それから四日、アキラから一切連絡はなかった。 電話でのやりとりは夢ではなかったのかと疑ったが、携帯に確かに残されたアキラからの着信履歴がヒカルに逃避を許さなかった。 アキラがどこまで本気であの電話をかけてきたのかは分からない。ただ、押し殺した苦し気な声を思い出す度にヒカルの胸が重く沈んで行った。 ――本気なはずがない。 そんなこと、できるはずがない。 そう自分に言い聞かせるたび、何とも言えない焦燥感に襲われる。 一体自分はどうなることを望んでいるのか……その先を考えることは酷く躊躇われた。 悶々とした時間を過ごして五日目、ヒカルが対局のために棋院に訪れた時、何やら対局室が騒がしいことに気付いた。 普段は言葉少なに挨拶を交わす程度の棋士たちが、対局前とはいえいくつかのグループに分かれて何やら話に花を咲かせている。 それがほんの数人ではないということに違和感を感じ、ヒカルは知った顔を探した。 少人数で怪訝な顔を突き合わせてひそひそと話しているグループの中に和谷の頭を見つけ、ヒカルはほっとして近付いて行く。 「おはよ。何? 何かあったの?」 「お、進藤。大アリだよ、棋院激震」 ヒカルに気付いた和谷は振り返りながら、大袈裟に肩を竦めてみせた。 和谷と話していた棋士たちは年の近い面々で、ヒカルも何の気なしにその輪に加わろうと更に一歩近付いた時、和谷の口から聞きたくない名前が飛び出して来た。 「塔矢がよ、やらかしたんだってよ」 びくりとヒカルは足を止める。 その不自然な動きを周りに悟られたくなくて、慌てて強張った笑顔のような曖昧な表情を作り、「え?」と聞き返した。 「アイツ、二十歳の誕生日に入籍するって話だっただろ。あれ、いきなり取り止めになったらしいぜ」 「な……」 ざあっと全身から血の気が引いて行く。 驚愕に目を見開いたヒカルの反応を当然と受け取ったのか、誰一人妙な顔をするものはいなかった。 そうして噂話が再開される。 「塔矢が突然言い出したんだって。もう予定まで何日もないってのに、周りの説得もきかないでとにかく全部白紙に戻すって言い張ったらしいよ」 「披露宴にはスポンサー連中も相当呼んでたらしいからな。棋院側にも頭下げに行って、それでコトが発覚したってわけだ」 「何考えてんのかね。あれだけ派手に婚約者披露してたってのに、こんなギリギリになって」 「なんでもしばらく自主的に謹慎するって話だけど、それにしたってねえ。親父さんの顔にも泥塗って、塔矢らしからぬスキャンダルだよなあ」 ヒカルは口を半開きにしたまま、声を失って立ち尽くす。 真っ白に染まりつつある頭の中で、悲痛な叫びが繰り返し響いていた。 ――なら何故ボクをあんな目で見ていた! ――キミの心がボクにないなら、誰と一緒にいたって同じだと思っていたんだ!…… おれのせいだ、と咄嗟に口唇が動いた。音にはならなかったために聞き咎められることはなかったけれど。 そんな単純な結論ではないことはよく理解していても、自分を責めずにいられなかった。 もっとアキラを説得できていたら。 冷静さを失ったアキラの目を覚まさせてやれたら。 何より、結婚を取り止めるなんてできるはずがないと甘い考えを捨てていたら…… 「進藤? 顔、青いぜ」 和谷に不思議そうに顔を覗き込まれ、ヒカルははっと意識を取り戻す。 ごまかすように口元だけ無理に綻ばせ、何でもないフリをした。 「べ、別に。……その話。もう、決まったこと、なのか?」 「らしいよ。今からだとキャンセル料だけでもとんでもないよなあ。アイツの考えてることが分かんねえよ。あ、そういやお前って結婚式招待されてなかった?」 「……ああ……」 機械的に頷いて、ヒカルはそのまま俯いた。 周囲の声が遠くなって行く。 ――なんで早まったんだよ、あの馬鹿……。 騒ぎになるのも無理はない。 囲碁界のサラブレッド、塔矢アキラの結婚はそれだけ注目度が高かったのだ。 アキラの周りの人間は必死で説得したことだろう。彼の両親、兄弟子、後援会の人々……藤田は頭を抱えているに違いない。 こんなことになるのなら、韓国から帰ってくるのではなかった。 逃げ続けていれば、アキラはきっと自分のことなど忘れてしまえただろうから…… 対局開始寸前まで噂話で浮き足立っていた棋士達は、ブザーの音によって完全に頭を切り替えたようだった。 