鼓動






 あと数歩で棋院を出るための自動ドアが開くかといった位置だった。
 運悪く芦原に見つかってしまったことに、アキラは気付かれないよう小さな舌打ちをする。
 できれば顔を合わせたくなかった。今日は気持ちがいつもよりも荒っぽくなっている。その原因も全て自分にあるものだから、怒りの鉾先を何処にも向けられなくてひたすら腹立たしい今日のような日は特に。
 目の前の芦原の笑顔は淀みがない。
「な、送ってやるから。どっか寄るとこあるのか?」
「……いいえ」
 うまく躱す言葉も思い付かず、つい素直に返事をしてしまう。
 用事がないなら後は帰るだけ――こんな簡単な理屈、子供だって分かるだろう。
「じゃ、乗ってけよ」
 アキラは一瞬躊躇った。
 断ることに、ではない。断るための言い訳が見つからなかったことに躊躇ったのだ。
 芦原はそんなぎこちないアキラの沈黙を気にした様子はなく、さあさあと肩に触れてアキラの足を無理に動かしていく。
 アキラは胸の奥に灯る反抗的な感情の昂りを、息を殺すようにぐっと押し込めた。





「そのセミナーでさ、原田くんがマイクのコードに足引っ掛けちゃってさ」
「……」
「大盤解説中だったってのに、いきなりブチッ! って音切れちゃって。でも俺全っ然気付かないで一人で喋りまくってたんだよね〜」
「……」
 流れていく景色は徐々に薄闇を纏い始め、日暮れが近いことを前方に広がるオレンジ色の空が知らせてくれていた。
 胸に当たるシートベルトが窮屈で、アキラは助手席のシートに体重を預け、心なしか身体を窓側に向けてじっと黙りこくっている。
 ハンドルを握る芦原は、アキラの返事があろうとなかろうと先ほどからずっと喋りっぱなしだ。顔を合わせる度に様々な話題を提供してくれる芦原は、そのくせ同じ話を二度することがほとんどなかった。もっとも、以前の話の内容などろくに覚えていないアキラにとってはあまり関係ないことかもしれなかったが。
 アキラが実家に戻ってから、何度か芦原が様子を見に訪れていた。
 芦原なりの気遣いなのだろうが、彼の優しさは時に酷くアキラを苛立たせる。
 何故放っておいてくれないのかと。おまけに、芦原は顔を見に来たとにこにこしているばかりで、アキラが不調である原因を決して尋ねてこようとはしないのだ。
 理由も聞かず、ただ傍に居てくれようとする年上の友人の存在が、未だ道に惑うアキラにとってはもどかしくて仕方が無い。
 どうせなら、根掘り葉掘り追求してくれれば良いのだ。そうすれば、今よりきっぱりと拒絶することができる。
 こんなふうに、やんわりと心の内側を撫でられるような位置に立たれてしまうと、どんな反応を示して良いのか分からない。
「……なんてなあ。アキラもそう思うだろ?」
「……」
「アキラ?」
 二度呼び掛けられて、アキラははっと肩を揺らす。
 顔は飽くまで窓に向けたまま、小さな声でぽつりと呟きを返した。
「すいません。……疲れてて」
「そっか。悪かったな、うるさくして」
「……いえ」
 まただ。
 胸に沸き起こる不快な感情。
 芦原が謝ることなど何もないのだ。――それなのに、彼はいつだって無条件にアキラを立てようとする。
 話を聞いていないアキラを叱るならともかく、芦原が下手に出る必要などないではないか。
 自分は腫れ物なのだろうか? アキラはむかむかと胸で燻り始めた煙を何とか押しとどめようと、落ち着かない心そのままに険しい表情を窓に映した。
「……アキラ」
 少し声のトーンを落とした芦原に、返事をするのも煩わしくてアキラは身じろぎしなかった。
 どうせまた他愛も無い話で場を繋ごうとする気なのだ。……アキラが静かに芦原の存在を拒否する時、彼はいつもそんなふうに二人の距離をごまかそうとする。
 ところが、高を括っていたアキラの耳には意外な問いかけが届けられた。
「勝てないことが悔しいか?」
 アキラは思わず芦原を振り向いた。
 気付けば車は赤信号で停車しており、芦原はハンドルを握ったままじっとアキラを見つめていた。
 こんなに真直ぐに視線を向けられていたことに驚き、アキラは僅かに怯む。それ以上に、問われた言葉がぐるぐると頭を巡り、その意味を噛み砕いてアキラの表情が歪んでいく。
「どういう、意味ですか」
