「……負けました」 項垂れたように頭を下げると、向かいに座る年輩の棋士はありがとさん、と実に軽い調子で返して来た。 思わず口唇を噛み締めたくなったが、できるだけ感情を表に出さないように努めて――アキラは盤上の石を崩す。 ――駄目だ。どうしても集中できない。 復帰してからもうすぐ一ヶ月になろうとしているのに、未だに心と共に打ち筋も乱れたまま。 勝てない日々がアキラを追い詰めつつあった。 あれから、マンションには一度も戻っていなかった。 今月末まで日本に滞在するという両親が住まうこの家に、アキラも毎日帰って来る。 最初に帰宅した頃に比べれば、母とは随分会話が増えた。しかし父とは相変わらずだ。対局どころか、対話すら挨拶程度のものしか交さない。 元々無駄な話をだらだら続ける父親ではなかったが、やはり意図的な態度ではないだろうかとアキラは穿った見方をしてしまう自分を否定できない。 仕方のないことかもしれない。――元名人の父の顔を潰しているも同然の状態なのだから。 本当ならばとっくに破門されていてもおかしくはない。手合いを無断で休んだり、出たところでこの黒星続きではやる気がないと思われても仕方がないだろう。 アキラが破門してくださいと言い出せば、恐らく父は首を縦に振る。しかしその申し出を言い出す勇気はなかった。何の躊躇いもなく受理されてしまうことが怖くて。 『真剣にやってるなら、何で勝ちに行かない!』 こんな時ばかり、ヒカルの厳しい言葉を思い出す。 真剣にはやっているつもりだ。 しかし碁盤の前に座ると余計な雑念ばかりに捕われて、相手の手が読めない。自分が打つべき次の一手さえ分からない。 ぼんやりと視界の中で碁石がぶれていく。 守るべきか? 踏み込むべきか? 伸ばすべきか? ツケるべきか? 考えようとする度に、対局中は封印しようと努めていた昔の出来事がぽろぽろと頭の中に零れて来る。 父に甘い手を見透かされて厳しく追求されたこと。研究会で読みが足りないと緒方に翻弄されたこと。泣くのを堪えて誰もいない縁側で口唇を噛んでいたこと。 そんな過去の映像に縛られて、目の前に霧がかかる。碁盤が霞んで見えなくなる。 一手打つたびに霧は濃くなっていく……晴れない。晴れやしない。 動揺したまま打ち筋は更に乱れる。今日も活路を見出せずに、負けて終わる…… 帰宅後は例のごとく部屋に隠る。ただ、以前と少し違うのは、あの小さな折り畳みの碁盤を眺める回数が増えたことだった。 家では一切碁石に触れていない。それなのに、時々取り憑かれたようにこの碁盤を手に取ってみたくなる。 高価な業物ではない。どこででも買えるようなありふれたもの。それでも自分が始めて欲しがったもの。 誇らし気にこの碁盤を抱えていた。家を訪れる全ての人に見せびらかしていたような気もする。 あんなに大切にしていたのに、今まですっかり忘れていたことのほうが解せない。 ――ボクの原点。 思わず石を打ち込んでみようかという欲求が持ち上がるが、いつも無理矢理押し込める。 この碁盤に碁石を打ってしまったら、自分はますます過去に捕われて動けなくなってしまうのではないだろうか? 思い出せ、考えろと言われてヒカルの言葉を何度も何度も考え直した。 そこに繋がる道はまだ見出せていないのに、気持ちが過去に退行してしまったらもう二度と前には進めない気がする。そうして再び碁盤を押し入れの奥へと仕舞い込む。 今必要なのは遠い日々のささやかな思い出ではない。 ヒカルが与えてくれていたというヒントを理解すること。 そのためだけに勝負にならなくとも碁盤の前に向かい続けていると言うのに。 ……あれからもう二ヶ月。 ヒカルに逢いたい。 *** 足早に廊下を進む。 