――目が覚めたら病院だった。 独特の臭いと、やけに白で統一された壁や天井。ベッドをぐるりと囲むカーテンだけは仄かなベージュ色だが、そもそも人を隔離してるような形のカーテン、病院でしか見たことがない。 そんな周囲の景色でアキラはここが病室であると判断したわけだが、それ以外の状況はさっぱりと掴めなかった。 まず、全身に走る痛み。その痛みはぴりっとした反応の速いものではなく、オブラートに包まれたような出所の定かではない鈍痛だった。なんだか、身体の芯が麻痺しているように。 その不思議な怠さは身体だけではなく喉にも居座っていて、口を開いて声を出そうとするがどうにもうまくいかない。動かすのも億劫な、舌の根が痺れているようなそんな感覚。 顔の筋肉を動かすだけで嫌な引きつりを感じた。どうやら頬にべったりと大きな絆創膏か何かを貼られているようで、その面積の広さが邪魔をしているらしい。怪我でもしただろうか? アキラは純粋にそんなことを考えた。 どうやら、軽い怪我程度の状態ではない、と気付くのにも時間はかからなかった。母親が青ざめた顔で上からアキラを覗き込んでいたからだ。 お母さん、と声をかけようとするが、やはり声を出そうにも喉が動かすのが辛い。かろうじて口唇が僅かに振れたのを母は見たのだろうか、その目がはっとしたように大きくなった。 「アキラさん……気がついた?」 返事ができないアキラは合図代わりに小さな瞬きをした。 はあ、と母のものではない安堵の溜め息が耳に届く。どうやら視界には映っていないが、病室には他にも人がいるらしい。 アキラは首を動かそうとしたが、それも叶わなかった。身体に力が入らないのだ。アキラが身じろぎしようとしていることに気がついたのか、母の反対側から見覚えのない男性がひょいと上からアキラの視界に入るように顔を覗かせてきた。 メガネをかけて白衣を着ている。そのなりから、医者だとすぐにアキラは見当をつけた。 「まだ鎮静剤が効いているからね。無理に動かないほうがいい。もう少ししたらちゃんと動けるようになるからね」 穏やかな声でそう告げられるが、アキラには依然として現状が分からないままだ。 鎮静剤? 自分は一体どうなってしまったのだろう? 病室のベッドで眠っているなんて、何か事故にでも遭ったのだろうか? アキラの疑問に答えてくれる者はおらず、医者と思しき男と母はアキラが横たわるベッドを間に挟んで会話を始める。 「もう少し意識がはっきりしてきたらもう一度検査をしてみましょう。また興奮するかもしれませんので、様子がおかしいと思ったらすぐにコールを」 「分かりました。できるだけ混乱させないよう、本人に説明してみます」 母が医者に頭を下げる。アキラは二人の会話に出てきた「興奮」「混乱」といった単語に心の中で眉を顰めた。 ――なんだ? 一体何があったんだ? ボクは……どうして動けないんだ……? 疑問を口にすることができないアキラを置いてきぼりに、医者は看護士を伴って病室を出て行き、母は改めてアキラの傍に椅子を引いて顔のすぐ横に腰掛けた。 その後ろに、心配そうな表情の芦原が見えた。――芦原さんも来てくれていたんだ――呟きはやはり声にはならなかった。 母は優しい眼差しをふいに引き締めて、アキラさん、と静かに声をかける。 「まだ、あなたには信じられないかもしれないけれど。今のうちに、少し話しておくわね。あなたの名前は塔矢アキラ。十五歳よ。本当なら高校に通っている年だけれど、あなたはもうお仕事をしているの。囲碁を打つお仕事……棋士というのよ。分かるかしら?」 母の言葉にアキラは自由にならない顔を歪めようとした。 ―― 一体何を言っているんです、お母さん? 今更そんな説明をしなくたって、自分のことくらい分かっていますよ…… 母はそんなアキラの小さなアクションに気付かず、言葉を続ける。 「あなたは今日、お仕事に向かう途中、道路に飛び出した子供を助けようとして代わりに車に撥ねられてしまったの。