 口調はやや硬くなった。まるで詰問しているようだとアキラは自分でそんなふうに分析した。
 芦原はそんなアキラの強めの声にも驚いた様子はなく、「そのままの意味だよ」と飽くまで穏やかに返して来る。
「手合いに出始めてから随分経つけど、結果が出ない。お前、少し焦り過ぎだ。肩の力を抜いたほうがいい」
「……そんなこと、言われなくても」
「分かってる割に、うまくいかなくてもどかしいんだろ? あんまり気負うなよ、アキラ」
 カッと頭に血が昇る。
 アキラは思わず奥歯を噛み、信号が青に変わってアクセルを踏んだ芦原に目を剥いた。
「芦原さんには関係ない!」
 静かに動き始めた車内で、アキラの怒鳴り声が響く。
 芦原は動じることなく、視線を前方へ向けてアクセルを踏み続けている。
 アキラは少し乱れた呼吸のまま、血走った目で芦原を睨んでいた。
「……芦原さんに……、何が、分かるんですか……!」
 芦原の横顔は静かだった。
 自分より七つも年下のアキラが、通常であれば親切と受け取れるアドバイスをはね除けて生意気な口をきいているのだ。
 怒ったって構わない。年上の言うことは聞くもんだと、理不尽な理由をつけてアキラを嗜めたって咎める人などいないだろうに。
 それでも芦原は、微かに震えるアキラを助手席に乗せたまま狼狽えることはなかった。
「分からないさ。分かってやりたいけど、分からない。だからせめて俺はお前の近くにいるんだ」
 アキラは思わず目を見開いた。
 何か言い返そうと開いた口唇が、そのまま固まって動かない。
「やっと本音でぶつかってきたな、アキラ。俺が鬱陶しかっただろ? ずっと、苛々してたんだろ? でもな、お前が今気を使う必要のない人間は俺くらいだ。隠さなくていい。お前は思ったように、素直に俺にぶちまけていいんだ。俺はそれくらいしか、今お前に力になってやれる方法がない」
「何を……言ってるんですか」
「お前が苦しんでるのは分かってる。でも、情けないけどお前はとっくに俺を追い抜かしちまってるからな。碁のことじゃ相談にはのってやれない」
 芦原は軽く笑った。鼻に抜ける自嘲気味な笑いにも、アキラは強張った表情を崩すことができなかった。
「せめて、お前のはけ口になることぐらいならできる。お前は昔からずっと大人に囲まれて、言いたいことがあっても我慢するのがクセになってた。でも、お前は自分が思ってるほど大人じゃない」
 ぐ、とアキラは声を詰まらせる。
 いつになくきっぱりとした口調の芦原を前に、返す言葉が見つからない。
「愚痴なら聞く。お前はもっと人に甘えていいんだ、アキラ。」
「ボクが……甘える……?」
 掠れて震える声を振り絞ったアキラの呟きを受けて、芦原は前方に障害物が何もないことを確認しながら少しだけ速度を落として――ちらりと隣のアキラに真摯な目を向けた。
「……今、お前は俺に弱い部分を見せた。俺はそれが、嬉しいよ」
「……っ」
 アキラはぎゅっと目を瞑り、芦原の優しい眼差しを遮るように首を振る。
 慰められたいわけじゃない。叱ってもらいたいわけでもない。
 それなのに、芦原の態度はそのどちらでもない。だから拒み切れない。すんなりと受け入れることもできない。
 本当は喚き散らしたい。貴方の助けなど必要無いと、大声で叫んで突き放したい。
 それが出来ないのは、心の何処かで怖れているからだ。……この優しい人を傷つけることを。
(何を怖れる必要がある?)
 自問には納得の行く答えは浮かばない。
 ヒカルさえいればそれで良かった自分の世界で、他の誰が傷つこうと関係ないはずなのに。
 アキラはシートベルトを外して、ドアに手をかけた。
「停めて下さい」
「……」
「降ろして。降ろして下さい……!」
 芦原は黙って速度を落とし、車を路肩へ寄せた。
 タイヤが完全に止まる寸前、待ち切れずにアキラはロックを外してドアを開く。
 まだ自宅までは少し距離がある道端に飛び出したアキラに、芦原は運転席の窓を全開にして声を張り上げた。
「アキラ! 俺は、ずーっとお前の近くにいるからな!」
 アキラは応えずに、振り返りもせずに陽の落ちた住宅街を走り抜けた。






アキラ大分混乱してるんですけど、
私も同じくらい混乱してきました……
(すいません……)