ラストシーンから始めよう







 一年後――


 人込みに紛れるように空港を後にし、日本語が飛び交う街を目にして、ヒカルは仄かに目を細めた。
 すでに残暑さえも終わりを告げかけている外気、強めの風が吹けば時折肌寒く感じるほど。
 懐かしい空気を胸一杯吸って、ヒカルは一年ぶりだというのに身体が覚えた道を辿る。
 見上げた日本棋院の外観に変わりがないことを認めて微かに微笑み、軽く息をついて肩の力を抜く。
 立ち止まっていた足をゆっくりと前に踏み出し、一歩一歩を噛み締めるようにヒカルは棋院の中へと向かって行った。



 一年と二ヶ月ぶりの棋院のロビーをどこか感慨深く眺めていると、上から降りて来たらしいエレベーターの扉が静かに開いた。
 そこから現れたいくつかの顔が、ヒカルを認めてはっと立ち止まる。
「……進藤!?」
 その声に振り向いたヒカルは、相手が和谷と伊角だと分かると途端に笑顔を見せた。
「和谷! 伊角さん!」
 駆け寄る二人を迎えたヒカルは、懐かし気に目を細めて二人の顔を交互に見る。
 和谷と伊角もまた、驚きと喜びを表情いっぱいに表して、ヒカルの肩や背中を叩いた。
「なんだよおい、戻って来たなら連絡くらいしろよ! びっくりすんだろーが!」
 和谷にばんばん背中を殴られ、ヒカルは痛みに呻きながらも苦笑する。
「ごめん、つい昨日帰ってきたんだ。遅い時間だったからさ、電話しそびれて」
「元気そうだな。なんか少しがっしりしたんじゃないか?」
 伊角の問いかけに、ヒカルはへへんと腕を曲げて力こぶを作るフリをしてみせた。
「オフの時は大抵永夏とかとツーリング行ったりしてたから。結構アウトドアだったんだぜ、俺」
 へええ、と和谷が目をぱちぱちさせ、ヒカルの顔をまじまじと見た。
「なんかちょっと大人っぽくなった? お前。髪が少し伸びたせいかな……」
「そう? 俺ももうハタチだからな〜」
「進藤が二十歳か。なんだか信じられないな……。突然韓国に行ったと思ったら、もう一年も経ったのか」
 感慨深気な伊角の言葉にヒカルは穏やかに微笑んだ。
 和谷が改めてヒカルの肩をぽんと叩き、「この後予定あるのか?」と尋ねて来る。
「何処かでゆっくり話そうぜ。向こうでの話、聞かせろよ」
「ああ。ちょっと帰国の挨拶してからでもいいか? 簡単な報告だけだから、すぐ済むと思う」
「おう、ここで待ってるよ」
 じゃあ、とヒカルがエレベーターへ向かおうとしたその時、再び上から降りて来たエレベーターの扉が軽快な到着音と共に開いた。
 ヒカルはその扉の隙間に見えた切れ長の眼差しに足を止める。
 数人の棋士を乗せたエレベーターの中、特徴的な黒髪にヒカルは目を奪われた。
 アキラは穏やかな表情でエレベーターから降りた直後、ふと顔を上げた先にヒカルを見つけたのか、一瞬その動きを止め――すぐに何でもない様子で歩いてくる。
 すれ違い様、ヒカルは
「……よう」
 小さく声をかけた。
 アキラはちらりとヒカルに目線を寄越し、軽く会釈をして通り過ぎる。
 靡く黒髪がふわりとヒカルの脇を擦り抜けて、その揺れる毛先を目で追いながら、ヒカルは思わず微笑んでいる自分に気がついた。
「なんだアイツ、無視することねーだろ」
 和谷が憮然とした表情で、軽やかに立ち去ったアキラの後ろ姿に口唇を尖らせた。
 ヒカルは黙って目を細め、和谷の言葉に同意することなくただ優しい笑みを浮かべていた。


