リリス






 さらさらとしたシーツの感触が気持ちいい。
 冷たさを求めて無意識に手足がシーツの端を探ろうとする。なんだか身体がやけにべたついているような気がして、目を閉じたままに眉間に皺が寄った。
 皺を寄せた僅かな動きで、ずきんとこめかみに響くような痛みがあった。頭の奥から重たく響く鈍痛は非常に不快で、うう、と小さな呻き声を上げる。
 口の中がすっきりしない。喉がカラカラに渇いて胸の辺りもなんだか気分がよろしくない。
 なんて体調の悪さだろう。
 おまけに全身が酷く怠くて、身体を起こしたいと思えないのだ。
 今日は仕事があっただろうか。あったとしても行きたくない。ずっとこうしてベッドで寝ていたい。
 寝ていたいけど、水も飲みたい。コップに一杯でいいから、冷たい水が欲しい――




 アキラは手を伸ばした。
 ふと、指先に何か暖かいものが触れた。
 あまり覚えのない感触だった。
 探るように指先を動かすと、「それ」が微かに動いたような気がする。
 暖かくて滑らかで、でも少しだけ汗ばんでべたついているそれを撫で回していると、どこからかくすぐったそうな吐息が聞こえてくる。
 誰だろう。呑気にそんなことを考えた。
 瞼を開こうとしたが、目の奥にも鈍痛が居座ってそれだけで顔が歪む。
 しかし声の正体を知らねばなるまいと、アキラは無理矢理に渋る瞼をこじ開けた。


 目の前では、同じようにボケた顔をして薄ら瞼を開いている青年一人。
 なんだ、進藤か。特徴的な前髪のおかげですぐ彼の名前は頭に浮かんだが、それだけだった。
 のろのろと開いた目でしばらくお互いを見詰め合って、奇妙な沈黙が二人の間に流れた。

「……」
「……」

 目が開くと、徐々に意識も覚醒し始める。
 まず、場所はベッド。これは間違いない。柔らかくて肌触りの良いシーツと、暖かな毛布。枕だって上質な羽毛の一級品だ。
 そして、何故か全裸。このスースーとした感覚、間違いない。向かい合ってベッドの対面に横たわるヒカルもまた、毛布からはみ出ている肌色の面積からして同じく裸のようだった。
「「……!?」」
 二人は同時に飛び起きた。が、同じタイミングで頭を抱える。急に身体を起こしたので激のつく頭痛が走ったようだった。
 おまけに身体を起こしたことで新たな違和感を知ってしまった。腰がやたらと重怠いのだ。じんわり痛みも伴う、なんだかやけに酷使した後のような……
 アキラは青ざめる。
 状況が理解できずに目と口を大きく開けたまま、向かいで全く同じ顔をしてアキラを見ているヒカルを凝視した。




 ヒカルもまた、この状況がさっぱり飲み込めずにいた。
 まず、目が覚めてすぐに「自分の部屋ではない」と感づいた。ヒカルが一人で暮らす部屋のベッドはずっと粗末で、こんなに柔らかい感触ではない。
 どこかホテルにでも泊ったんだっけ? ――そんなことを思いながら、やけに身体中が痛むというか、全身運動の翌朝みたいに足や腰が筋肉痛になっていることに気づいて顔を顰めた。
 更に目の前で見覚えのある青年が同じように腫れぼったい顰めっ面を向けていることに違和感を感じ、飛び起きた途端に頭と腰を直撃する激痛。
 そう、腰だ。いや、随分妥協して「腰」だ。正確に言うと、もうちょっと下のほうだった。そこはすでに腰とは言わず、「尻」と言うべき場所なのだけれど、なんだか認めてはいけないような直感があった。
 尻のどこが痛いのかと更に元凶を分析して、ヒカルはアキラに同じく真っ青になる。
 こんなところにこんな痛みは経験したことがない。
 一体何故、何が起こったのかと冷静に分析しようとするが、すでにパニックを引き起こした頭では到底無理な話だった。
 どっと噴出してきた汗を背負い、ヒカルは口を開いたままアキラと無言で見詰め合う。
 目の前のアキラが随分間抜けな顔をしているなんて思う余裕は少しばかりあったのだから、意外に落ち着いていたのだろうか?


