LONG ROAD






 以前のように頻繁にアキラの部屋に顔を出すようになったヒカルだったが、今までと違うのは、渡した――というより元々渡していたものだから、「返した」というのが正しいかもしれない――合鍵をごく普通に使うようになったと言うことだった。
 最初こそチャイムを鳴らし、モニタ越しに「これ使って良い?」とわざわざアキラに許可をとって楽し気に合鍵を差し込んでいたが、今では遠慮なく合鍵でエントランスを潜ってアキラの部屋の前までやって来る。一度だけだが、アキラが留守中に先にヒカルが中に入り込んでいて、灯りのついた部屋で出迎えられた時は驚きつつも酷く暖かい気持ちになったものだった。

 「一緒に暮らそう」と、口を開いたのはヒカルのほうだった。

 いつか二人で暮らせたら、元々そんな動機で一人暮らしを始めたアキラではあるが、まだその時期ではないのだろうと思っていた。ヒカルはまだアキラに対して見えない壁を持っている。その壁をヒカルが自ら壊してくれるその時まで、いつまでも待つ覚悟は出来ていた。
 それが、あんなにも澄んだ落ち着いた瞳でアキラを見つめて、静かに笑ったヒカルは確かにこう言ったのだ。「一緒に暮らそうか」と。
 まるで予期していなかった言葉にアキラの思考は一時停止し、まずはその言葉の意味を噛み砕くことから始めなければならなかった。そしてその喜びを胸いっぱいに広げた時、ヒカルとの同居を待切れないアキラに対して彼はあっさりと言い放ったのだ。
『来年の五月にする』
 これにはアキラも思わずヒカルに詰め寄ってしまった。
 思い起こすと我ながら余裕がないとは思うが、膨れ上がった期待をぱちんと割られてしまったような気分だったのだ。
 来年の五月だなんて、半年どころか後八ヶ月。随分遠い予定にアキラはしっかりと肩を落とした。
 それでも、ヒカルの穏やかな笑顔を見ると、何も言えなくなってしまった。――自分だって時期尚早だと思っていたくせに、目の前にぶら下げられると一も二もなく食い付こうとしてしまったことを恥じながら。
 何より、ヒカルに特に追求はしなかったが、ヒカルにしては実に明確な予定を提示してきたことにアキラは気付いていた。
『五月』
 それは、今までヒカルを見つめて来たアキラにとっては因縁の月でもあった。
 五月を境にアイツは変わる、と緒方に言われたこともあった。これまでの北斗杯の夜、ヒカルは決してアキラと逢おうとはせずに一人で過ごして来た。そしてその理由には彼の人が深く関わっている。
 ――今日は特別な日なんだ。
 その「特別」の訳をいつか話してくれる日まで、何年だって待ってやると意気込んで来た自分の想いが、ひょっとしたらようやく報われるのだろうか。
 いや、例えそうではなくても、ヒカルが胸に抱く秘密に僅かでも近付くことはできるかもしれない。ヒカルが、それを望んでいてくれているのかもしれない。
 そう思うと、ますますアキラは何も言えなくなった。どうせいくらでも待つつもりだったのだ、来年の五月だなんてあっという間だろう。寧ろ、その日を待つ楽しみが増えて良かったと思わなければ。
 一緒に暮らす日はまだ先でも、ヒカルはこうしてすぐ傍にいてくれる。
 そのことがどれだけ幸せか、今は充分すぎる程に理解している――

 こうしたやり取りを経て、ヒカルはごく自然にアキラの部屋に訪れるようになり、今回もアキラのマンションから式場となるホテルに向かうほうが早いから、という理由で泊まりに来ていた。
 持ち込んだスーツ一式とヘアスタイリング剤は、ひょっとしたらそのまま置いて行く気かもしれない。こんなふうに着々とヒカルのものが増えつつある。引っ越して来る前にヒカルの住処が完成されてしまうのではないだろうかなんて、アキラが思わず苦笑してしまうほど。
 寝室として使っている部屋をアキラの部屋に、もうひとつ空いている部屋をそのままヒカルの部屋にしてしまえばいい。ヒカルも恐らくそのつもりなのだろう、時折大した荷物も置かれていないその部屋に入り込んではあれこれと物の配置を考えているようだ。なんだかんだと言いながら、ヒカルもアキラと暮らすことを楽しみにしてくれているのだと思うと嬉しくなる。
『問題は親だよなあ』
 頭を掻きながらヒカルはそんなことも言っていた。
 ヒカルは家事全般、ほぼ全滅である。家にいる間、食事も洗濯も全て母親任せで、掃除もせっつかれなければ滅多にしないため、友人との同居を切り出した時に反対される可能性が高いかもしれない、と。
 確かにアキラが作る夕食の手伝いでさえ、ごく最小限のことしかさせられないほど危なっかしい。せいぜい皿を並べてもらう程度に留めなければ、台所が崩壊してしまうのではないか――と思ったこともある。
 割られた食器は大皿一枚カップ二つ。美しく盛り付けたサラダを器用にひっくり返したこともあった。取り揃えておいた調味料の区別がつかず、適当にぶちまけられて酷くスパイシーなスープが完成したこともあった。とても安心して作業を任せられるものではない。
 まあ何とか説得するから、と笑ったヒカルだったが、大丈夫だろうかと不安になるのを誰も咎められまい。ここで自分が出しゃばったところで逆効果になる可能性も否めない。ヒカルに頑張ってもらうしかないのだが、にこにこ笑う緊張感のない様子は少し頼り無い。
 そんな現状であるから、八ヶ月という猶予は実際は妥当なラインだったのだろうかと、アキラはひとつ小さな溜め息をついた。その吐息に素早く反応したヒカルが、首を傾げてアキラを見た。
「どした? 運転疲れたか?」
「……いや。もうすぐだよ。ほら、あの高層の」
「おお、キレイなホテルじゃん〜! なんか俺キンチョーしてきた」
 助手席ではしゃぐヒカルにアキラは微笑み、ウィンカーを上げてホテルの駐車場へ入るべくハンドルを切る。
 流れ良くここまで来れたおかげで、予定通りの三十分で目的地に到着することになった。






 ホテルのロビーには様々な人が集い、中にはアキラやヒカルと同じようにフォーマルな服装をしている男女もちらほらと見える。他に式があるのか、それとも同じ参列者なのかは分からない。
「今何時?」
 ヒカルの呟きに、アキラは左手首を確かめる。
「二時四十分。二十分前だ」
「お、ちょうどいいじゃん。場所どこだっけ?」
「二階のチャペルだそうだよ。行こうか」
 広いロビーを横切って、並んでエスカレーターを目指す二人を若い女性の二人組が振り返った。アキラはちらりと横目をヒカルに向け、軽く肩を竦めて気付かれないように息をつく。
 若い人間ばかりだからと、披露宴の後の二次会にも誘われていることを思うと、少しばかり用心しておいたほうが良いだろうかなんて――杞憂と分かりつつそんなことを考えてしまう。
 何しろ自分でさえ今更のように見愡れてしまうくらいなのだから。
 思わず茶化して素直に褒められなかったくらいに。






アキラさんの状況説明で一話終わってしまった……
落ち着いて暮らしているようです。
人目を惹くのはヒカルだけではないのですが、
そこらへんの自覚はそうでもない模様。