LONG ROAD






「何やってるんだ、もうそろそろ出るぞ」
「ちょ、ちょっと待って……髪がきまらない〜!」
 シャンプードレッサーの大きな鏡の前でかれこれ二十分以上も格闘しているヒカルへ、アキラはリビングから大きな声で呼びかけた。
 返ってきた予想通りの答えにアキラはため息をつき、ちらりと壁の時計を見上げてから諦めたようにソファに腰掛ける。
 早めに支度をさせて良かった。そんな独り言を呟いて、まだ若干余裕のある時間を秒刻みに数えながら、自らもネクタイが曲がっていないか、服に目立つ皺などないか身なりをチェックする。
 本日のアキラのスタイルは普段仕事に着て行くようなスーツ姿とは少し変わって、落ち着いたダークスーツにタイトな白シャツ、パールの細身のネクタイとお揃いのカラーで胸ポケットからチーフが覗いている。
 かっちりとした基本ラインの中に、これは本人が持って産まれたものかもしれないが、パーティー向きの華やかさも品良く醸し出されている。
 ソファに凭れながらすいと顎を上げたアキラの顔は、先月に比べれば随分肉が戻り色も良く、フォーマルな服装が栄えていつもより更に人目を惹きそうだった。
「悪い、お待たせ!」
 ようやく張り付いていた鏡の前から離れてリビングに戻ってきたヒカルもまた、アキラのようにスーツ姿で現れた。アキラよりは若干カジュアルな深いグレーのスーツは、ごく近くで見なければ無地とも見紛うさり気ないピンストライプが洒落ている。
 加えて前髪をサイドに流して額を見せたヘアスタイルは彼を随分大人びて見せ、アキラは軽く目を見開いて微笑んでみせた。
「へえ、ねばったかいがあったじゃないか」
「ん?」
「いい男になった」
「ばかやろ、元々イイ男だろ」
 冗談っぽく怒った顔を作るその表情もまた素敵だと思ったが、いちいち口にすると本当に怒られかねないのでやめておく。
 細身のスーツがよく似合っている。ほんの数年前まではスーツに着られていたというのに、今では様々なカラーのスーツを着こなすまでになった。シルバーのネクタイも自分で結んで、手付きが覚束ないなんてことはもうない。
 感慨深くヒカルを見つめるアキラに対し、ヒカルはひょいっと身を屈めて下から覗き込むように首を傾け、アキラの頭から足先までじっとりと視線を動かした。
 そうしてにやっと笑って、
「お前もなかなかイイ男だぜ」
 どこまで本気か分からないが、そんなことを囁いて来る。
 ありがとう、とアキラは苦笑で答えた。
「マズイな俺ら。新郎より目立っちゃうんじゃねえ?」
「それは市河さんに恨まれそうだ……と、もう市河さんじゃないのか」
「なんだっけ? 新しい苗字」
「中野さんだよ。ってこんなことやってる場合じゃないぞ」
 アキラは再び時計を見上げ、釣られて顔を上げたヒカルも差し迫る時間の存在を思い出したらしい。
「おし、行くか! 急がないとな」
「ボクが運転するよ。焦った時のキミは危ない」
「んだと。ん、でもまあいいや。頼む」
「了解」
 着飾って肩を並べた二人は軽く火の元をチェックしてから部屋を出て、しっかり戸締りしてアキラが住むマンションを出た。
 駐車場に停められているヒカルの愛車の運転席にはアキラが座り、助手席にヒカルが滑り込む。
「どのくらいで着くっけ?」
「道が混んでなければ三十分ちょっとかな。まあ、多少捕まっても間に合うだろう」
 途中でアキラがエンジンをかけたため、言葉の後半はその音に掻き消された。
 それでもヒカルは聞き返すことなく、素直にシートベルトを締めてオーディオに手を伸ばす。
 ヒカルの指がプレイボタンを押したのと同時に、車はゆっくりと動き出した。



「でも俺、親族でもないのに式にまで出ちゃっていいのかなあ」
 ヒカルは往生際悪くサイドミラーを覗き込みながら前髪を弄っている。出来栄に完全に納得した訳ではなかったらしい。
 悠然とハンドルを構えたアキラは、頭上を通る標識に注意しながら道順を確認しているようだった。ヒカルに道案内をする気などさらさらないことはしっかり理解しているようだ。
「招待を受けたんだから構わないだろう。それにそんなことを言ったらボクだって親族じゃない」
「お前はいいんだよ、塔矢門下の代表なんだから。先生たち、またしばらく向こう行ったっきりなんだろ?」
「ああ、母が酷く残念がっていた。市河さんの晴れ姿を見たかったってね」
「あ、じゃあ俺デジカメ撮ったらおばさんにも焼き増しするわ」
「それは喜ぶよ、きっと。ちゃんと持って来た?」
「もちろん」
 ヒカルは胸ポケットからまるでカードのようなデジタルカメラを取り出した。
 つい先月自分への誕生日プレゼントだと言って買ったばかりのデジカメは、適当な試し撮りを除いては今日がデビュー。ネクタイとお揃いのシルバーのボディはスーツ姿にも違和感なく溶け込み、再びポケットにしまったところであまりに薄いので見た目も気にならない。
 アキラは誇らし気に胸を叩くヒカルをちらりと横目で見て、微笑みながら前を向いた。
 今日はアキラの父である行洋が経営する碁会所の受付嬢、市河晴美の結婚式である。
 今月の頭に入籍を済ませ、すでに苗字は変わってしまっているのだが、碁会所ではなかなか慣れずについ旧姓を呼んでしまう。常連客たちも「市っちゃん」の愛称で親しんでいたため、どう呼んだものかと困っている様子を見て、今まで通りでいいのよと晴美は笑った。
 その笑顔を見た時、アキラは確かに晴美が綺麗になっていたことに気付いて驚いたものだった。見た目に明らかな変化があるわけではないのに、彼女の持つ雰囲気が全体的に柔らかく優しくなったような気がする。
 幸せそうで良かったと顔を綻ばせたことを思い出しながら、アキラは式場となるホテルへの道のりを迷うこと無く進んで行った。
 先月アキラの元に送られて来た一通の招待状は、同じくヒカルの元へも送られて来ていた。恐らくアキラ一人で参列することへの抵抗を軽減させるため、晴美なりの気遣いだろう。それに、ヒカルは晴美の結婚を心から喜んでいた一人だったから、そんな人に祝ってもらいたいと思ったのかもしれない。碁会所でのヒカルと晴美のやりとりを思い出し、照れくさそうでありながらとても嬉しそうだった晴美の表情が浮かんでアキラは目を細める。
 ――先月、ようやく再びヒカルと向き合うことができてから、アキラの中で実に穏やかに日々が過ぎて行った。






「IN MY DREAM」で碁会所でのアキヒカの会話の中に、
間が持たないと思って市河さんの結婚話を突発で入れたせいで
全く予定になかった結婚式のお話ができちゃいました。
と言っても市河さんの影が恐ろしく薄いですごめんなさい……!
ちなみに二人のスタイルももう深く考えないで下さい……
オシャレなフォーマルなんて分かんねえ!