風を切るその顔がやや俯きがちなのは、苦渋の表情をすれ違う人に見られたくなかったからだ。 アキラはエレベーターを選ばず、階段を勢い良く駆け下りた。 『やれやれ。先生もお気の毒だ』 完全な見損じだった。 中盤のあの一手で全てが狂ってしまった。いや、本当はそれ以前から効果のない手ばかり打ち込んでしまっていることは理解していたが、あれが決定打になった。 もう挽回不可能だと見切りをつけたアキラが投了すると、対面の相手は実に残念そうな表情で終局の挨拶を返して来た。 それからすぐに盤上の石を整理し始めたアキラの耳に、よもや聞こえていないとは思っている訳がない。 意図的ではなかったにしろ、潜めて掠れた声は充分碁盤程度の距離しか離れていないアキラに届く声量だった。そして彼の言う「先生」が誰を指すのか、アキラが勘付かないなどと楽観しているとは思えない。 何よりも、周囲の誰もが同じように思っていながら口に出していない――その現実を、アキラが知らないはずもなく。 分かっているのならそれなりの対応をすべき、というのは至極もっともな話だろう。 陰口を叩かれるのが嫌なら叩かれないように、それが出来ないのならいちいち気にしなければ良いだけのこと。 どちらも無理であるなら、そんな状態で棋士など続けるべきではない。 分かっている。分かっているつもりだ。今の自分は何もかも中途半端で、勝てないくせに碁にしがみつき、そのくせ心底勝とうとしていない。こんな目も当てられない姿、誰に何を言われたって文句は言えない。 しかし、父の名を引き合いに出される苦痛は別格だった。 一日に一度は顔を合わせる後ろめたさのせいだろうか。 物心ついた頃には、すでに父の存在に怯えることなどなくなっていたというのに。 こんな気分の時、本当は一人で閉じこもって誰にも顔を合わせたくないと思うのに、アキラの足はそれでも両親がいる実家へ向かおうとしている。一人きりのマンションに戻ることよりも、居心地の悪さを感じてでもあの家に帰ろうとしている自分が理解できず、情けなかった。 この、無性に感じる人恋しさは何なのだろう。 ヒカルに別れを告げられてから、あの部屋で独りきりの時間を過ごしたショック状態をまだ引き摺っているからだろうか。 一人でいるのは怖い。そのくせ不必要に誰かに近付いて来て欲しくない。哀れまれたり、慰めてもらいたいわけじゃない。ただ、人の気配を微かに感じていたいだけ。 近すぎず、かといって遠すぎない存在。どれだけ我が儘なことを望んでいるかは承知している。それでもそのラインが今のアキラには必要だった。 誰もそれ以上内側に入り込んで欲しくない。この胸に手を差し入れて欲しいのはただ一人だけだから。 些細な安心を得るために、今日も実家への帰路を急ぐ。 ……ひょっとしたら、もう二度とあのマンションには戻れないのではないか、と時折頭にチラつく予感に気付かないフリをして。 何の進歩もしていない。 ヒカルと別れてから、自分の何が変わったと言うのだろう。 相変わらず、辛くて哀しくて心と身体が酷く重いだけ。 あの目が怖くてヒカルと未だ向き合えない。 彼の言葉の意味が分からずにもがき続けている。 今日のように、自分の腑甲斐無さを思い知らされる日は余計に苛立ちが募る。 だから、自分の引いたラインの内側に誰かが入り込んでくることが、いつも以上に煩わしく感じる。 「アキラ?」 ……こんなふうに。 「アキラ、帰るのか? 丁度いい、俺も出るとこだったんだよ〜」 呼ばれれば足は止まる。止まってしまえば振り返らざるを得なくなる。 渋々顔を上げたその先に、人懐っこい目でアキラに悪びれない笑みを見せている芦原が立っていた。 |
まだかなり湿っていますが……
でも前より感情の起伏が出て来ました。