ラストシーンから始めよう






 たぶん、ちょっとしたタイミングの問題だったのかもしれない。
 あの時の俺たちは、そんなことなんて考える必要もなくて、ただ毎日を二人で過ごすことを純粋に喜びあってた。
 そう、喜びあってた。お互いにそう思っていた。
 それで充分だった。それ以上も以下も望まず、そのままいられるだけで幸せだった。
 それだけで幸せだった。



 緒方先生の名人獲得記念パーティーは、海の見えるホテルで開かれた。
 弟弟子の塔矢は当然として、塔矢門下でもない俺が呼ばれるなんてちょっと緊張したけれど。
 緒方先生の名人戦の最終局は本当に凄かったから、純粋におめでとうを言いたくて、いつもよりちょっとかっちりしたスーツを着てパーティー会場に招かれていったんだ。
 会場では塔矢が俺を見つけてくれて、こういった雰囲気に不慣れな俺をさりげなくフォローしてくれていた。
 俺は、塔矢の後ろで会場の料理食ってるばっかりだったんだけどさ。
 アイツはダークグレーのスーツにシルバーのネクタイを締めて、いつも通りに優雅に微笑んでいた。
 スーツ姿の塔矢なんかしょっちゅう見てるから平気だと思ってたのに、その日はなんだか妙にカッコ良く見えちゃって、俺はちょっとだけ動揺してた。
 そのせいか指がうまく動かなくて、手に持っていたグラスを危うく落としそうになった。
 揺れたグラスから飛び出したウーロン茶が塔矢の袖口に引っ掛かって、俺は普段着なら絶対に持っていなかったハンカチを慌てて取り出した。
「わ、悪い! 汚しちゃった」
「いいよ、お茶だもの。それよりキミこそハンカチが汚れる」
「ハンカチなんかどうでもいいんだって! あー、染みにならないかなあ……」
 俺が焦りながらハンカチを塔矢の袖に押し付けていると、アイツは少しだけ笑って俺の手からハンカチを取り上げた。それからぽんぽんと叩くように袖口を拭い、「もう大丈夫」とハンカチをジャケットの内ポケットにしまう。
「洗って返すよ。ありがとう」
「い、いいよ、そんなん。やるよ」
「それだと申し訳ないから。……進藤、バルコニーに出ないか? 海が見えるよ」
 押し問答を避けたかったのか、謝る俺を気遣ってか、塔矢はさらりと話題を変えてこの場から離れることを促した。
 俺は勿論拒否する理由もなく、そして実は海を見てみたいと思っていたから、素直にアイツの後をついて行く。だって、せっかく海の見えるホテルに来てるんだし。今年の夏ももう終わりそうなのに、忙しくて結局海には来れなかったし。
 賑やかなパーティー会場から一歩バルコニーに出ると、少し生温い残暑の空気が身体を包む。クーラーが効いて涼しかった会場に溢れていた喧噪が遠くなり、静かな夜が辺りを包んでいたことを思い出させてくれた。
「……わあ……」
 俺は手すりに近寄って、運良くくっきりと空に昇っていた月の光が照らす波飛沫をできるだけ近くで見ようと身を乗り出した。
 海風がそっと頬を撫でる。潮辛い匂いが鼻をくすぐり、優しい波の音に目を閉じた。
 スーツを着ているせいで多少蒸し暑かったはずの外気が、こんなに爽やかだったなんて――風が心地よくて俺は少し微笑んだ。
 都心からそれほど離れていないのに、こんなに静かな海が見られるなんて知らなかった。
 塔矢も俺の隣まで歩いて来て、手すりに腕を凭れさせ、黙って海を見ている。
 俺たちは、二人並んでじっと海に魅入られていた。
 何故だか、どきどきと胸がざわめく。
 隣にいるだけなのに。何処か身体が触れあっているわけでもないのに。
 俺と塔矢の間にある空気が、その時確かに暖かかった。
「……進藤」
 そっと、波に掻き消えてしまいそうな声で、塔矢が俺の名前を囁いた。
 俺は黙って振り向く。塔矢は海を見つめたまま、少し躊躇いがちにそっと口唇を開いた。
「……いつか……、二人で、海を見に来ないか……?」
 ――たぶん、俺たちはお互いに気付いていたんだろう。
 お互いの存在が、ただの友人とも、ライバルとも違うものになっていることを。
 他の誰とも違う特別な相手。時々胸の奥がずくりと音を立てるような、心の根っこを掴んでいる相手。
 この時、俺かアイツのどちらかにもう一歩踏み出す勇気があれば、ひょっとしたら今とは違う未来もあったかもしれない。
 でも、俺もアイツもきっと、今こうして二人でいる時間に安心していて、そこまで贅沢になりきれなかったんだ。だって、隣り合わせに海を見ているだけで、こんなに幸せだったんだから。
「……いいよ」
 だから、それ以上何も言わなかった。
 もし、この先二人で海を見に行くようなことがあったら。
 その時は、いよいよ俺たちの関係に新しい名前がつくのかもしれない。
 そんなことを思いながら、うるさく高鳴る胸を押さえて、俺は塔矢と波の音を聴いていた。
 十八歳の夏が終わろうとしていた。