 二人の沈黙は長かった。
 恐らく、それぞれに状況整理を試みたのだろう。
 しかし悲しいかな、二人は何一つ思い出せずにいた。
 何があったのか。何故裸なのか。どうして二人で眠っていたのか。そして、身体中の痛みの原因は。
 開けっ放しのカーテンから燦々と眩しい太陽の光が降り注ぐ。とっくに朝を迎えた寝室で、裸のままの二人は必死で昨夜の記憶を探る。
 しかし頭痛を一度自覚してからというもの、ずきずきと定期的な鈍痛と不定期な激痛がまさしく頭を悩ませ、それぞれの思考を停止させんと攻撃の手を緩めなかった。
 ベッドの上で素っ裸で、呆然と見つめるお互いの顔はそれは酷いものだった。
 乱れた髪に、くっきり目の下で黒く存在を主張するクマ。瞼は腫れて顔色は青白く、カサカサに乾いた口唇が今にも切れてしまいそうで痛々しい。
 そんな顔を付き合わせることに徐々に耐え切れなくなってきたのか、アキラもヒカルも困ったように視線を泳がせ始めた。起きてからというもの、まともな言葉を一切交わしていない。第一声のきっかけが掴めず、もじもじと毛布を手繰り寄せたりして場を取り繕う。
 やがて、壁にぴったりつけられたベッドの外側にいたヒカルが、床に散らばった服に気づいた。
 明らかに二人分の衣服が絡まるようにして脱ぎ捨てられている。考えまいとしていた現実を改めて突きつけられたようで目眩がしたが、この状況を打開しなければと、そろりとベッドから足を下ろして服を拾い上げた。頭を下げた時にびりりと走る頭痛に顔を顰めつつ、無造作に掴んだ服の塊をベッドの上に放り投げる。
「……服、着ようぜ」
 ようやく掠れた言葉を発したヒカルに、アキラは呆けた顔のままかくかくと頷いた。
 絡まってぐしゃぐしゃになっている服を解くように、二人はそれぞれ自分の服を塊から引っ張って一枚ずつ身につけていく。
 服を着るという行動が与えられたおかげで、少しだけどうにもできないパニック状態から解放されたような気がした。
 ヒカルはその隙に昨夜のことを何とか思い出そうと記憶の糸口を探り始める。



 夕べは確か、……そうだ、俺は棋聖戦、コイツは十段戦の最終予選決勝があって。
 負けたんだ、お互い。あと一勝でリーグ入り、本戦ってとこだったのに。
 俺は天敵の倉田さんに。コイツは苦手な芹澤先生に。
 あそこが悪かった、あの時こうしてりゃ、なんてむしゃくしゃしながら階段を下りたら、同じくエレベーターで下りて来たコイツとロビーでばったり会った。
 なんとなく表情を見ただけで負けたことはそれぞれ伝わっちゃって、苦虫を噛み潰したような顔を突き合わせてたら、……ちょっと慰めたくなったのかな。いや、慰めてもらいたかったのかも。
 軽く、飲みにでも行くか? って話になったんだ。



 アキラもまた、ヒカルの目を気にしつつトランクスをはいて、シャツを手に取りながら昨日のことを考えていた。



 ……そうだ、それで飲みに行く事になったんだ。
 キミとの付き合いも長いけれど、思えば二人だけで飲みに行くことはそんなになかった。大抵、二人で逢うと言えば酒は抜きで碁ばかり打っていたから。
 成人してもう三年も経つし、たまにはこういうのもいいよな、なんてなんだか言い訳するみたいにキミは笑った。お互い妙な気分だったことは理解していたみたいだった。
 最初はボクがよく門下の棋士と行く店で、結構早いペースでビール、途中からワインに切り替えた。あまり食べたい気分にならなくて、つまみに頼んだナッツを少し口にする他はほとんどアルコールばかり流し込んでいた。
 それはキミも同じだったように思う。予め頼んでいた食事類は元々量も少なかったけれど、皿がキレイに空くことはなくて、代わりにジョッキやグラスばかりが次々空になっていった。
 少し酔いが回った頃、ボクらは愚痴り始めた。今日負けたことを中心に、日頃溜まっていた鬱憤をここぞとばかりにぶちぶちと吐き出した。
 普段あんなふうに愚痴りあったりすることは滅多にないのに、昨日だけはやけにすっきりしたくて、言わなくてもいいことまでぺらぺらと口をついて出て行った気がする。キミがそれを気にした様子はなく、ボクもキミの問題発言を気にも留めなかったけれど。






「こんなに引っ張る話じゃない!」ってくらい
長ったらしい話になっちゃいました……
アキヒカにすでに女性経験があるのが苦手だったり、
あまりに品のない性描写が苦手な方はここでストップを!