その時に頭を打ってしまったみたいで、あなたは……記憶を失ってしまったのよ。」 アキラは目を見開こうとした。しかしどうにも力が入らない。 母の顔は真剣で、とても冗談を言っているようには見えなかった。――お母さん、大丈夫です。ボクはちゃんと覚えています! そう伝えたいのに、身体が自由にならないことがもどかしい。 母はアキラを安心させるためか、柔らかく微笑んだ。 「でも、心配しないでね。きっとすぐに思い出すわ。それまで不自由でしょうけれど、私たちがいますからね。ああ、自己紹介がまだだったわね? 私はあなたの母親よ。こちらはあなたの兄弟子の芦原さん。お父さんもまもなくこちらに見えますからね」 芦原がひょいと顔を出し、「アキラ」と控えめに呼びかけた。 「お前が小さい頃からよく一緒に遊んでたんだよ。何か分からないことがあったら何でも聞いていいからな。安心しろよ、アキラ」 芦原が限りなく泣き顔に近い笑顔を見せ、アキラはますます困惑した。 ――二人のこともちゃんと覚えています。ボクが十五歳なのも、棋士だということも。記憶がなくなってなんかいません…… それを今すぐ言葉で伝えられたら、どんなにか二人を安心させてあげられただろう。 しかしアキラの四肢も口もまるで言う事を聞かず、横たわったままじれったさを感じるだけで何も行動することができなかった。 一体どうなっているんだ? アキラが困り果てたその時、廊下から病院に似つかわしくないばたばたとした騒々しい足音が聞こえてきた。 足音はそのままがらっとこの病室の扉を開け、誰かが凄い勢いで中に飛び込んできたことが横になったままのアキラにも分かった。 「塔矢っ!」 アキラの名を呼ぶ声に、アキラは胸をどきんと竦ませる。 ――進藤…… 声だけですぐに分かったその人は、病室だというのに慌しくアキラのベッドに駆け寄ってきた。 「塔矢、大丈夫かっ!」 まるでベッドの上のアキラに掴みかからん勢いでがばっと顔を覗き込んだヒカルに対し、母は穏やかに告げる。 「進藤くん、来てくれてありがとう。でもここは病室だからもう少し静かにね」 「あ、す、すいません」 窘められたせいか、走ってきたからか頬を赤く蒸気させ、ヒカルはまだ息切れしたままアキラの顔をまじまじと見下ろした。 その目が今にも泣き出しそうで、アキラの胸がきゅんと苦しくなる。 「塔矢……俺のことも忘れちゃったの……?」 哀しげに呟くヒカルに、そんなはずがない! と首を振りたいのに、やはり身体は全く思い通りに動いてくれなかった。苛立ちに何とか眉だけを顰めるが、ヒカルはそれを自分の言葉を肯定したものと受け取ったらしい、がっくりと肩を落とした。 ――キミのことを忘れるはずないじゃないか! ボクが、ボクがキミを忘れるだなんて……! 声が出ない。ああ、なんだってこんなことになっているんだ! 「進藤くん、今日名古屋で対局じゃなかった?」 芦原が少し驚いたように声をかけると、ヒカルは薄ら潤んだ目をぐいとこすってから答えた。 「ん……対局終わってからすっ飛んできた。連絡もらったの朝だったから……」 「そうかあ、お疲れさま。少し休んだら? ロビーで飲み物でも飲む?」 「ううん……俺、塔矢の傍にいる」 その発言にアキラはぎょっと目を剥いた……気持ちだけ。実際には僅かに瞼が広がった程度の動作にすぎなかったが、動かない身体に代わってばくばくと心臓が力いっぱい運動してくれている。 ――まさか、進藤がそんなことを言ってくれるなんて。 起き上がってヒカルに腕を伸ばしたいが、もどかしく横たわっていることしかできない。 焦れるアキラをよそに、芦原は親切にもヒカルに椅子を持って来て、ヒカルもその椅子をアキラの傍に据えてちょこんと腰を下ろした。 「忙しいのにごめんなさいね、進藤くん。ありがとう、心配してくれて」 アキラを挟んでヒカルと向かい合わせに座っている母が、優しい声でそう言いながら頭を下げた。