LOVE & GAME






 それから静かに状況を伺っていたアキラは、現状をおおむね理解することができた。
 車に撥ねられて病院に運ばれたアキラは、応急処置の後に一度目を覚まし、軽い錯乱状態に陥っていたらしい。
 どうやら一時的に記憶が飛んでいたようで、「ここはどこだ」「ボクは誰だ」と暴れたため、鎮静剤を打たれて眠らされた後、次に目覚めたらこのありさまだった、という訳だ。
 医者の言う通り、それからしばらくの間安静にしていたアキラは、身体の麻痺していたような感覚が徐々に抜けていくのを感じていた。
 なんとか上半身を起こせるようになった頃は掠れていたが声も出るようになって、ご心配おかけしました、と第一声を口にしたときは傍らの母がそっと目尻を拭いていた。
 棋譜のずっしり入った鞄がクッションになったとかで、擦り傷は目立つものの大袈裟な外傷はない。ただ、右足だけは捻挫のためにしばらく歩きにくくなるだろうと言われた。それも十日ほどで良くなるらしく、庇った子供にも怪我はなかったようで、両親は安堵の表情を見せてくれた。
 問題は、失ってしまった(フリをしている)記憶のことだ。
 一度目が覚めた時の暴れ方がどうやら相当凄かったらしい。すっかり頭がおかしくなってしまったと思った母は心中まで決意したのよとさらりと告げ、アキラは内心震え上がった。
 ここで、「記憶はきちんと戻っています」と告げることができたらどんなに周囲は喜んだだろう。
 しかしアキラは喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んでいた。
 先ほどの言葉通り、アキラの傍から離れないヒカルの存在が、アキラに悪巧みの続行を囁きかけるのだ。
 明日改めてきちんとした検査を行うとのことで、その日は入院しなければならないアキラのベッドの横に、ヒカルはギリギリまで居座っていた。
「なあ、なんか飲みたいものあるか? 俺、買って来ようか?」
「大丈夫……さっき夕食を食べたばかりだし。ありがとう」
 こんなに甲斐甲斐しくアキラの身の回りを世話してくれようとするヒカルを見ることができるなんて、夢ではないだろうか。
 結局ヒカルは面会時間ギリギリまで病室に張り付き、帰るときもぐずぐずと名残惜しそうに出て行った。
 記憶障害という問題を考慮してか個人部屋を用意されていたアキラは、一人きりになった病室ではあとため息をつく。
 人生何が起こるか分からないものだ――ヒカルを見送るために起こしていた上半身をぼすんとベッドに倒して、天井を睨む。
 周囲の人間はアキラが記憶を失っていると思い込んでいる。今日はまだ事が起こった当日だからやんわりと様子を見られた程度だが、明日からはいろいろ詮索が入るに違いない。
 すなわち、アキラが本当に記憶を失っているのか、失っているとしたらどこまでなのか、元に戻りそうな気配はあるか。
 心配してくれている人たちの目をごまかし続けるのはアキラの良心が痛むが、しかしあんなヒカルを見る機会など滅多にない。さっきだって、別れ際と言えば「帰る!」という怒鳴り声しか聞いたことがなかったのに、あんなに後ろを振り返り振り返りして心配そうに目を潤ませていたではないか。
「進藤……」
 アキラは切なげにヒカルの名前を呟き、再び熱っぽいため息をついた。
 ヒカルへの想いを自覚したのは割と最近だった。しかし、今から思い起こせばもう随分と前からヒカルに惹きつけられていたのだろう。ひょっとしたら、初めて逢った時から。
 謎の不戦敗が続いた後、アキラの前で「囲碁をやめない」と宣言してからのヒカルの活躍は目覚しかった。共に日本の代表として北斗杯という国際棋戦に出たりもした。北斗杯が終わってからも、しょっちゅう時間を見つけてはプライベートで打っている。
 周囲からは良きライバルと謳われ、ヒカルの評価が以前よりもぐっと上がっていることが喜ばしいのに、いつしかそれだけの関係では物足りないと思っている自分がいた。
 拗ねて軽く尖らせる口唇、珍しく検討中に意見が一致した時に見せる笑顔、後ろから声をかけられて軽く振り返る首の傾げ方……そんなものに目を奪われるようになった。気付けば全身のアンテナがヒカルを向いている。声が、気配が、存在がアキラを惹きつけてやまない。
 幼い頃から碁一直線だったアキラは、自分の中に産まれたこうした感情をどう処理したら良いか分からず困惑していた。
 おまけにヒカルは男だ。まだ成長途中の顔立ちに幼さは残るが、少年のそれであって女性めいたところは見られない。
 この先もずっと一緒に碁を打ち続けていくには、こんな想いを抱えていてはいけないのでは――? アキラの葛藤は、しかし意外にもヒカルの微妙な態度で長引くことになった。
 ふとした瞬間に目が合った時、気まずそうに目を逸らしたりする。碁盤を片付けようと石を選り分けて、微かに指先が触れ合った時は赤い顔でぱっと手を離してしまったりしていた。
 言葉でやりこめるとすぐムキになるが、どこか哀しそうな顔をする。「帰る!」と言って碁会所を出ようとする時も、出て行く寸前ちらりとこちらを振り返ってアキラが追いかけて来ないか待っているのも知っていた。
 そうしたヒカルの素振りが無性にアキラの胸を掻き立て、もしや――と小さな期待までもを膨らませてしまうのだった。
 少なくとも嫌われてはいないのだろう。でなければ、あんなにしょっちゅう一緒に打とうと思うまい。
 では、好かれているのか、たとえそうだとしてその「好き」はどのレベルか? それはアキラにとって由々しき問題だった。捉え方を間違うととんでもない結末を招く。そのため、うかつにヒカルに探りを入れることができなかった。
 しかし今なら。記憶を失ったと思われている今なら、記憶を取り戻そうとあれこれ詮索をしたって不自然には思われないだろう。ましてやヒカルはしょっちゅうアキラと一緒に打っていたと、先ほどもヒカル自身がアキラに向かって力説していたのだ。そんな存在を頼らないはずがない。
 うまくいけば、ヒカルの口から嬉しい言葉が聞けてしまうかもしれない――アキラの胸が高鳴る。
 もし首尾よく事が運んだら、ある日突然記憶が戻ったように装えば良いのだ。誰も疑ったりするまい。何しろ最初の暴れっぷりが余程酷かったらしく、あの母までもがアキラが記憶を失ってしまったと思い込んでいる。
 大丈夫だ、やれる。アキラは拳を握り、期待に満ちている胸にぐっと押し当てた。
 明日からの挑戦のために休養を取らねばと、まだ消灯には一時間ほど猶予があったが、早々と眠りにつくべくアキラは目を閉じた。






今回はちょっと短かめで。
最初に説明忘れた気がするんですがこの二人15歳です。
なんか30万感謝祭の年齢幅が広すぎて訳分からなくなってきました。
書き手がこうだから読んで下さる方はもっとしんどいですね……