シャツのボタンを留めながら、ヒカルは尚も思い出す。 珍しくコイツが饒舌だったんだよな。 よっぽどストレス溜まってたのか知らねえけど、普段だったら俺なんかに言わないようなくっだらねえ愚痴ばっかり延々とこぼして。 俺も後半はかなり出来上がってたから、そうだそうだ、なんてコイツを乗せて、ついでに俺の日頃のストレスも一緒に出しちまえって感じでいろんなことぶちまけたんだ。 シラフだったら冷静に窘めただろうコイツが「そうだ、それはおかしい、キミが怒るのも無理は無い!」なんて変に味方してくれるもんだから、俺もつい調子に乗っちゃって。 酒ばっかり空けてた気がする。 いよいよ気持ちよくなったけど、その頃ですでに二、三時間は居座ってたものだから、そろそろ店を出ようかって雰囲気になって。 でも飲み足りないから今度は俺の行きつけの店に行ったんだ。足りてねえはずないよな、今思えば。でも昨日はもっともっと飲みたかったんだよ。コイツ相手に気持ちよく酒飲めるなんて初めて知ったし。すげえ楽しかったんだ。 二件目はコイツが最初に連れてってくれたみたいなオシャレな店じゃなかったけど、焼酎の品揃えが良くって俺の密かなお気に入りだったんだ。 普段焼酎なんて飲まないって言ってたコイツが、店主のオススメ一口飲んで美味しいって目を丸くしたの見たら、なんかもうすっげえ嬉しくなっちゃって。 ああ、それでまた馬鹿みたいに飲んじまったんだ…… 最後に靴下を片足ずつ履いて、アキラはその後の出来事を思ってため息をついた。 あの店で更に飲みすぎた。慣れない焼酎だったのにやけに美味しく感じて、自制することなんか少しも考えずに飲めるだけ飲んで。 随分笑った気がする。本当に楽しかった。アルコールのせいだろうけど、なんだかすっかり気分が晴れて、キミと肩を組んで完全なる酔っ払い状態でようやく店を出た頃は、もう日付も変わっていたんだろうか? 終電もないからタクシーを拾って、フラフラになりながら行き先にボクの家を告げた。キミもひょこひょこついてきたんだ、そういえば。 帰らなくてもいいのかって聞いたら、キミは一局打つって言って……ああそうだ、店で「打とう打とう」って話していたんだ。こんな状態でまともな碁が打てるはずもないのに。 キミをボクのマンションに通したのはひょっとしたらこれが初めてだっただろうか? 覚束ない足取りできょろきょろしながら、ボクがリビングに持ってきた碁盤を見てキミが嬉しそうに笑ったことは覚えている。 で、碁盤を挟んで、お互い目を据わらせて、呂律の回らない舌で「おねがいします」なんて言って頭を下げて…… ……そこまでだ。 そこから、どうしても思い出せない。 その続きが完全に頭を支配している靄に隠れて、ひとかけらだって見えてこない。 何も。何ひとつ、何があったのか、どうしてこんなことになったのか、全く思い出せない…… よれよれの服を身につけた二人は、伺うように視線を合わせた。 ベッドの上で、横目をちらちらと向け合う様は端から見ると異様な光景だっただろう。 バツの悪い、なんとも気まずい空気…… アキラは気づいていた。頭痛ともうひとつ腰に居座る痛みが、覚えのある感覚だということに。 そしてヒカルも気づいていた。同じく頭痛に加えてはっきり感じる尻の痛みが、明らかに昨日までは存在しなかったもので、特殊なことをしなければありえないものだということに。 相手の考えていることは見えなくても、雰囲気で伝わったのだろう。それぞれ思うところを一致させれば、出てくる答えはただひとつ。 しかしそれを口にすることは躊躇われた。 「……リビングに、行こう」 やっとの思いでアキラが掠れた声で告げると、 「お、おお」 応えたヒカルの声もまた枯れていた。 ベッドを降りて歩きだすと、頭の重さが余計に響く。取り外して抱えたい、そんな出来もしないことを本気で切望するくらい。二人はふらふらとリビングを目指した。 アキラはそのままキッチンへ向かい、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを二人分コップに注ぐ。 ヒカルはリビングの床にぽつりと置かれた碁盤を見下ろし、顔を渋く歪めていた。 碁盤は白優勢。とはいえ、どちらも酷い碁だ。おまけにどちらが黒でどちらが白なのか、それさえも覚えていない。見るに耐えなくなってため息をついたヒカルの顔前に、アキラがコップを差し出した。 受け取ったヒカルは一気に水を煽る。アキラもその向かいでぐっと水を飲み干した。干上がっていた喉に染み渡る冷たい水分は心地よく、もう二、三杯欲しいくらいだった。 身体の覚醒を促す命の水は、現状はさておき、二人に現実的なことを思い出させた。 アキラは時計を見る。午前八時。――まずい、今日は確か十時から出版部で記事の打ち合わせがあった。 ヒカルも舌打ちする。午前中は予定がないが、午後から指導碁が入っている。