しかしヒカルは。先ほどの内容が頭をぐるぐると回り続け、とても集中しているとは言えない酷い碁に甘んじることとなった。 結果は中押し負け。冷静であれば勝てたかもしれない相手だっただけに自分の腑甲斐無さが腹立たしいが、今はそんなことよりも危惧していたことが起きてしまったことへの罪悪感が心を支配している。 どうしよう。どうしよう。どうしよう。 『待ってる』 アキラは本気で待つ気なのだろうか。 本当なら生涯の伴侶を迎えるはずだったその日に、ヒカルを待っているつもりなのだろうか。 かつて自分達が憧れた、あの海で? 「……無理だよ」 投げやりな呟きが口唇から漏れる。 どうすべきか、頭では分かっているのに気持ちが混乱して答えが出せない。 覚束ない足取りで棋院のエレベーターまで辿り着き、到着したエレベーターに乗り込もうとしたところでヒカルは先客に息を飲んだ。 白いスーツに身を纏った相手も驚いたように少しだけ目を大きくさせた。 「進藤」 「……緒方先生」 何となく今は顔を合わせるのが気まずくて、どうすべきか迷っていたヒカルの前でエレベーターの扉が閉じようとする。緒方が咄嗟に手を伸ばして恐らく「開」ボタンを押したのだろう、扉は再び全開になった。 「何してる。乗るために待ってたんだろう」 「……うん」 仕方なく緒方と共にエレベーターへ乗り込んだ。すでに一階のボタンが点灯しており、ヒカルは手持ち無沙汰に緒方に背を向ける。 「今日は手合いか?」 「……うん」 「その顔だと、良い結果じゃなさそうだな」 「……うん」 言葉少なに適当な相槌を返すヒカルに、緒方が少し笑った気配がする。 思わず振り向いたヒカルは、少し疲れたような緒方の表情を見た。 「……先生は今日は?」 つい、そんなことを尋ねてしまう。できれば会話を短く切り上げたいと考えていたのに、ヒカルは質問を口にした自分の行動の矛盾さを疑問に思った。 緒方は切れ長の目を細め、やはりどこか疲れたような顔で口を開く。 「……弟弟子がな。ちょっとした問題を起こして、その後始末だ」 チーン、と軽快な音がしてエレベーターの扉が開いた。 ヒカルはその場に固まったまま、動くことができなかった。 緒方はそっとヒカルの背中に触れ、押し出すようにエレベーター内から一歩外に出る。二人がエレベーターを降りるとすぐに扉は閉まった。 ヒカルは緒方に顔を向けられず、押された距離を数歩歩いてその場に立ち止まる。 ロビーには二人の他に目立った人間はいなかった。もし見知った顔があれば、声をかけてきたかもしれないと思うと人気の少なさにほっとする。 動かなくなってしまったヒカルを追い越した緒方は、ヒカルの一歩手前でくるりと身を翻した。 「……その様子なら事の顛末は耳に入っているようだな」 「……」 「まあ、こうなってしまったものは仕方ない。しばらくは騒がれるだろうが、本人も承知の上だろう……そのうちお前のところにも式の中止の連絡が」 「緒方先生」 緒方の言葉に被せるように、ヒカルは低く緒方の名を呟いた。 「……とめてよ。アイツのこと、説得してよ」 「……、したさ、散々。俺だけじゃない、先生も、近しい連中全員でだ。ここ二日ばかり粘ったが、頑として言うことをきかん……遂に自ら相手の家に乗り込んじまった」 ヒカルは強張った顔を上げ、緒方を見て眉間に皺を寄せる。 緒方は淡々と語るが、その表情には一抹の寂しさが漂い、どこか諦めているようにも見えた。 「言い訳は一切しなかったそうだが。ただ、突然「この結婚をなかったことにして欲しい」と言われてはい分かりましたと承諾する親もいないだろう。まあ修羅場だったな。まさかあんなことを言い出すとは思わなかったが……」 「あんなこと……?」 「……他に好きな相手がいる、とさ。なあ、火に油を注ぐような理由だと思わないか?」 ヒカルは答えられなかった。 ただ、口唇をぎゅっと噛み締めて緒方を見上げ、堪え切れずに眉を垂らす。 緒方は含みのある目でヒカルを見ていたが、訝しがるような素振りは見られなかった。 この前のパーティーでの言葉といい、緒方は何かしら勘付いているのかもしれない。 「……、緒方先生……、俺……」 「もう済んだことだ。