LEATHER FACE






(実は、緒方さんは幽霊の類が苦手なんだ)
(……は?)
 真顔でそんなことを告げたアキラに、ヒカルはいかにも胡散臭いといった顔で尋ね返した。
 聞き間違いでなければ、アキラは「幽霊が苦手」と言った気がする。確かにそういったものに関心は薄そうに見えるが、苦手となると緒方のイメージから若干離れていくような……。
 しかしアキラは真剣な顔を崩さず、微かに眉間に皺を寄せてため息混じりに続けた。
(信じ難いが本当だ。あの人は、ああ見えてオバケとか妖怪とか非現実的なものに弱い。ボクは昔、うちに泊まった緒方さんが夜トイレに行くのに付き合ったことがある)
(ま……マジかよ。それ、いつの話だ?)
(ボクが四つか五つくらいの頃だ)
 たぶん彼はボクが忘れていると思っているだろうけど――アキラは油断のない目でちらりと緒方に視線をやり、ふっと鼻で笑った。
(寝ているボクを無理やり叩き起こしておいて、一緒にトイレに行ってやるなんて言って強引に連れて行かれたんだ。ボクはトイレなんか行きたくなかったのに。子供ながら、彼は可愛そうな人なんだと思ったものだよ)
(お前……さりげなくひでえな……)
 アキラの兄弟子に対するあんまりな物言いに、ヒカルは真っ暗な碁会所で一人煙草を燻らせる緒方を不憫に思い始めた。
(それだけじゃない。あの人は初めてのホテルに泊まる時、必ずホテル側にこの部屋は「出ない」かどうかを確認するんだ。人目につかないようにしているが、ボクは気付いてる)
(そ、そうなのか……? なんか可哀想になってきたぞ……)
 かつては幽霊と身体を共有したヒカルは、さすがにそういったものへの免疫が出来ているが、世の中には正体の分からないものをとことん苦手とする人間も少なくない。
 緒方に哀れみの目を向けるヒカルをよそに、アキラは一人で緒方追い出し作戦を決定事項としたようだった。
(だからちょっと脅かせばすぐに出て行くと思う)
(な、なあ、それよりせっかく真っ暗なんだからさ、今のうちにこっそり服取りに行って顔出したほうがよくないか?)
(駄目だ! 万が一にもこんなところが見つかったら、ボクもキミも一生あの人の玩具になるぞ!)
 小声ながらひどい剣幕で怒鳴るアキラに、ヒカルは慌てて立てた人差し指を口の前に寄せた。
 いくら外の音で多少の会話は消されているといっても、大声を出せば簡単に見つかってしまう距離だ。
 アキラもそのことを思い出したのか、ぐっと口唇を噛んで身を小さくした。しかし、先ほどの自分の言葉を撤回する気はないようだ。
(大丈夫だ。変な物音や気配がしたら驚いて逃げていくだろう。それほどあの人は臆病だから)
(ホントかよ〜? なんか信じらんねえけど……)
(見てろ。すぐ二人だけの時間を取り戻してみせる!)
(……お前、不純な動機のほうが力入るタイプだったんだな……)
 拳を握って燃えているアキラだが、やはり下半身が素っ裸なためにいまいち様にならない。
 ヒカルはもうどうにでもなれと半ば自棄になり、全てをアキラに任せることにした。






