――たぶん、ちょっとしたタイミングの問題だったんだろう。 あの時の俺たちは、ただ一緒にいられるだけで幸せだったから。その先にあるだろう、いろんなしんどいことを考える余力がなかった。 もう少し大人になっていたら、ちょっとは違う道を選んでいたりしたんだろうか。 それとも、結局遠回りしただけで同じ道に戻って来たんだろうか。 一年と少し。たったそれだけ遡った頃の自分は、今よりずっと幼かったのだと思う。アイツもきっとそうだったんだろう。二人で並んで夜の海を見つめるだけで、雰囲気に酔ってしまった俺たちなんだから。 パーティーの熱気にあてられたまま、どこか紅潮した頬に浴びる潮風。お互いずっと口には出さなくても、心を探り合ってた仲だったし。ちょっとロマンチックなシチュエーションで、気分が盛り上がってしまったって誰にも責められないと思う。 胸が高鳴った。 いつまでも一緒にいたいとそう思った。 二人の関係を特別なものにしたかった。 ……でも、「すぐに」じゃなくて、「いつか」で良かったんだ。そのあたり、やっぱりまだ子供だったんだなって少し可笑しくなる。 『……いつか……、二人で、海を見に来ないか……?』 アイツの声、上ずってた。 たぶんむちゃくちゃ勇気いっただろうな。 俺、ホントはすげえ真っ赤な顔して、でも窓ガラスから漏れる室内の灯り程度じゃそんなの分からないだろうから、知らないフリして「いいよ」って答えたんだ。 あの時は本当に、いつか二人だけで海を見たいって思ってたから。 藤田さんに土下座された日。 俺は初めて、俺とアイツの関係が本当はいけないものなんだって気がついた。 アイツは偉大な親父さんの影を常に背負ってて。産まれた時からたくさんの人の期待を背負ってて。 囲碁だけやってりゃ良かった俺とは違って、守んなきゃならないものがいっぱいあるヤツなんだって、思い知らされた。 でも、諦めることを決意した後、まともにアイツと顔を合わせる自信がなくて。 ……それで逃げた。アイツから、現実から逃げた。本当に囲碁だけやってりゃいい場所まで逃げた。 時間が解決してくれると思ったんだ。 俺にとっても。アイツにとっても。 帰国してから、時間なんて関係ないって痛感しただけだったけれど。 でもアイツは俺の顔見ても素知らぬフリしてたから、アイツにとっては良い時間だったんだって最初は思った。 ――こんなことになるなんて思わなかったから。 ……アイツ、ずっと無理してたのかな。 涼しい顔してたくせに。動揺してる素振りなんか見せなかったくせに。 電話かけて来た時の声。……聞いてるこっちが苦しくなるくらいの声。 あんな小汚いハンカチ、捨ててくれて良かったんだ。だって、そうだろ? アイツは俺から突き放されたと思ってたんだから、新しいパートナーを見つけた時にすっぱり忘れてくれて構わなかったのに。 あんなもの、大事に持っててどうすんだよ。 これから結婚するってヤツが、オトコとの思い出の品をずっと持ってるなんておかしいだろ。 ホントに馬鹿だ、アイツ。 あんなんで気持ちがぐらついてる俺も馬鹿だ。 朝はまだ強がっていられた。 昼頃、少しそわそわしてしまった。 夕方、日が落ちた頃、携帯電話をしょっちゅう横目で確認していた俺がいた。 ……まさかまだ待ってるだろうか。 季節はすっかり冬。風も冷たい。海なら尚更だろう。 まさか、を心の中で繰り返し、そわそわと時計を見る。 本当ならば、可愛らしい妻を迎えるはずの日だったってのに、独り冬の寒空の下で来るかも分からない相手を待っているなんて。 まさかこんな時間まで。……でもアイツなら。 一年前のアイツなら、きっと待っていた。 日が暮れるまで。日が暮れても。夜になって、湿った風に吹かれても、砂にまみれた靴でじっと立っていたに違いないんだ。 家を飛び出したのは、アイツを怒鳴りつけるためだ。 もし待っていたら、いい加減にしろって言うつもりだった。 俺はもう、お前のことなんかどうでもいいから。無責任に結婚の約束を放り投げるようなヤツなんて、信じられないって面と向かって言うために。 誰もいない海に立ち尽くしていたって無駄なんだって、アイツの目を覚まさせてやるつもりだった。 一年前の約束を果たそうなんて思っちゃいなかった。 『……いつか……、二人で、海を見に来ないか……?』 『……いいよ』 あの後俺は逃げたんだ。 アイツが傷付くことを知ってて逃げたんだ。 なんでアイツは、こんなヤツを女々しく待ち続けてんだよ。 『キミがボクを拒否したのだと……』 『だからボクは、キミを忘れて違う道を進もうと』 アイツも……逃げたのかな。 逃げてしまえば、どうにかなると思ったのかな。 ――でも、どうにもならなかった。 