下手に籍を入れてから騒ぎ出すよりずっとマシだったと、そう思うしかないな。始まる前に終わらせて良かったんだと」 「……!」 緒方は緩く肩を竦め、少しだけ表情を和らげる。 ヒカルに軽く背を向けて、首だけ振り返った緒方は、「帰るのか?」とそれまでの話題を断ち切った。 「あ……、う、ん」 「送ってやろうか?」 「……いいよ。一人で……帰る」 「そうか。じゃあな」 あっさりと別れの挨拶を告げた緒方は、それからはヒカルを振り返らずにカツカツと革靴の足音を響かせてロビーを横切って行った。 自動ドアに消えて行く緒方の背中をぼんやり見送って、ヒカルは握りこぶしを胸に押し付ける。 どうすべきか、なんて。 答えはとっくに出ているのに…… 帰宅後、重い足取りで自室へ向かう階段を昇る途中、居間から母親の声がした。 「ヒカル? あんた、ただいまくらい言いなさい」 「あー……ただいま」 ヒカルは振り向かずに、だるそうな声だけで答える。 「あんたに手紙届いてたから、机の上置いといたからね。あんた、たまには掃除機かけなさいよ」 「……はーい」 適当な返事を返して、ヒカルは階段を昇り切ったあとにふうっと年寄りじみたため息をつくと、暗い表情のまま自室のドアノブに手を伸ばした。 部屋に入り、鞄を床に落とすと、すぐにベッドに倒れ込もうとして――母親の言葉を思い出し机に顔を向けた。 白く四角い封筒。そのサイズはつい先日送られてきたあるものと同じだと気付き、ヒカルはさっと顔色を変えた。 手にとった封筒には自分の住所と氏名が無機質に印刷されており、裏返したそこに記されていた連名を見てヒカルは目を見開く。 急いで封を開いた。ハサミなんて上品なものは使わずに手で封筒の端を破り取り、やけに膨らんでいる封筒をひっくり返すと中からカードのような紙切れが落ちて来る。 カードを手に取って端から端まで目を通し、そこに紛れもなく予定されていたアキラの結婚式が中止になることへのお詫びが書かれているのを確認したヒカルは、ぱさりとカードを取り落とした。 ――本当に、やめてしまったのだ。 誰の制止も聞かず。多くの人に迷惑をかけるだろうことを理解していながら。 あのアキラが。 「……マジで馬鹿だ……」 あれだけ似合いだった婚約者を振るメリットなんかどこにもない。ましてやその根源が自分にあるのだ。全ての罪を背負わされたような気がした。 一年以上も前に終わってしまった淡い気持ち。形にはならなくてもお互い真剣だった、だけど世間に対してタブーだらけの関係は始まらなくて良かったのだと今でも思う。 『始まる前に終わらせて良かったんだと――』 緒方の言葉通りだ。 あれで良かったのだ。 ――行かない。 アキラはまた、自分を待つのだろう。 でも行かない。もう一度終わらせる。 一度止まってしまった時間は、もう動かせない―― 「……?」 ふと、ヒカルは机に投げ出されたままの封筒に目を留めた。 先程触れた時も思ったが、妙な厚みがある。紙のくせに、やけにふっくらとした不自然な膨らみ。 どうでも良いことだとも思ったが、無性に気になって手を伸ばした。柔らかな感触に眉を顰めながら、封筒を軽く縦に潰して丸めた中を覗き込み、ヒカルは身を竦ませた。 「……あ……」 震える指で、同封されていたものをそっとつまみ出す。 グレイのハンカチ。見覚えがあるこれは…… 『洗って返すよ。ありがとう』 『い、いいよ、そんなん。やるよ』 脳裏に一瞬で閃いた過去の記憶にヒカルは瞼を震わせた。 パーティー会場の熱気と、穏やかな笑顔。潮の香りと海風。 確かに幸せだった、何の不安もなかったあの頃。 「あ……い、つ」 丁寧に畳まれたハンカチはきちんとアイロンがかかっていて、かつてヒカルのスーツのポケットに突っ込まれていた頃に比べてずっと大切に保管されているようだった。 「こんなの……まだ、持って……」 海に惹かれた二人だけの夜。 「……ッ」 ハンカチを握り締め、口唇を噛んだけれど堪え切れず、ぽとりと涙が一粒落ちた。 帰国してから、泣いたのは初めてだった。 |
もー実際こんなことしたら大変だ。
最悪どころの話じゃありません……
それもこれも全部アキラさんが悪いように思えるのは
ヒカルマジックが働くから???(なんだそれ)