鼓動






 息を切らして帰宅したアキラを、明子が少し驚いた様子で出迎えてくれた。
 アキラはただいまの挨拶もろくに交さず、真直ぐに大股で廊下を突っ切っていく。
「アキラさん、お夕飯は」
 背中にかかる声を振り切るように肩を怒らせ、アキラはそのまま自室へ向かう。
 部屋の襖を開けて中へ飛び込むと、乱暴に荷物を投げ捨てて畳に膝をついた。
「……ッ」
 噛み締めた口唇の隙間から、声にならない叫びが漏れる。

 ――芦原さんは、友達――

 幼い自分の声が頭に反響して息苦しい。
(……違う)
 友達、だなんて。本心からの言葉じゃ無かった。
 彼はずっと昔から自分の近くにいた人だったから、他の兄弟子たちよりも少しだけ特別で。
 その「特別」さが、今になってこんなに苦しいだなんて。


『気負うなよ、アキラ』


 小さい頃から親しんできた人たちの中で、一番年が近かった。
 芦原に懐いたのはそれが原因だったからかもしれないが、それ以上に彼はアキラのことを可愛がってくれていた。
 七歳の年の差を感じさせないように、あえてアキラに合わせてくれていた芦原。そんな芦原がアキラを子供扱いすることが嫌で、アキラは常に彼と対当であることを故意に主張してきた。
 「友達」とは、便利な言葉だった。
 それでも芦原は嫌な顔ひとつせず、「友達」の間柄を引き受けてくれていた。……それが何処か照れくさくて、嬉しいようなやるせないような気持ちになったかつての自分。
 本当はもっと近い位置に芦原の存在があったかもしれないのに、それをごまかすために「友達」という言葉を選んだ子供の浅知恵。
 芦原は、そんな幼いアキラの浅はかな考えも分かっていたのだろうか……?


 アキラはゆっくりと顔を上げ、正面に見える押し入れをじっと睨んだ。
 静かに身体を起こして、鈍い動作で立ち上がる。のろのろと近付いた押し入れの戸を開き、いつも奥へと仕舞い込んでいる折り畳みの碁盤へそっと手を伸ばした。
 片手で取り上げられる軽い碁盤――
 あの頃は重かった。


『おっ、アキラくん頑張ってるな!』
『さすが先生の息子さんだ。碁盤を肌身離さずか。頼もしいな!』
『先生みたいに、立派な棋士になれよ!』


 ――はい! ボク、つよいきしになります!
 お父さんみたいに、つよいきしに――





『アキラくん』

『気負うなよ』

『先生は先生、アキラくんはアキラくんだ』

『大丈夫』

『力を抜いて』

『気負うなよ』



 気負うなよ、アキラ――




「……!」
 鼻の奥がじんわり痺れ、覚えのある感触が眼球を被うように広がりつつある。
 アキラはぐっと歯を食いしばり、溢れ出ようとするものを無理に留めるために腕を両目へ押し付けた。
 あの時、肩に置かれた手の暖かさにはっきりと子供の自分は驚き、何故だかはらはらと涙を落とした。
 そんなアキラに屈み込んで目線を合わせた芦原は、アキラが泣き止むまでじっと傍に居てくれた。
 きっとあの頃からだ。芦原が少しだけ「特別」になったのは。
 一人っ子だったアキラにとって、まるで兄のような存在で――
 でも、彼に弟と見なされることが無性に気恥ずかしくて、あえて「友達」だと周囲に主張し続けていた日々。
 芦原はそんなアキラを笑って見守ってくれていた。
 アキラがどれだけ自分勝手に振る舞っても、先程のように、まるで何でもないことのように。

 震える手から、ふと碁盤が滑り落ちそうになる。
 アキラは咄嗟に両手で碁盤を支えた。
 腕が外れた目から、一雫だけ涙が転がり落ち、碁盤の側面を伝って一筋の線を作る。
 アキラは思わず涙の跡を手のひらで拭った。
「……」
 涙が滑り落ちた跡に添って、そうっと碁盤を広げてみる。
 細かい傷の残る表面は、電気のついていない室内でもぼんやりと光っているようだった。

 石を打ちたい――欲求は唐突に表れた。

 右手が疼く。指先が碁石のひんやりした感触を求めている。
 あの日、両手に余ったこの碁盤が、芦原の言葉で少しだけ軽くなった。
 あの時の感覚と似ている。そうだ、それまで「他人」だった人を少しだけ内側に受け入れたあの日、心が軽くなった感覚と……


「……今更……!」
 アキラは眉間に深い皺を刻み、震える手で碁盤を畳んだ。
 ――勝てない理由はよく分かっている。
 心から勝利を欲していないから。ヒカル以外の物に執着を向けられなくなってしまったから。
 勝負師に必要不可欠な、勝ちたいという欲求を捨ててまで、全てをヒカルだけに捧げようとしたこの自分が。
 今更、他の誰かの存在に安堵しているだなんて。
 打てなくなったのは、ヒカルを失ったから。
 打つどころか、全てのやる気を失って、抜け殻みたいに毎日を過ごしているのはヒカルがいないから。
 ヒカルさえいれば、それでいいと思っていたはずの自分が――



『では何故お前は俺を呼んだ?』

 そうだ。
 何故、ボクはあの時緒方さんに縋ろうとした?


 ヒカルのいない空間が苦しくて、独りでいることに耐えられなくて、誰でもいいからと伸ばした手は何のために救いを求めていたのだろう?


『この世の中に、たった一人きりで生きている人間など存在しないんだ』


 その通りだと思う。
 だからボクはヒカルを求めた。彼の存在が全てだった。

 ヒカルだけを選んだのだ。
 ならば他の人間は必要ない。
 それなのに、ボクは今一人では生きられない。



 辛い時に手を伸ばせば、腕を差し伸べてくれる人がいる。
 人恋しい時に望めば、近すぎず遠すぎず、温もりを感じさせてくれる気配がある。
 そして、どうしようもなく苛立つ時に、無条件で話を聞いてくれようとする存在がある。



 ヒカルが全てと言いながら、結局ボクは彼を失ってもこうして日々を過ごしている――



「今更……!」
 がくりと力の抜けた膝が折れて、アキラはそのまま畳に座り込んだ。
 尻をつき、項垂れて、震える手からごとりと碁盤が落ちる。碁盤は折り畳まれたまま床に横たわった。
 いつしか涙は止めどなく頬を伝っていた。
『分からないさ』
 アキラの強がりに、ごまかしのない言葉を返してくれた芦原。
『分かってやりたいけど、分からない。だからせめて俺はお前の近くにいるんだ』
 率直な言葉は、適当な慰めでアキラの苦しみを否定しようとはしなかった。
『俺はそれくらいしか、今お前に力になってやれる方法がない』
 ……分からないと言われて。
 分かったフリをしなかった芦原の言葉が。
 嬉しかった……。

(――でも)

 ヒカルだけを選んで、他の全てを排除しようとした自分が、今更そんなことを言えるはずがない。
 あの優しい存在が落ち着くだなんて。何もかも、心に燻っている靄をぶちまけて、話を聞いてもらいたいだなんて。
 傍に居て欲しい、だなんて。


 今更そんなこと、言えない……






いろんなことがちぐはぐになってますが
最後はうまくまとまるよう最早神頼みです。
ま、まとまるのかなあこれ……<頼り無!
(BGM:鼓動/BUCK-TICK)