したことがあった。広い家に一人でいるのが寂しくなった訳ではないが、自分だけの空間があれば今より自由にヒカルと過ごせるかもしれない、なんて安易な考えだったことは否めない。ところが、甘いアキラに対してヒカルは強く反対した。
 家を出なければならない必要性がないのに一人暮らしなんかを始めたら怪しまれる。何処から関係がバレるか分からない。それがヒカルの言い分だった。――彼は意外にもそういうところは徹底して慎重だった。
 親は勿論、友人の誰にも勘付かれないように振る舞う。ヒカルの提案するその方法は案外単純だった、アキラよりも家族や友人との約束を優先すれば良いのだ。それはアキラにとっては当然喜ばしいことではなかったが、二人のためだと言われると何も言えなくなってしまう。
 ごくたまにヒカルがアキラの家に訪れたとしても、夜の交わりは避ける。少しでも痕跡が残る怖れを失くすためのようだった。
 ヒカルの部屋で、二人だけになった時に流れる甘い空気は、それ以外の時間とは比べようもない程優しいものだと言うのに。
 そんな、悪い言い方をすれば少し神経質にも思えるヒカルの防衛策を歯がゆく思うこともあるのだが、「周囲に関係を悟られたら終わり」というのもあながち言い過ぎではないためにアキラもじっと耐えていた。
 棋士としてのイメージは想像以上に重視しなければならなかった。棋力だけではスポンサーの影響色濃い囲碁界に居座ることはできない。
 ましてやアキラは世界に名だたる元名人の塔矢行洋の一人息子。……ヒカルの言うことはもっともだった。
 こそこそしているのは性に合わないが、そうしなければ世間に許されない。いっそどちらかが女だったら、なんて無意味なことはなるべく考えないようにして、アキラは制約の中、できるだけヒカルと一緒にいられる時間を作った。勿論ヒカルの機嫌を損ねないよう、周りに怪しまれないように気を使いながら。
 ヒカルからの旅行の誘いは、日々人目を気にし続けていたアキラにとっては酷く嬉しいものだった。
 友人同士だって、旅行くらい行くだろう。それに、棋院ではライバル同士として評価されるアキラとヒカルは私生活でもそこそこ仲が良いと思われていた。休日が重なったのはほんの偶然だし、それほど妙に勘ぐられることはないはずだ。
 アキラは旅行を酷く楽しみにしていた。








 ヒカルの目的が、広島観光というよりは本因坊秀策に関係しているということに気づいたのは、ヒカルが旅行先に「因島」という言葉を出したためだった。
 聞き覚えのある島の名前を聞き、アキラは記憶を掘り起こした。――そう、かつてヒカルと秀策の関係が気になって秀策について調べた時、かの棋聖の記念館があると知って興味深く思った土地だ。
 ひょっとしたら、ヒカルは彼の秘密の一端に触れさせてくれるつもりなのだろうか。胸が高鳴った。アキラは未だにヒカルの謎について話をしてもらっていない。身体を重ねるようになってからも。
 いつかは話してくれるかもしれないと、期待し続けているのはなるべくヒカルに悟られないようにしている。話してもらえるのなら、彼のタイミングで話して欲しかった。
 いや、話してくれなくてもいいのかもしれない。ヒカルとアキラを繋ぎとめている大切な鎖。一生このまま、謎を秘めた彼を抱き締めているだけでも構わない――そんなふうに思い始めることが多くなってきた。
 一泊二日の短い旅行。それがこんなに楽しみだなんて、子供染みていて可笑しくなってしまう。
 僅かに、指先に触れる程度のものでも、秘密を共用できるのだと思うと――残った謎の部分が更に愛しくて、嬉しくなった。












 ***











 あの記事が掲載されてすぐ、アキラはヒカルと共に理事長直々に呼び出された。
 先に情報に早い芦原から記事について連絡はもらっていたので、心の準備は出来ていた。
 ただ、ヒカルとの打ち合わせはろくにできていなかった。
 どんなふうに弁解するつもりだったのか、ろくな考えもなかった。
 とにかく、ヒカルを守らなければ。
 ただそれだけしか頭になかった。


 しかし、部屋に入って最初に口を開いたのは、ヒカルのほうだった。



 ――どーもすいませんでした、騒ぎになっちゃって。

 ――やだな、あれはほんの冗談なんですよ〜。




 ……悪びれない口調に少なからずショックを受けていた自分がいた。












 記事自体は小さなものだった。
 いくら雑誌などの取材が増えてそれなりに知名度が上がってきたとはいえ、芸能人でもない二人がそこまで世間で大きく騒がれるはずもない。
 ただ、関係機関が受けた衝撃は小さくはなかったようだった。
 写真は遠めに撮影されており、ほぼカメラのほうを向いていたヒカルの目元は黒く消されていたが、よく晴れた日だったせいもあり、金色の前髪が鮮明に写っていた。アキラは斜め後ろからのアングルだったとはいえ、特徴的な髪型のせいでごまかしようもない。
 見出しはこうだった。
『囲碁界のアイドル棋士、禁断の恋!?』
 安っぽく見られたものだと苦笑した。
 まるで顔だけで売っているかのような言われ方。
 面白可笑しく記事を書くのが彼らの商売とはいえ、未成年相手にやってくれるものだ。
 ……未成年とはいえ社会人。
 自分たちの特殊な立場を痛感した……。






 中国にいる父からはまだ何も連絡がないが、いずれ弁明しなければならない日が来るだろう。
 その時に、ヒカルのようにごませるかどうか自信がない。


『ちょっとからかったんですよ。まあ気色悪いかもしんないけど』

『運悪いよなあ、おかげですっかりホモ扱いだよ。サイアク』




 ――最悪……






 それがヒカルの本心ではないかなんて――自虐的なことを薄ら考えてしまう。








回想と現在がころころ変わって読みにくいかもしれませんね。
アキラ視点のせいか夏の話なのに何だか鬱々と……