杞憂












 ――うち、来る?








 短いメールだった。














 久々に訪れたヒカルのアパートは相変わらずひっそりとしていた。
 交通の便は良くても、棋院に近いとは言い難い。
 ヒカルがこの場所を選んだのは、飽くまで人目を避けるためだと知っているアキラの胸には苦いものが広がった。
「よう、おつかれ」
 アキラを出迎えたヒカルは笑顔だった。
 誰にでも見せる人懐こい笑みではない。アキラの前でのみ見せる微笑み。それはとても嬉しいことのはずなのに、アキラの心は晴れなかった。
 ヒカルの心が何処にあるのか分からずに。
「……、塔矢?」
 いつもと違う気配を察してか、ヒカルが笑顔のまま伺うような目をアキラに向ける。
 アキラはほんの僅かに眉間に皺を寄せ、重い口を開くことにした。
「……誰かに話してみないか?」
「え?」
「……ボクらのこと。誰かに、相談してみよう……答えが欲しい訳じゃない。でも、世の中に一人くらいボクらが「そう」だと知っている人がいてくれれば」
 いてくれれば――
 その続きは告げられなかった。
 ヒカルの表情が敏感に強張ったから。
 アキラは懸念していた様子を直に見ることになり、小さなため息をつく。
「……駄目だ」
 ヒカルは低い声でそう呟いた。
「駄目。絶対ダメ。何処からバレるか分かんねえって何度も言ってるだろ。どんなに信用できるやつだって本音は分かんねえんだから」
「でも、ボクらには……救いが必要だ」
「救い……?」
「ピンと来ないなら、……逃げ道と言い換えてもいい」
 ヒカルの額にさっと影が走る。
 アキラは晴れない表情のまま、顔色を変えたヒカルをじっと見下ろしていた。


 ――何処かに逃げ道が欲しかった。


 誰よりも愛する人と想いを通じ合わせることができてこんなに嬉しいはずなのに。
 人の目を気にして、悟られないよう隠れて、誰からも祝福されずに二人だけの愛を育てる。
 一度表に出てしまえば、恋人としての顔を捨てて、あんなに大切に育てた愛情を全力で否定しなければならない。
 ヒカルはそれが辛くないのだろうか?
 このまま耐え続けられるのだろうか?
 あんなふうに、酷い言葉で他人に対して笑い飛ばす彼は、本当にその歪みを受け入れられるのだろうか?




 あの、因島での軽やかで楽し気だったヒカルの足取り。
 きらきらと眩しく光る太陽に真直ぐ目を向けていた、優し気な眼差し。
 何かから解放されたかのような笑顔。




 本当は、ヒカルもまた辛いのではないだろうか?
 本当はもう耐え続けられないのではないだろうか?
 二人の関係を茶化すことも、ほとぼりが冷めるまで逢うのを憚ることも、久しぶりにこうしてアキラと向き合った時に見せた嬉しそうな笑顔も、もう何が本当のヒカルの心なのか分からない。
 逃げ道が必要なのは、寧ろヒカルのほうではないだろうか……?




 しばらく続いた二人の睨み合いは、鼻で笑ったヒカルが顔を逸らしたことで終局した。
 その嘲笑に似た笑いはアキラを苛立たせた。
「何を笑ってる? ボクは真剣に言っているんだ」
「だから笑ってんだよ。……お前、俺から逃げたいのか」
 床をじっと見据えたままのヒカルが早口でそう言うのを聞き、アキラは片眉を訝し気に持ち上げた。
「何だと? ボクが言ったのはそういう意味じゃない」
「でも、そういう意味だろ。二人で抱えてくのがしんどいから、逃げたいんだろ。俺から逃げたいってことじゃねえか」
「違う、ボクは……! ボクは、キミがあんなふうに、……ふざけた調子でボクらのことを吹聴して回るのが耐えられないんだ! キミは平気なのか? あんな……あんなことを平気で……」




 甦る数々の言葉。




 ちょっとふざけたんです。
 気色悪いかもしんないけど。
 すっかりホモ扱いだよ。
 お前も災難だったなあ?……


 サイアク。――最悪。




 少しの翳りもなく、馬鹿話の一環として何でもないことのように言って回る彼の笑顔に不自然さは見られない。
 真剣に愛し合っているはずなのに、思わずその愛情までもを疑ってしまいそうになるほど。




 ――そう、ボクは疑ったんだ。
 彼は本当は、あの言葉のままにボクとつき合っているのではないかと。
 でも心底それを否定も肯定もできないのは、あの因島での彼が……今までに見たこともないほど、満ち足りた微笑みを浮かべていたから……