こんな酒臭い二日酔い状態でこなせるだろうか? 間近に迫った仕事の存在が、未だ纏まらない二人の頭に無理に整理をつけさせた。 改めて顔を見合わせた二人は、探るような目を向け合って、先に口を開いたのはヒカルだった。 「……俺ら、……何にも、なかったよな……?」 アキラは溜まってもいない唾液をごくりと飲み込み、勢い任せに頷いた。 「あ、ああ。何も、なかった」 「だ、よな。酔っぱらった、だけだよな。」 「そう、だ。酔っぱらったんだ。……それだけ、だ」 ぎこちなく頷きあって、無理矢理に結論を出した二人は、後はもうなるべく相手の顔を見ないようにして、ヒカルはそそくさと部屋を出る準備をし、アキラもリビングから軽く別れの声をかけた程度だった。 ヒカルが帰ったマンションで、アキラは数分前に閉まった扉に鍵をかけながら、まだ痛みの酷い頭を抑えて口唇を噛む。 ――なんでこんなことになったんだ。 やり場の無い怒りに応えるものはなく、アキラはただひたすらうかつな昨夜の自分を呪った。 *** 二日酔いの薬を飲んだのは、成人して初めて兄弟子たちに連れられて飲まされた時以来だった。 人前で決して羽目を外すことなく今までやってきたというのに、我ながら酷い有様だと、アキラは痛む頭を堪えて地下鉄に揺られていた。 普段なら多少人が多ければ立ったまま目的地へ向かうのだが、今日ばかりはとても立ち続ける自信がなくて、酒の臭いを気にしながらもこっそり空いた席に腰を下ろした。 まだ胸のあたりがむかむかする。実際ヒカルが帰ったすぐ後、急激に胃の不快感に襲われ、トイレに駆け込んで吐いてしまった。 二日酔いで嘔吐したのは初めてで、その苦しさのあまり薄ら目じりに涙さえ溜めてしばらく唸っていた。とても人には見せられない姿だった。 具合の悪さを堪えて目を閉じ、早く駅に着くよう祈りながら、ヒカルは大丈夫だろうかとぼんやり考える。 彼だって相当な量を飲んでいた。今朝の様子からして、自分と同じレベルの二日酔いになっているのは間違いないだろう。 朝は動揺のあまりろくな会話もせずに帰してしまったが、果たして無事に帰れたのだろうか? 途中で吐いたりしていないだろうか……。アキラはため息をついた。 ――なんであんなことになったのだろう。 考えたくはないが、考えざるを得ない。 記憶も残らないほどに酔っ払って、目覚めたら全裸でベッドの中。一緒にいたのはもう十年近くの付き合いになる、友人であるようなそうでないような、棋士の進藤ヒカル。彼もまた全裸だった。 酔ったはずみで、なんて話はよく聞くが、まさか自分がしでかそうとは思いもよらなかった。おまけに何が大問題かというと、――ヒカルは紛れも無く同性であるのだ。 しかしアキラの腰の怠さは、かつて何度か経験した事後のものと同じ。一応過去に彼女がいたこともあり、そのうちほんの何度かだけ相当に張り切った、まさにその翌日と全く同じ感覚である。 その上アキラは見てしまった。今朝、動転しつつもベッドの上で服を着ていた時、ヒカルの身体に点々と残る小さな痣を。 あれは……まるでキスマークではないか。 一体誰が? ……だなんて、愚問にもほどがある。 朝の状況を客観的に分析すると、答えはひとつしか出てこない。 ……ボクは進藤と「いたして」しまったのではないだろうか。 アキラは深く眉間に皺を刻んだ。嫌な汗がひっきりなしに脇から背中から流れてくる。 認めたくはない、認めたくはないが、どう考えてもその結論しか出てこない。 どんな経緯でそんなことになったのかが分からないのが辛い。全く思い出せないのだ。恐らくヒカルも同じなのだろう、彼の動揺ぶりは実に正直だった。 何故同性の彼にそんなことをしでかしてしまったのか? 日ごろ欲求不満だったという自覚はない。性欲が暴走したとも考えにくい。 それに、普段アキラは一度たりともヒカルをそういう目で見たことはなかった。男相手なのだからそれは当然だが、何より彼はアキラにとっては友人というよりライバルで、馴れ合ったりじゃれあったりするような存在ではなかったのだ。 そのヒカルと、酔った勢いで……なんてことがあるだろうか。 ぐらりと大きく地下鉄が揺れた。立っている人間がよろめく中、僅かな振動でも辛いアキラは頭を押さえて口唇を噛む。 ――どれだけ言い訳を重ねても、やってしまった事実は変わりはしない。 この先、どうしたらよいのだろう。 ヒカルと会って、今まで通りでいられる自信がない。 なんてことをしでかしてしまったのだろう。 酷い自己嫌悪に陥りながら、アキラは青い顔でぐったりと座席に凭れていた。 |
今回、普段通りの長さで区切ると軽く13〜14話くらいに
なってしまったんですが、いくらなんでもこのネタで
そんなに長く読むのはしんどい!と思って
全体的に長めに区切っています。の割に話進まない!
あと、私二日酔いになったことがないので
そこらへんの描写全部嘘っぱちです……