LEATHER FACE






「誰かいるんだろう? ……隠れてるのか?」
 僅かに声が上ずっている。
 緒方はきょろきょろと首を動かしながら、静かに椅子から立ち上がった。
 相変わらず外の騒音が耳に触れるのみで、人の気配は雑音に紛れて感じられない。
 テーブルの上に静かに碁笥の蓋を置き、緒方は碁会所の右、左、奥、入り口と身体を動かさずに目だけで「何か」を探した。その視界の中に、人にあらざる者が映らなければいいなんて内心思いながら。
 問いかけに返事がないまま、時間だけが刻々と過ぎる。背中に嫌な汗をびっしりとかいて、緒方は再びカサカサに渇いた口唇を舐めた、その時。

 突然碁会所にピアノの音が鳴り響いた。

「……!?」
 びくっと身体を震わせた緒方の脚が椅子に当たり、ガタンと派手な音を立てて倒れる。
 音楽は天井のスピーカーから流れている。静かなメロディ、聴き覚えのあるこれはベートーベンのピアノ・ソナタ「月光」だ。
 普段なら美しく厳かな旋律も、誰もいない暗闇の碁会所で聴けば酷くおどろおどろしく感じる。
 そもそも、何故突然音楽が鳴りだしたのか?
 確かに碁会所内ではいつも耳障りにならない程度の音楽がかかっているが、先程までは確かに無音だった状態で音を鳴らす、それは人の手を借りなければ叶わない。誰かが音楽を流したとしか思えないが、緒方の再三の呼び掛けにも反応のないこの碁会所で一体誰が?
「お、おい、誰だ! 出て来い!」
 声を荒げても音楽は鳴りやまず、誰かが現れる気配もない。
 緒方は倒れた椅子の傍に身体を縫い付けられたように、微かに震える脚を動かせずにその場に立ち尽くしていた。



 一方、緒方の隙をついてカウンターの裏に飛び込んだヒカルは気が気ではなかった。
 室内に音楽を流すスイッチはカウンターの裏にある。何の曲がかかるかも知らないまま、渋々アキラに言われた通りにカウンター裏に忍び込んでスイッチを押したものの、緒方が上から覗いてしまえば一発で見つかってしまうのだ。
 緒方がここまでやってくる気配がないから助かっているが、もしこんな下半身丸出し状態でこそこそ緒方を脅かしている自分達が見つかってしまったら、どんなことになるのかと思うと恐ろしくて想像もしたくない。
 おまけに、ずっとこんな格好をしているものだから、肌寒くてくしゃみがしたくなってきた。ヒカルはむずむずする鼻の周りを擦ってくしゃみを堪えながら、不用意に下だけ裸になるんじゃなかったと後悔する。
(本当に何とかしてくれるんだろうな〜……)
 妙なはりきりを見せていたアキラを疑う訳ではないが、そもそも緒方が幽霊の類いが苦手だという話すら眉唾物である。
(本当だったら、緒方先生、実は佐為が幽霊でしたなんて言ったら腰抜かすかもなあ)
 緒方にだけは真実を話すことが万が一にもないのだろう。ヒカルは肩を竦めて、カウンターの裏側でひっそりと様子を伺った。