 真夏の青い空。
 身体を焼く太陽の日射し。
 肌を伝う汗の嫌な感触と、思い出すのは鬱陶しい程の蝉の声。
 ヒカルは笑っていた。
 楽しそうに、笑っていた……






「……平気か、だって?」
 ヒカルは俯いたまま呟く。
 ぽつりと落とされた言葉に、アキラは知らず噛み締めていた口唇を解放した。
 ヒカルは静かに顔を上げて、アキラを正面から見据えた。
 強い眼差しにアキラが思わず息を呑む。
「平気だよ」
 きっぱりと答えたヒカルの言葉は、一瞬アキラの視界を真っ暗にさせた。
 しかしヒカルはそんなアキラに怯まずに言葉を続けた。真直ぐにアキラを見つめる大きな瞳。揺るがない、弛まない、毅然さをも感じる強い目。
「平気だよ、俺は。どんな嘘だってつける。知られちゃ駄目なんだ、このことは。お前は塔矢行洋の息子で、背負うものも俺よりいっぱいある。そして俺もお前も、お互いだけじゃなくて囲碁を捨てられない。どちらも選ぶには、何かを我慢しないと駄目だろう? だから俺は平気なんだ。誰にも絶対に話さない。誰にも知られないようにする。親にだって友達にだって平気で嘘をつく。どんな酷いことだって平気で言ってみせる。――お前と死ぬまで一緒にいるためには、それしかねえんだ」
 アキラに向けられていたきっぱりとした瞳が、ぼんやり浮かんできた水滴で滲み始めている。
 アキラは愕然と目を見開いて、ただ黙ってヒカルの言葉を聞いていた。
「なんで分かんねえの!? 俺はずっとお前と一緒にいたいんだ! 死ぬまで一緒にいたいんだ! そのためには何だってやってみせる! どんな嘘だってついてみせる! お前のことを、俺たちのことを、どれだけ馬鹿にしたって茶化したって俺は平気だ! いくらでも、何度だって言ってやる。これを隠し通すためなら、お前のことなんか大嫌いだって皆の前で大声で叫んだって、俺はちっとも辛くない!」
 見開いた瞳からぼろぼろと落ちて来た雫をそれ以上見ていられず、アキラはヒカルを強く抱き締めた。
 嗚咽を堪えて震える身体をきつくきつく胸に押し付ける。
「進藤……、進藤、ごめん……」
「辛くなんかない……」
「ごめんね、進藤、ごめんね……」
 アキラがヒカルのことばかりを考えていたというのに、
 ヒカルは二人の未来のことを考えていた。






 ボクが今目の前にいるキミの姿ばかりを追っていたというのに。
 キミはいつ落ちてくるかも分からない空を見上げてその先を見つめていた。






 震えるヒカルを抱き締めて、濡れた瞳に優しくキスをする。
 何故、ヒカルが突然アキラを因島へと誘ったのか、その理由が少しだけ分かったような気がした。
 あれがヒカルなりの逃げ道だったのかもしれない。
 より奥深くアキラの心を捕らえることが、ヒカルの安らぎだったのかもしれない。
 ……太陽の下で交わしたキスを、本当は後悔なんてしてはいないのだろう?
 とっくに覚悟を決めていたキミなのだから。








 アキラはヒカルを抱き締めたまま、厳しい目でこの挑戦を受け入れることを決めた。
 確約のない明日への挑戦――
 演じ切ってみせる、最期まで。




 二人のためにヒカルは道化になることを選んだ。
 ――ならばボクもまた、二人のために鬼になろう。










6周年記念リクエスト内容(原文のまま):
「「アキヒカで、ふたりの未来を真剣に考えるヒカル」
…けじめをつける為に、親にカミングアウトしてしまったり
するのがありますが、やおいってある意味ファンタジーだし、
それはどうかな〜?という気もしてたんです…
が、アオバさまならどう書かれるのかと思いまして。
カミングアウトがリクではないんですが、同性である事とか、
親の事とか、結婚の事とか、本編でいずれ
書かれる事かもしれませんが(本編とは別バージョンでも…)
同性である事に意味があってほしいんです…
この場合、悩むのはアキラじゃなくて、やっぱりヒカルですよね^^;」

もう上のリクエスト内容を見ていただければ、私がどれだけ
期待されているものと掛け離れたものを書いたか
ごまかしようもないですね……^^; すいません!
とりあえず本編とは全く違う道を作ろうとしました。
この後どうなっても二人は後悔しないと思いますが、これで終わり?
……って感じで後味悪くてスイマセン……
こんなになっちゃいましたけどリクエストありがとうございました!

このお話のイメージイラストをいただいてしまいました!
とっても素敵なイラストはこちらから
(2007.02.12追記)
(BGM:杞憂/Tourbillon)