 ――元気そうでよかった。


 懐かしい、毅然としたあの姿。
 誰よりも好きな人。








 ***








「へえ、奈瀬も女流でプロになったんだ」
「ああ、たまにすれ違ったら思いっきり背中叩かれるぜ」
「相変わらずなんだな」
 とっくに全員成人済みとはいえ、まだ明るい時間帯で飲みに行くこともできず、結局三人は近くのマックで向かい合っていた。
 騒がしい店内はゆっくり会話するには不向きだが、後で場所を居酒屋にでも移せばいい。おやつ代わりのハンバーガーを齧りながら、ヒカルは和谷と伊角の話をにこやかに聞いている。
「まあ、そんなとこかな? お前が向こう行ってから変わったことって言ったら。……ああそうだ、塔矢の話があった」
 何の気無しに和谷が付け加えた名前は、ヒカルの心臓を締め付ける。
 ヒカルは平静さを装って「何?」と聞き返した。
 顔を顰めた和谷は、憎々しそうに尖らせた口唇を開く。
「アイツさ、お前が向こう行ってすぐ見合いしたんだよ。十八ん時だぜ、十八。ホント、どこまでもムカつくヤツ。俺なんか彼女もいないっつうの。いいとこのお嬢さんなんだってよ。すました顔しやがってさあ」
「……へえ……」
 ヒカルはストローでコーラをゆっくり吸い上げ、目を伏せた。
 伊角が和谷の剣幕に苦笑しながら、穏やかに補足してくれた。
「棋院でちょっとした噂になったな。今は婚約中らしい。塔矢が二十歳になったらすぐに入籍するって誰かから聞いたよ」
「年上の独身連中がみんな僻んでたよな」
「仕方ないだろ、塔矢はサラブレッドだ」
 二人の言葉をぼんやりと聞きながら、ヒカルは薄ら微笑さえ浮かべて、黙ってコーラを啜っていた。
 ――幸せなんだ。……よかった。
 小さな呟きは和谷にも伊角にも届かなかったようだ。
「で、お前はどうなんだよ、進藤?」
 ビクリと肩を竦ませ、ヒカルは顔をあげる。
 少し反応が過剰すぎたせいで和谷が目を丸くしていた。
「進藤?」
「あ……や、なんでもない。ちょっとぼーっとしてた」
 ヒカルがへらっと笑うと、和谷が呆れたようにため息をつく。
「なんだよ、人がせっかくいろいろ話してやってんのに」
「悪い、帰国したばっかでまだ頭ボケてんだよ。で、俺がなんだって?」
「だから、お前は向こうでどんな生活だったんだって聞いてんの。疲れてんのか?」
 ――なんだ、そっちか。
 ヒカルはほっと息をついた。アキラの話から派生して、ヒカルの意見や感想を問われたのかと身構えてしまった自分が情けなくて可笑しくなる。
 ヒカルは肩の力を抜き、穏やかな笑顔で韓国での生活を振り返り始めた。
「もー、打てるだけ打ちまくったなあ。永夏のヤツが暇さえあれば顔出してきたしなあ。韓国語もちょっとは覚えたんだぜ……」





 フラつく足取りでようやく自宅玄関に辿り着き、ドアに凭れかかるように中へと倒れ込む――のを寸でで踏ん張り、靴を脱いで階段の手すりに掴まったヒカルは、背後から聞こえる母親の声に顔だけ振り返った。
「ヒカル、帰ったの? あんた酔っ払ってるんじゃない」
「あー……、和谷とかと飲んでた」
「あんた二十歳なったばかりなんだから、無茶な飲み方しないでよ。お水持って行く?」
「いい、さっき自販で水買った。俺、寝るわ……」
「ちゃんと着替えなさいよ」
 はーい、と生返事を口の中で呟き、ヒカルは怠い足を引き摺って階段を昇って行く。
 一段一段、踏み締める足取りが重いのは酔いが回っているせいだけではなさそうだった。
 自室のドアを開け、荷物を放り投げると、ヒカルは迷うこと無くベッドにダイブした。柔らかい毛布に身体を沈めて、いっそ埋もれてしまいたいと思う。
 楽しい時間だった。それは間違いなかった。
 日が落ちる頃、マックから場所を移し、和谷の声かけで本田や冴木や越智や奈瀬が集まって、向かった居酒屋で散々騒いだ。まだ身体に馴染まない酒を調子良く流し込み、気心の知れた友人たちとはしゃいで、笑って……
 ……それでも、やけにすかすかの胸が寒くて仕方なかった。
 一年。たった一年だ。気持ちの整理はついても、頭で納得するほど感情は追い付いていない。
 アキラの話題が出たのはあの一瞬だけ。それなのに、その存在の大きさがヒカルの胸を支配する。

 あの頃と同じ気持ちで、今もアキラを想っている。
 それを思い知らされた今、漏れるのは苦い笑みばかりだった。

「往生際が悪いな……俺も」
 独り言を呟いて、ヒカルは鼻で笑った。
 棋院ですれ違った、アキラの温度の低い目を思い出して胸が苦しい。
 もう、憎んでももらえない。
 仕方ない。自分はそれだけのことをした。
 あの日、ヒカルをずっと待っていたはずのアキラに何も告げずに、逃げるように日本を出たのは他でもない自分なのだから……



 あと二ヶ月で十二月を迎え、アキラの二十歳の誕生日がやってくる。
 そうしたら、アキラは完全に他の誰かのものになってしまうのだろう。
 それでもいい、と純粋に祝福しようとしている自分がいる。
 胸の痛みはもう消えることはないのだろうけど。
 これは自分への罰だと、抱えて生きる覚悟はできた。
 アキラの想いに黙って背を向けた、自分への罰。
(――いいや)
 ひょっとしたら幸せな罰なのかもしれない。
 アキラの顔を見た時、泣き出してしまいそうなほど嬉しかった。
 胸が痛む度に思い知る大切な気持ち。
 いつか風化してしまうくらいなら、ずっと苦しいままのほうがいい。
 アキラが好きで、幸せになって欲しい。
 アキラが幸せなら、それでいい。






なんだこのメロドラマ……
たぶん一度やってみたかったのだと思われます……
あの、ずっとこんな調子ですので……