LEATHER FACE






 天気予報では、午前中から降り続く雨は午後に風を伴い、一部では雷が鳴るところもあるでしょう、なんてことを言っていたような気がする。

「……見事に当たったな」
「当たり過ぎだよ……」
 ヒカルとアキラの二人は、碁会所の窓に向かって並んで外の景色を見下ろしていた。
 時刻は午後七時半。二人の他に客の姿はない。
 実家の用事で早めに帰らなければならないという市河の代わりに戸締りを買って出て、久しぶりにのんびりと二人だけの対局を楽しんでいたところ、ふいに光が明るく空を照らし、一呼吸置いてガラガラと激しい轟音が響き渡った。
 雷に集中力を切断された二人は、改めて窓から外の様子を見下ろし、どしゃ降りの雨と時折光る稲光に呆然としていた。
「……どうしようか」
「どうしようって……、どうする?」
 傘はあるが、これだけ酷い雨と風ならあってもなくても無意味な気がする。
 ここまで天候が崩れているなら、恐らく地上の交通機関にも影響が出ているだろう。煽りを食らって地下鉄は混雑しているだろうし、タクシーなんて持っての他だ。
「……なんだってこんなに荒れるんだよ」
 ヒカルがうんざりしたように呟いた。
 今日は久しぶりに、二人でゆっくりした時間を取ることが出来た貴重な日だったのだ。
 北斗杯が終了してからというもの、取材やらイベントやらで大忙しだった二人は休日が次々にすれ違い、腰を据えて一局打つのもままならない日々が続いていた。
 ようやく、午後から何も予定がなく、翌日も午後からしか仕事が入っていないという二人重なった時間を迎えることができた、それが今日である。そんな訳で、今日は遅くまで二人だけの対局を楽しむべく碁会所にやってきていたのだ。
 市河が早く帰ったのをこれ幸いと、貸切状態になった碁会所はひっそりとしている。二人は来た時はまだ「ちょっと強めの雨」程度だった外が大荒れに代わっている様子に途方にくれ、お互いの顔を伺うように見つめ合った。
「……天気予報では、夜半はもっと荒れるって言っていたよね」
「……そうだっけ」
「ということは、今帰らないともっともっと酷くなるってことだ」
「……、……そうなのか?」
 ヒカルが明らかに不満げな顔をする。
 まだ午後七時半。あと数時間はじっくり対局できるはずだった。
 今帰ってしまったら、次はいつ二人だけで逢えるか分からない。
 おまけにこんな大雨の中、外に出て行くのはかなり億劫だ。びしょ濡れになって帰宅して、手持ち無沙汰な時間を過ごすと思うと止め処なくため息が漏れる。
 アキラも同じようなことを考えていたのだろうか。今帰らないと、と言った割に、その後の行動に移ろうとしない。ヒカルと同じく、荒れ狂う外の景色を眺めてため息をついている。
 ふと、二人のやりきれない視線が交差した。
「……」
「……」
 無言の瞳は、それぞれ相当に饒舌だったに違いない。
 お互いの考えていることが、目を見るだけではっきりと伝わったような気がした。
 先に口を開いたのはヒカルだった。
「……なあ。どうする?」
「……、今から帰宅しても、濡れるだろうな」
「そりゃ、べしゃべしゃだよ」
「濡れて風邪を引くといけないな」
「……、まあな」
 再び二人は目を見合わせた。無言の一時が戻ってくる。
 今度は、先にアキラが口を開いた。
「……ここなら奥に応接室がある。ソファだけだから快適とはいえないけど、一晩過ごすくらいなら……大丈夫じゃないかな」
 アキラの言葉に、ヒカルの表情がぱあっと輝いた。
「それって、ここに泊まるってこと?」
「そういうことになるね」
 あまりにも分かりやすく喜ぶヒカルが可笑しかったのか、アキラは苦笑しながら頷いた。
 ヒカルは今にも万歳三唱しそうな勢いではしゃいだ。久しぶりのアキラとの二人きりの時間。思いがけずお泊りができるのだ。