 それからしばらく経って、俺と塔矢はいつものように碁会所で多少怒鳴り合いながら検討に熱中していた。
 でも、こんなふうに二人で検討し始めるようになってから随分経つから、もう心底アイツの言葉にムカついたりはしなかった。
 怒鳴りあうのもちょっとした余興というか、周りの常連客たちがそれを期待しているのが分かっているから、大したことない内容でも結構声を荒げてやりあったりしてたんだ。
 塔矢もそれにノッてきてくれてたってことは、アイツも案外サービス精神旺盛だったんだな。
 で、いつもの調子で「帰る!」ってやって、それほど勢いもなく俺は立ち上がった。本当に怒ってたらこんなにのんびり帰る支度はしない。塔矢が後からついて来ることは分かってたし。
 塔矢はやれやれといった様子でため息をついて、素早く碁盤の上の碁石を片付け始めた。俺はカウンターで市河さんにリュックを受け取りながら、さりげなくアイツの後片付けが終わるのを待っていた。そうしたら市河さんがなんだかにやにやしながら俺を見ていて、「帰るんじゃなかったの〜?」なんてからかってくる。
 俺は思わず赤くなって、「帰るよ!」と怒鳴り返した。そうして碁会所の自動ドアを飛び出して、そのまま勢いよく階段を駆け下りた。
「おい、進藤!」
 背中に塔矢の声がかかる。
 ――やっと追い付きやがったか。思わず心の中でそんな悪態をつきながら、振り返ろうとした、その時。
 うっかり駆け下りていた途中の足がおろそかになって、俺は階段を踏み外しかけた――
「進藤!」
 塔矢のほうを振り向いていたから、俺はアイツが一瞬で血相変えたのをしっかり見てしまった。
 その驚きと焦りが混じったキレイな顔が怖いくらいの早さで階段を駆け下りてくるのを、俺はどこか呑気にまじまじと見つめていたんだ。
 あっという間に俺に追い付いた塔矢は、俺が足を踏み外して階段から落ちる前に、俺の腕をぐっと掴んで引っ張り上げた。
 そのまま引かれた反動で、俺は塔矢の胸に顔を突っ込む。
「あ……あぶね、悪い……」
 慌てて顔を上げて塔矢に謝ろうとすると、すぐ真上にアイツの切羽詰まったような顔があって……
 怒られるかな、とちょっと身を竦めた。
 キミは落ち着きがないからとか、いつも言われるような台詞が振って来ることを覚悟していたのに。
 近付いて来たのは、アイツの顔だった。
 あっと思う間もなかった。
 気がついたら、アイツの口唇が俺の口唇にぶつかっていた。
 びっくりして、声も出なくて――今の状況を飲み込もうと頭を働かせたくても、脳のどこかがそれを拒否した。
 ただ、口唇に触れる柔らかい感触……それだけを感じていたくて、俺は静かに目を閉じる。
 階段のど真ん中で、アイツは俺を支えた不自然な格好のまま、黙って口唇を合わせていた。




 たぶん、ほんの数秒だったんだろうけど。
 俺にはあの一瞬が、永遠みたいに思えたんだ……




 口唇が離れると、塔矢は俺から手を離し、そのまま俺の横を擦り抜けて階段を駆け下りて行く。
「塔矢!」
 思わず声をかけた。階段を下り切ったアイツは、振り向かずに立ち止まった。
 声をかけた俺も、それ以上何も言えずに階段のまん中で立ち尽くしていた。だって、何を言えばいい? アイツが今俺にしたのは――キスだ。
 ただの友達にこんなことしない。俺だってそんなこと分かってる、でもじゃあ何を言えば良い?
 塔矢は俺に背中を向けたままじっと立っていたけど、やがて少しだけ身体を俺のほうに向けて、囁くように言った。
「……明日。……あの海で……待ってる」
「……塔矢」
「キミが来るまで、待ってるから」
 アイツはそれだけ言うと、今度は振り向かずに走っていった。
 俺は追いかけられなかった。胸がずきずきと変な音を立てて、熱くなる頬がくすぐったくて、しばらく呆然とそこから動けなかった。

 ――いつか二人で、海を見に来ないか。

 あの夜の塔矢の言葉が蘇る。
 アイツが明日、俺と海を見るために待っている。
 それはきっと、俺たちが今までの俺たちじゃなくなる合図。
 俺は、俺は……、高鳴る胸が苦しくて、アイツが触れた柔らかい感触に身体を震わせて……
 幸せで、でも怖くて……幸せで。







 アイツが待っているその翌日。
 俺は……行かなかった。
 アイツはきっと、ずっと俺のことを待っていてくれただろう。
 きっと日が暮れるまで、日が暮れても、ずっとずっと俺のことを待っていてくれたに違いないんだ……












 それから俺は、逃げるように日本を離れた。
 以前から棋院に勧められていた、国際交流の親善棋士の役目を引き受けて韓国へ飛んだ。
 期間は約一年。親は面喰らってた。誰にも相談しないで勝手に決めてしまったから。
 周りが止める間もないほどのスピード決断だったから、誰にもきちんとした挨拶はできなかった。
 アイツが俺を海で待ち続けたあの日から、数週間と経たないうちの慌ただしい渡航だった。






 そうして俺のささやかな恋は終わった。
 碁会所の階段でキスしてから、一言も会話を交わさずに、アイツから逃げた俺。
 アイツは……塔矢は、あの日、誰もいない海で一人俺を待っていた。
 静かな海。パーティーの夜、二人で見たのと同じくらい静かな海で一人きり。
 波の音を聴きながら、アイツは何を思っていただろう。
 それが、始まる前から終わってしまった俺たちのラストシーン。







実はこれは一番最初に戴いたリクエストだったのですが……
お待たせしたあげく、完全に玉砕しました……ごめんなさい!
たぶんここの一人ぼやき欄も毎回言い訳ばかりになりそうです。
見苦しくてうざいのでどうぞ気になる方はスルーで……!
なんというか、タイトルからすでに結末分かるのでそれもどうよ。