そんなの……、俺が一番良く知ってる…… *** 電車を乗り継いでその場所に辿り着いた頃には、すっかり月が高いところに昇っていた。 潮の香りを嗅ぎながら、海沿いにそびえるホテルを細めた目で眺める。あのホテルの何階だっただろうか。ここからでもバルコニーの白い手すりが見える。あの日も静かな夜で、波の音がよく聴こえたっけ。 アイツはまだいるのだろうか。 今日はアイツの誕生日。……サイアクの誕生日だ。 こんな寂しい冬の海で、一人きりでずっと俺なんかを待っていたのだとしたら。 あの時はホテルから眺めていただけだったから、海に近付くのはこれが初めてだった。砂浜へ降りる道を探す。暗いせいで草の茂みが邪魔をして、俺は道かどうかも分からない場所を掻き分けて砂浜を目指すハメになった。 アイツがいたら、何て言うべきか。 馬鹿じゃねえの、とか、何やってんだ、とか。 お前みたいな大馬鹿野郎はもう知らねえ! とか。 アイツは何て答えるだろうか。 俺を見て喜ぶのか、それとも遅いと怒るのか。 そもそもアイツはいるんだろうか。 吐く息は白い。闇に溶ける靄のような息の行方を空に追い、俺はさっきから心の中で言い訳を続ける。 いなかったら、それはそれでいいじゃないか。――そんなふうに無理矢理思い込もうとしている。 本当にアイツがいなかったら。 俺はきっと、朝が来るまで砂浜に突っ立って、海を見ていたに違いないっていうのに。 茂みから脱出すると、開けた視界の向こうに黒い海が広がった。 砂にスニーカーが沈んで歩きにくい。俺は足元を確かめながら、一歩、二歩海に向かって歩き、そうして辺りを見渡した。 右を見て、左に首を向けたそのままの格好で俺は動けなくなった。 波打ち際ギリギリに、真直ぐに背筋を伸ばして海に向かって立っている馬鹿がいる。 この寒いのに、しゃんとした姿勢が本当に馬鹿っぽい。 風に黒髪が煽られて、遠目に見てもぐしゃぐしゃになっている。 アイツは心底馬鹿だと思う。 一体何時間、冬の海と向かい合ってたのか。 馬鹿にも程があるだろ――俺は無性に胸が苦しくなって、怒鳴ってやろうと大きく息を吸った。肺の中に冷気が吸い込まれた、その時。 アイツがふいに弾かれるようにして、こっちを振り向いたんだ。 距離にしたら数十メートル。 月も星も輝いてる真夜中で、お互いの表情なんて分かるはずがないのに。 アイツは笑いはしなかった。怒りもしなかった。 ただ、驚きに泣き顔が混じったように顔を歪めて、薄く開いた口唇で何かの言葉を呟いた。 分かるはずのないアイツの表情と声が、はっきり俺には感じられた。 ――進藤…… その瞬間、俺は目を見開いた。 空に青が。海にも青が。白い雲と白い波、吐く息の白さは消えて、うだるような湿った熱気が皮膚に纏わりつく。 照りつける太陽の日射しが輝く。 ああ、この景色は真夏のあの日。 何も知らずにアイツは、俺をじっと待っていた―― 砂を蹴った。 胸の奥で謝り続けた。 ごめんなさい、塔矢先生。 ごめんなさい、緒方先生。 ごめんなさい、藤田さん。 ごめんなさい、華奈さん。 ごめんなさい、塔矢のことを大切に思っているたくさんの人。 真直ぐに俺を見つめるアイツの気持ちから、俺はもう逃げられない。 もう強がれない。一人では抱えていけない。 諦められない、だって俺たち始まってもいないんだから。 アイツが腕を広げた。 俺はそのまん中を目指して走り続けた。 塔矢。――塔矢。 力一杯心の中でアイツの名前を叫びながら、俺が砂に足を取られながらも走っている間、俺たちはずっとお互いから目を逸らさずにいた。 「――進藤……!」 堪え切れずに俺の名前を声に出したアイツに、俺もまた応えようと口を開いた。 二人きりの海。 一度は終わってしまったこの恋をもう一度。 ラストシーンから始めよう。 |
6周年記念リクエスト内容(原文のまま):
「ヒカルに冷たいアキラと健気ヒカル
(あんまりアキヒカでは見ないパターンだなーと)。
もちろん最後にはアキラがヒカルを愛してしまい、
冷たかった頃の自分を激しく後悔するけど時すでに遅し…
と思わせてやっぱりハッピーエンドで」
↑ぜ、全然違う……完全に玉砕です……ごめんなさい!
敗因は話を短くまとめすぎたことかと……
実はこの企画で一番最初に戴いたリクエストでした。
凄く面白そう!と思ったんですよー本当に!
そして一番先に書き始めました……が、頭で作った話が
あまりにも長く、これは単発でやるのは苦しいと断念。
それこそ第2の本編になりかねない……!と急遽路線変更したら
どっちつかずのぬるいお話になってしまいました。
ああ、本気でリベンジしたいです。いつか。いつか必ず……!
でもベタベタのメロドラマ、とても楽しかったです。
リクエストありがとうございました!
(BGM:ラストシーンから始めよう/LOOK)