ヒカルはただ首を横に振り、何も言えなくなってしまったようだ。 母はおもむろに立ち上がり、ヒカルに向かって言葉を続けた。 「それじゃあ申し訳ないけれど少しアキラさんを見ていてくださるかしら? 後援会に電話をしておきたいの」 「はい、俺ずっとここにいますから」 「ごめんなさいね。何かあったらナースコールを押してね」 母はそう言ってアキラを見下ろすと、安心させるためかにっこりと微笑んだ。 足音穏やかに病室を出て行った母に次いで、芦原も胸元、恐らく携帯電話を探りながら慌しく廊下に向かう。 「ちょっと俺も電話してくるよ。緒方さんとか状況説明してくる」 「うん、いってらっしゃい」 ぱたぱたと少し耳障りなスリッパの音を響かせて、芦原も病室を出て行った。 アキラとヒカル二人だけになった病室で、ヒカルは肩を垂らして腰掛けたままふうとため息をつく。 「塔矢……きっと、思い出すからな。……思い出せよ、俺のこと……」 小さな声で確かにそう呟いたヒカルは、アキラを見つめて目を潤ませる。 こんなヒカルを見るのは初めてだった。 いつも憎まれ口ばかり叩いて、会えば喧嘩ばかり、それでも顔を合わせずにいられない特別なライバル。 そのヒカルがこんなにも心配してくれている。 ――そうだ。ボクらは確か、この前とても微妙な別れ方をしたはずだ…… いつもの碁会所で、いつものように検討に熱が入って他の客の目も憚らず大声で怒鳴りあっていた時。 コーヒーを持ってきた市河が、呆れたようにこんなことを言ったのだ。 『もう、ホント二人とも碁のことになると夢中なんだから。普通、その年の男の子ならもっと遊ぶこととか女の子のこととかでいっぱいだと思うんだけどねえ。二人とも気になる子とかいないの?』 ごく軽い調子でそんなことを聞かれた時、二人は思わず顔を見合わせてしまった。そして目が合った瞬間、確かに二人はお互いの姿を目に映してカッと頬を染めたのだ。 市河がその不自然な様子に気付かなかったのは幸いだった。あれからなんだかぎくしゃくとしてしまって、アキラもヒカルも視線を交差させないようにしてぎこちなく帰宅してきたのだが…… それ以来、仕事の都合で会えていなかった。実に二週間ぶりの再会だったのだ。 ――あの時の反応……、進藤は確かにボクを見て赤くなった。ひょっとして…… アキラの胸が期待に疼く。――アキラはヒカルのことが好きだった。友人としてではなく、恋愛感情として。 一度も口にしたことはないけれど、お互いを見る目、些細な仕草で微かな好意を感じると思っているのは自惚れだろうか? あの日のヒカルは間違いなくアキラに特別な感情を持っている顔をしていた。もしかしたら…… 普段はついつい照れ隠しも伴って言い争いばかりしてしまうが、今目の前にいるヒカルは実に純粋にアキラを心配してくれている。 何故だかアキラが記憶を失ってしまったと思い込んで、自分のことを思い出してほしいと願っているのだ。 ――これは……このまま記憶をなくしたフリをしていたら、進藤の本当の気持ちを聞き出すことができるかも……? 思わずアキラがそんなことを考えた時、病室のドアが再び開いて父である行洋が顔を出した。咄嗟にヒカルは立ち上がり、父に向かって一礼する。 「進藤くんも来てくれたのか。すまなかったね」 「いえ、俺は別に……」 かしこまったヒカルと父の会話を半ば上の空に聞きながら、アキラは今しがた思いついた計画のためにじっと大人しくしていることを決めた。 悟られてはならない。記憶など失っていないということを。 アキラの企みなど知らないヒカルは、神妙な顔で行洋と話し続けていた。 |
記憶喪失ネタは2つ戴いていて、今回はS様のリクエストです。
厳密には記憶喪失ネタとはちょっと違うかも……?
ギャグのようなそうでないような中途半端なお話ですが
若がまたちょっとアレな感じなのはいつも通りです……