 おまけに外は大荒れで、場所は他に誰もいない碁会所。ちょっとワクワクするシチュエーションだ。
 アキラは喜ぶヒカルに目を細め、そっと腕を伸ばしてきた。
 きゅっとアキラの胸に身体を引き寄せられたヒカルは、それまでのはしゃぎっぷりが嘘のように大人しくなった。
 アキラの肩に頬を寄せると、アキラはそっと抱き締めてくれる。
 そう、逢って打つのが久しぶりなら、こうして触れ合うのも久しぶり。ただ顔を合わせるだけでも嬉しいは嬉しいのだけれど、身体を寄せ合わせるとその喜びは倍増する。
 アキラに顎を掬われ、ヒカルは目を閉じた。優しいキスが舞い降りる。
 二人はゆっくりと口唇を合わせて、その暖かさと柔らかさを堪能した。
 口唇が離れても、お互いを見つめる目から熱が抜けていかない。ヒカルは久々に間近で見るアキラの整った顔に胸を高鳴らせながら、それでもその腕をそっと押しのけた。
「お、お母さんに電話しないと。今日泊まるって」
 ところが、アキラの中についた炎はそう簡単にはヒカルを手放したがらなかったらしい。
 自分に向けられたヒカルの背中を捕まえたアキラは、胸に腕を回してぎゅっと抱き締める。ヒカルの身体が僅かに強張った。その動きが拒絶のものではないことを確認し、アキラはヒカルの耳に口唇を寄せる。
「電話は後でいいよ……。まだ時間は早いだろう?」
「で、でも、心配してるかも」
「……仕方ないね……。じゃあ早く電話して?」
「してって……、は、離せよ」
 アキラは背中からヒカルを抱き締めたまま離れようとしない。
 それどころかヒカルのうなじに鼻を擦り寄せて、楽しそうな含み笑いまで漏らしている。
 ヒカルはごくりと唾を飲み込み、恐る恐るポケットから携帯電話を取り出した。やはりアキラは腕を放そうとはしなかった。
 心成しか震える指で、自宅の番号を呼び出す。携帯を耳に当ててもアキラはヒカルにぴったりくっついたまま。
 コール音が途切れて、母親の声が聞こえた。
「あ、もしもし……?」
 ヒカルが口を開いた瞬間、アキラの口唇がちゅっと音を立ててヒカルの首筋に小さなキスを落とす。
「!」
 思わず肩を竦ませたヒカルは、受話器の向こうで『もしもし? ヒカル?』と自分を呼ぶ母の声にすぐに反応できない。
 慌てて後ろを振り返り、目を吊り上げて威嚇してみせるが、微かに口角を吊り上げたアキラは悪びれた様子がない。
『ヒカル? どうしたの? 今どこにいるの?』
 母の声に返事をしなくてはならない。ヒカルは急激に身体の奥から競りあがってきたものをぐっと堪え、会話を続けようと努めた。
「あ、あのさ……、今、塔矢んとこにいるんだけど……っ!」
 不埒な口唇が、携帯を当てていないほうの耳朶を食み始めた。ヒカルは空いた手で後ろから自分を羽交い絞めにしている男をばしばしと叩くが、アキラは一向に退けようとしない。
「あ、雨酷いからさ……、今日、泊まる……!」
 やっとのことでそこまで告げると、母親はかえって安心したようだった。
 この酷い天気の中、帰ってくるのも大変だと思ったのだろう。おまけに一緒にいるのは、絶対的な信頼を寄せている塔矢アキラなのだから。
「うん……、う、ん、分かった、伝える。じゃ、ね!」
 無理やりに会話を終わらせ、ようやく通話を切ったヒカルはほっと肩の力を抜き、そしてキッときつい眼差しで背中にへばりついている男を睨みつけた。
「何してんだよっ! 変な声出たらどーすんだ!」
 アキラは口ではごめんと言いながらも、ちっとも悪いと思っている様子がないようだ。
「我満してるキミにそそられた」
「バッ……!」
 バカじゃねーの、と続けようとしたヒカルは、言葉の代わりに実力行使を選んだ。
「お返しだ!」
 そう言ってアキラに飛びつき、体重をかけてアキラを押し倒す。そのままアキラの頭を抱えるように両手で掴み、乱暴に口唇を重ねた。






じゃれています。
1〜2月の重い空気が嘘のようだ……