 ***





 カランカランカラン……



「……?」
 少し雷が止んで来ただろうかと思い始めた頃、外からのものとは別の乾いた音が聞こえたような気がして、緒方は振り向いた。
 強い風に煽られて、先程からずっと何かが飛んで壁に当たるような音はひっきりなしに届いていた。しかし、今聞こえた音は室内、この碁会所の中で響いたように思える。
 ふと、こつん、と足に何かが当たり、びくりと肩を跳ね上がらせ、過剰反応にひっそり自己嫌悪しながらもその物体を拾い上げた。
 丸くて薄い、滑らかな手触りのそれは碁笥の蓋だった。
 緒方は辺りを見渡す。闇の中でいきなり足に触れたこの蓋が、何処から転がって来たのか方向の見当もつかない。
「……誰か、いるのか?」
 先ほどと同じ質問を暗闇に向かって投げかけるが、やはり返事はない。ただ、窓越しに荒れ狂う風の音がひゅううう、ごおおおと悲鳴のような呻き声のような不気味な音を立てるばかりだった。
 緒方はごくりと唾を呑んだ。そして、この碁笥の蓋が勝手に転がって来るような状況を推理しようとした。
 しかし、地震も何もなかったというのに、人の手を借りずにこんなものが一人で転がって来るはずがない。
 もしも、人の手ではないもので転がされたのだとしたら。
「……」
 緒方の目が忙しなく動き始めた。右に左に、幾分遠くに離れた雷鳴が時折鳴り響く度に、一瞬明るくなる碁会所の隅々に余裕なく視線を走らせる。
 乾いた口唇を舐め、碁笥の蓋を握りしめる指先は冷たい。
 慣れ親しんでいた碁会所だからこそ、今のような真っ暗な状況でも余計なことを考えずに忘れていられたと言うのに。
 しかし、気付いてしまったらもう遅い。
 ――緒方は、科学で解明することができない現象全般が苦手だった。

 何がきっかけだったのだろうか。
 小さい頃、夜更かしをしていると妖怪に攫われると脅されたのが始まりだっただろうか?
 運悪く、テレビで妖怪が子供を次々に食べてしまう映画を見てしまったせいで、親の言葉が真実味を帯びて子供の心に傷を作ってしまった。しばらく、緒方は一度布団に入ったら身じろぎしないで寝る癖がついた。動くと妖怪に見つかると思っていたからだ。
 だが、それだけではなかったような気がする。
 小学校時代、クラスの少し大人しめな女の子に
「精次くんの後ろに女の人がいる」
 と言われたのが決定打だったかもしれない。
 普段は無口であまり人の輪に入らないその子がぼそりと呟いた言葉は、緒方のみならず周りにいた友人たちにも大きなショックを与えた。
 それから緒方は夜一人でトイレに行くことができなくなった。夜だけではない、人気の少ないトイレには昼でも入るのを渋るようになり、当時の緒方は常にもじもじしていたと後に旧友達が語っている。誰もいないトイレに入ったからと言って、後ろにいると指摘された女の人の気配を感じたこともないが、誰かがじっと後ろから自分を見ているような錯覚をついに否定しきれなかったせいだ。
 おまけに中学校に進学した後、クラスで浮いていた何かのマニアらしい同級生をからかっていた時、
「サタン様がお前に裁きを与えるだろう!」
 なんて台詞と共に塩をまかれた苦い過去もある。
 その不気味な台詞の直後、学校の階段から滑り落ちて足首を捻り、緒方はひっそりとサタン様とやらに許しを求めてお祈りした。自分の髪の毛を落として誰かに拾われないよう気をつけるようになった。白い私服が増えたのはその頃からかもしれない。
 そうして、すっかり妖怪・幽霊・悪魔信仰から果ては雪男やネッシーまで、とにかく今生きている人間とは違う存在のもの全てが緒方にとって畏怖の対象になってしまったのだ。
 正直、いい年をした大人になってまでそんなものを怖がっている自分が情けなくて仕方ない。
 普段の自分に似つかわしくない格好悪さ故、周囲の人間には知られないよう極力虚勢を張っている。
 今から十年以上も前に、師匠である塔矢行洋の広い日本邸宅に宿泊した時、どうしても夜中にトイレに行きたくなって寝ているアキラを叩き起こして付き添わせたこともあるが、アキラは小さかったので覚えてはいないだろう。
 懐いている弟弟子の芦原にも気付かれてはいないはずだ。以前、芦原が面白半分で持って来た「霊の声が入ったCD」なんてものを愛車でかけた時はぶん殴ってやろうかとも思ったが、寸でのところで留まった。怖いから嫌だと言えずに痩せ我慢してつきあった結果、その夜はベッドに潜ったまま一度も顔を出せずに朝まで眠れない時間を過ごすハメになった。
 しかし、緒方がこれまで実際にそういった現象を見たことがあるかと言えば、答えは否である。
 だからこそ、たった今転がって来た碁笥の蓋の理由が分からず、まさかこれが初めての奇怪体験では――とあっさり自ら恐怖を招き入れてしまったのだ。






どんなキャラでも一度は落とさないと気が済まないのかな……
無理があるっちゃ無理矢理すぎなんですけどね……