 緒方は軽いパニック状態に陥っていた。
 冷静になればいくらでも対処法は見つかったのだろうが、何しろ今下手に動くと霊に見つかると思っている緒方にマトモな判断が下せるはずもなかった。
 ぶつかってきた碁笥の蓋。突然鳴り響いた音楽。
 ピカッと怪しい稲光が、先程よりずっと不気味な光に感じて来る。
 緒方は光に照らされる碁会所にやはり人影が映らないことを確認して、いよいよ覚悟を決めなければと生唾を飲み込んだ。
 音楽を鳴らすスイッチは、カウンターの裏にある。
 誰かがいるのか、確かめて来なくては。
 震える脚を一歩、ようやく踏み出した。
 やけに身体が重い。じりじりと鈍い動作でゆっくりゆっくりカウンターに近付いて行く。いつものようにツカツカと革靴を響かせるようなことはしない――霊に見つかると困るから。
 あと数歩でカウンターに届く、といった距離のところで、緒方は背中に小さな衝撃を感じて飛び上がった。
「!?」
 カツン、と小さな音がした。
 何かが背中に当たった――そう判断する間もなく、続いてひとつ、ふたつと身体に何かがぶつかってくる。
 それが碁石だ、と気付くのにそう時間はかからなかったが、では誰が碁石を投げ付けているかと言うことからはすでに考えを放棄した緒方だった。
 どう見ても、歓迎されている様子ではない。かろうじてそれだけは理解した緒方は、見えないものの意志の通りに素直に碁会所から出ようと決心した。
 訳の分からない現象で震えているよりは、愛車に逃げ込んだほうがよっぽどマシだ――そう思った緒方は、最後の力を振り絞って今は手動となってしまった自動ドアへ向かおうと駆け出した。そう、駆け出したのだ。
 逃げるとなると途端に動きが機敏になる。その後ろから何かが追ってくるような気がして、緒方は必死で走った。走って、そして何かを踏み付け、ずるりと滑って派手にひっくり返った。
 床に尻と手をつき、汗でびっしょりの緒方が背後を振り返った瞬間、収まりつつ合ったと思われた雷が凶暴に室内を照らし出した――


 そこに現れた人の形のシルエットを認めて、緒方は引き攣った顔で叫んだ。



「ざっ……座敷童子だ――っ!」



 もつれる脚を無理矢理回転させ、まさしく転がるように緒方は碁会所を飛び出した。
 階段のラスト五段ほどで脚を踏み外して実際に転がったが、痛みをものともせずに荒れ狂う外に飛び出して愛車に逃げ込み、乱暴に車を発進させる。
 行き先なんて決めちゃいなかったが、とにかく碁会所から離れなければと緒方はアクセルを踏み込んだ。
 その五分後、電気が復旧し、信号も無事に点灯したおかげで、混乱を極めた緒方でも事故に遭うことはなかったのだが。


 緒方の消えた碁会所で、ヒカルが腹を抱えて大笑いしていた。
「ざっ……、座敷童子って……、お、お前のおかっぱ役に立ったじゃねえかっ……ヒー」
 結果として計画はうまくいったのだが、どこか納得のいかない憮然とした表情でアキラは口唇を噛んでいた。
 おまけに緒方に踏み付けられてドロドロになった無惨なアキラのトランクス。雨に濡れた靴のままだっただろうから無理もないが、これでは再び身につけることもできない。
 緒方を追い出すことに成功したものの、いまいち釈然としない。アキラは苦い表情でぐしゃぐしゃになったトランクスを摘み上げた。
「そ、それにしても、緒方先生ってあんな一面もあったんだなあ……って、お前何怖い顔してんだよ」
「決まってるだろう。キミにこの汚れた下着の責任をとってもらうんだ」
「責任って、踏んだのは緒方先生だろ!」
「キミがこんなとこに放り投げたせいだ!」
 アキラはヒカルの腕を掴み、有無を言わさず応接室へと引っ張って行く。
 ソファのある応接室なら、床で転がらなければならないここよりはマシだろう。
 おまけに二人ともずっと下半身を晒したままで、臨戦態勢は整っている。
 ヒカルは引き摺られたままため息をつき、今夜はもう対局ができないことを覚悟した。





 ***





 翌日、空は晴れ渡り、いつもの出勤時間に碁会所に訪れた市河は、カウンターに落とし物として置かれていた緒方の煙草とライターを見つけて首を傾げた。
 それを緒方に返そうにも、しばらく緒方は碁会所に寄り付こうともしなかったため、長い間拾得物の箱に入れられたまま、煙草もライターもひっそりと眠り続けなければならなかった。







feels〜と同じようなパターンですいません……
そんなに若を人じゃないものにしたいのだろうか。
ちなみに若が投げた碁石は後から全部拾って丁寧に洗いました。
こんなことに碁石使ってごめんなさい。
この後の若がノーパンで帰ったかどうかは秘密です。

この話のイメージイラストをいただいてしまいました!
とっても素敵なイラストはこちらから
(2007.5.9追記)
(BGM:LEATHER FACE/hide)