杞憂






「すげー、晴れてるなあ。暑ちい〜」
 ヒカルの言葉通り、因島に到着したのは広島市内に一泊した翌日の午前中だったというのに、すでに全身から汗が吹き出てきそうな暑さだった。
 アキラは首筋に触る髪を少々鬱陶しそうに払いながら、暑い暑いと連発しつつも元気なヒカルの後をついていた。ヒカルは以前も来たことがあるような口ぶりだった。
「墓がさ、あんだよ。確かこっちだった」
 こんなところに、いつ誰とやって来たのかなんてことは聞かない。
 大事なのは、今ヒカルがアキラをここに連れて来てくれたこと。
 ……アキラは心からそう思っていた。




 ヒカルに案内された秀策の墓の前で手を合わせた。
 何を思ったのかははっきりしない。無心で手を合わせたというのが正しいかもしれない。
 そのためアキラはほんの数秒程で手を下ろして頭を上げたが、隣のヒカルはややしばらく目を閉じたままじっと墓に向かっていた。
 その静かな横顔に見愡れたことは秘密にしていた。




 広島に着いた時からずっと、ヒカルはどこか浮かれ調子だった。
 東京から離れた解放感も手伝ったのか、やけに楽しそうにアキラの周りをくるくると回り、明日行く予定だという秀策にまつわる場所について少し偉そうに説明したりしていた。
 その笑顔を見ているだけでアキラはここに来てよかった、と実感していた。
 これだけ無防備にアキラと共にいるのを喜んでいるヒカルは珍しかった。
 そう、ヒカルは喜んでいたのだ。アキラにはそう見えた。




 ヒカルは目を開き、墓に向かって僅かに微笑んだようだった。
 それからくるりとアキラを振り返り、「行こっか」と軽く首を傾げた。
 まだ、夢を見ているような目だとアキラは思った。
 どこかふわふわした、真夏の日射しに揺らめいて、覚束ないような頼り無げなような、それでいてしっかりと開かれた瞳。
 太陽に焼かれた石段を一段一段下りて行く。
 こんなところで転んだら、擦りむいた皮膚は火傷になるだろう。
 アキラがそう思った時、そんなアキラの脳裏をちらりと覗いたのだろうか、ヒカルの身体がぐらりと揺れた。
 咄嗟に腕を掴む。足を踏み外しかけたヒカルは、自分を引き上げたアキラを驚いたように振り返って、それからはにかんだ笑顔を見せた。
 安堵にふう、と息をついたアキラの目の前で、ヒカルの笑顔が僅かな時間に色を変えた。
 あどけなさが残っているようで、ふとした瞬間にびっくりするほど大人びるヒカルの表情が、その時確かにアキラだけを見つめていた。
 息を呑むアキラに、ヒカルが顔を近付けて来ても、何も反応できなかった。
 しかし一度口唇が触れてしまえば、心は呆気無くヒカルの中に引き込まれる。
 照りつける太陽の日射しの下、アキラはそっと目を閉じた。
 こめかみを汗が伝う。風のない、騒々しい蝉の声に囲まれた二人にとっての静寂。
 あの時、アキラとヒカルにとって、二人だけしか存在し得ない世界がそこにあった。




 きっとこの土地は特別な場所なのだろう。
 ヒカルの様子はほんの少し、いつもと違っていたから。
 質素な旅館の和室。ふたつ布団を敷いて、ひとつの布団で一緒に眠った。
 蒸し暑くて寝汗をかいたけれど、朝まで身体は離れていなかった。
 過剰なまでに周囲を気にするヒカルが、安心できる自分のベッドの上ではないところで、微笑んだ寝顔を見せてくれるなんて初めてだったかもしれない。
 かけがえのない時間――二人で過ごす時間。一緒にいられる喜び。
 思い起こすだけで涙さえ浮かんできそうな幸せな時は、一本の電話で一変した。
















『……アキラ。落ち着いて聞けよ。お前……八月に、進藤くんと広島行った?』
 ――どうしたんですか急に? 聞けよって、聞いてるのは芦原さんのほうじゃないですか。
『アキラ、真面目に答えてくれ。行ったのか? ……行ってないのか?』
 ――……行きましたよ。丁度休みが重なったので。それが何か?
『そうか……。……アキラ、いいか、落ち着けよ。』




 週刊誌に……写真が載ったんだ。
 お前と、……進藤くんが……キスしてるとこ。












 ***












 記事が載ってからもうすぐ一ヶ月になる。
 因島への短い旅行からは二ヶ月。
 謹慎処分は免れたため、手合いにはこれまで通り出ることができたが、騒ぎになった当初はイベント等の仕事を代替させられることがいくつかあった。
 それはヒカルも同じだった。
 その度にやってられねえ、と人目憚らず文句を言うヒカルを多くの棋士が目撃していただろう。
 ヒカルは誰かに記事について尋ねられた時、実にあっけらかんとその話にのってきた。
 旅行に行ったことも本当なら、キスしたことも本当。
 でも禁断の恋って笑っちまうよなあ。あの記事書いた人、きちんと見てなかったのかな。仏頂面したアイツを俺がゲラゲラ笑ってやったのをさ……
 ヒカルがそんな嘘を悪びれずにつく度、アキラの胸は軋むような音を立てた。
 アキラといえば、誰かが話し掛けるのも躊躇われるような険しい空気を纏い続け、あの記事について追求されることは少なかった。
 それもまた逆に効果的だったようだ。アキラらしい、くだらない記事にいちいち構う必要はないという姿勢にとられたその様子は、対照的に騒ぐヒカルとセットで周囲から受け入れられていった。
 やがて人々は「ああ、本当に冗談だったんだ」と納得し始める。
 ヒカルの思惑通り。……確かに彼のとった行動は正しかったのかもしれない。
 それでもアキラは辛かった。あの、二人だけの大切な時間までもを否定されたようで、いくらその場しのぎの嘘でもヒカルの口からあんな言葉は聞きたくなかった。










 あれはほんの冗談なんですよ……


 ふざけてゴメンナサイ……










 冗談なんかじゃなかった。
 ふざけてもいなかった。
 ヒカルから、優しくて切ないキスをもらったのだ。
 耳に触る蝉の声。目眩を起こしそうなほど茹だる暑さ。
 咄嗟に掴んだ二の腕と、振り返った金色の前髪。
 ……太陽の光に透けて綺麗だった……

















「お前、ほとぼり冷めるまでまだ来ちゃ駄目だからな」
 つい先程、ヒカルに言われた言葉。
「大分落ち着いたとでも思ってたんだろ? まだだよ。ああいうのは案外しつこいんだ。もう少し様子見たほうがいい……」
 棋院の廊下ですれ違う時、辺りに人目がないかを素早く確認したヒカルが発した言葉。
「ころ合い見て俺から連絡するから。それまで待ってて」
 アキラの返事を聞かずに一方的に告げられた言葉。




 ……恋とは辛いものだと、アキラは今さらながら再確認する。
 真実を見極めるためにその身体を抱き締めたくても、そんな簡単な触れ合いすら許されないような関係だなんて。














 ***














「ま、食えよ。今日はどーんと奢るからさ!」
 目の前でにこにこと愛想のいい兄弟子は、熱い鉄板の上に次々と肉を広げていた。
 苦笑したアキラは、芦原が一向に焼こうとしない野菜に箸を伸ばす。鉄板の端にいくつかの野菜を乗せ、勿論芦原の機嫌を損ねないようにすでに焼けた肉を皿にとった。
「大分涼しくなってきたから、ここらで体力つけないとな。季節の変わり目は風邪引きやすいぞお」
「去年の芦原さん、寝込んでましたもんね」
「う……、どうせ、俺は体調管理がなってませんよ……」
 兄弟子の緒方あたりに絞られていたのだろう、芦原は憮然とした表情で去年のことを思い出しているようだった。
 アキラは久しぶりに穏やかに笑った。
 恐らく最近元気のないアキラを気遣って、芦原は声をかけてくれたのだ。
 あの記事について一番に連絡をくれたのも芦原だった。
 ヒカルが理事長に対して言い放った弁解の詳細を聞いた芦原は、「なあんだ」と安心したように笑ってくれていた。
 それもまた、アキラを気遣ってのことだろう。
 芦原は記事の内容など信じてはいないようだが、それでもアキラがそのことでショックを受けていると思ってくれたらしい。
 他の人間は芦原ほど親しくアキラに接してはこないので、内心アキラのことをどんなふうに思っているかは分からないけれど。
 芦原の優しさは、素直に信じられた。心配してくれている彼に、感謝をしていた。




 以前一度だけ、芦原にヒカルとのことを相談してみようか、と思ったことがある。
 人目を忍ぶ関係に、逃げ道を作りたかったのかもしれない。
 しかし淡い考えは、すぐに自ら掻き消した。
 ヒカルがあそこまで徹底して隠していることを、自分だけが他人に相談することはできない。


 あの時は確かにそう思った。
 でも今、再び心が揺らぎ始めている。







ごまかしましたね、因島の描写……
しかし相変わらずずれた季節の話ですいません……