Lost it






 ひんやり腰に優しい畳の感触。
 足を投げ出し、桐の箪笥を背凭れの代わりに体重を預けて、かれこれ数時間アキラは座りっぱなしで時を過ごしていた。
 何もやる気が起きず、座り続けるだけで一日が終わろうとしている。
 二日前、腑抜けのようになってひょっこり実家へ戻って来たアキラを、父親も母親も普段と別段変わりない様子で迎えてくれていた。





 自室の様子は以前とほとんど変わっていない。
 五月の合宿の時からそれほど経っていないのだから当然かもしれないが、それにしては埃のひとつもないところを見ると、先月中国から帰宅した後、母がこまめに掃除をしてくれていたのだろう。
 箪笥の中の洋服は大方マンションへ運び出してあるが、それでも当面の生活に困らない程度にはこの部屋にも残してある。後はパソコンと――碁盤がないくらいで、暮らすのに支障はない。
 いつまで実家に留まるつもりか自分でも把握しないまま、アキラはしばらくこの家で生活してみることを決めていた。
 とはいえ、場所が変わっただけで何もしたくない気持ちは変わらない。
 一日中ぼんやりと部屋の中で座り込んでいるアキラに対して、父も母も何も追求することはなかった。
 帰宅する前、アキラは何を言われるものかと内心酷く怯えていた。
 手合いや仕事を無断で休んだことは父の耳にも入っているだろうし、何よりアキラの様相が酷いことになっている。頭ごなしに叱られないとしても、何かあったのか尋ねられるのは間違いないと思っていたからだ。
 しかし意外にも両親は何も聞こうとしなかった。
 事前に連絡もなしに帰って来たアキラを見て、母は「あら、おかえりなさい」とまるで一緒に暮らしていた頃のようにごく普通に引き戸を開いてくれた。
 狐に摘まれたような顔をして、久しぶりの実家へと足を踏み入れたアキラは、さすがに父はそうはいかないだろうとびくついていたのだが、早めに部屋にこもったアキラがその日のうちに呼び出しを受けることはなかった。
 翌朝、母に呼ばれて仕方なくついた朝食の席でも、父は「おはよう」としかアキラに声をかけず、その後も特別な会話を交すことなく食事の時間は終了した。
 半ば拍子抜けしつつも、予想外に干渉されない空間に幾分ほっとして、アキラは母が呼ぶ以外の時間をほとんど自室で過ごしていた。
 この先都合が悪くなると困るので、棋院側には病気だと伝えて一応の謝罪をした。当然それだけで済まされない損害が出ていることはよく分かっているが、電話一本入れるだけでも相当の労力を振り絞った今のアキラにそれ以上の対応は望めそうになかった。
 とにかく、何もしたくなかった。誰にも何も聞かずにいて欲しかった。そんな自分勝手な要求を突き詰めていくと、この家に戻らずに独りきりで閉じこもっていたほうが良い気もした。
 しかしあのマンションで感じた恐怖を思い出すとアキラの足は相変わらず竦んで動けなくなる。ヒカルとの思い出も色濃く残るあの部屋で、再び独りぼっちになってしまえば今度こそ恐怖に押し潰されてしまうかもしれない。
 幸い、この家には人の気配があるのに、父も母も無理にアキラを明るい場所へ引っ張り出そうとはしなかった。両親がどういうつもりかは分からないが、あれこれと詮索されるよりはずっといい、とアキラは何もない空間を見上げ続ける。

『お前、一度帰ったほうがいい』

『親父さんと打ってもらえ……』

 ヒカルの声が頭の中で反響する。
 今の自分には無理な話だ――アキラは空を見つめて僅かに眉を顰める。
 状況は何ら改善していなかった。
 事態は何一つ変わらない。ヒカルがいないことに変わりはしない。
 もう何日碁石に触れていないだろう。
 あれからアキラは碁盤をまともに見ることさえ辛くなっていた。
 碁盤を見れば、否応無しにヒカルとの思い出が胸を突き破らんばかりに溢れ出て来る。
 それを過去の思い出として受け止めることはあまりに苦しかった。
 もしもこのまま碁が打てなくなってしまったとしても。
 きっとヒカルはアキラを顧みずに真直ぐ前に進んで行くだろう。
 そんな目を、していた……。


 アキラさん、と障子の向こうから優しく呼び掛ける声がする。
 返事もせずに顔を僅かにそちらへ向けたアキラの動作など見えるはずもないだろうに、母の声はそのタイミングが分かっていたかのように言葉を続けた。
「お夕飯の時間よ。いらっしゃい」
 相変わらず腹は減らず、吐き気こそ大分治まったが何かを口にしたいとは思わない。
 そんなアキラの心の声が聞こえるのか、
「無理に食べなくていいから、食卓にはつきなさい。分かったわね」
 母は口調を変えずに柔らかくそう告げて、気配は障子から離れて行った。
 アキラはぼんやりとしたまましばらく動かないでいたが、やがてのろのろと床に手をついて身体を起こし始める。
 嫌だ、動きたくないと駄々をこねても母は何も咎めないかもしれない。しかしアキラが行かなければいつまでも食事が始まらず、両親が食卓についたまま身動きしないことを頭の奥で理解していたため、億劫ながらもアキラは部屋を出た。母は、そういうところは恐ろしくきっぱりとしていた。


 居間を覗くと、テーブルに並んだ夕飯を前に両親が正座をしてアキラを待っている。
 アキラはうつろな表情のまま、自分の席として用意されている座布団の上にゆっくりと正座した。
 母はにっこりと微笑んで、全員が揃ったことを確認してから「いただきます」と頭を下げた。父も同じく、アキラは二人に釣られるようにかくんと首を落とすのみだった。
 昔から、なるべく食事は家族全員揃ってとるというのがこの家での決まり事だった。
 忙しい父親は普段から家を空けることが多く、せめて食事くらいは一緒にという母の配慮だろう。
 それはアキラが随分成長してからも変わらない光景だったが、ここしばらくは両親は留守がちで、アキラ自身も家を出てしまっていたため、三人で食卓を囲むのは随分と久しぶりのことだった。
 静かに夕食を口にする両親を前にして、アキラはぼうっとテーブルの上を眺めているだけだった。
「アキラさん、お味噌汁だけ飲みなさい。身体が温まるわ」
 母に言われて味噌汁に目をやる。
 食欲は沸かないが、アキラは機械的に手を伸ばした。
 椀に触れると、まるで血の通っていないような色をした指先がジンと痺れる。冷えきった指には刺激が強すぎるくらいの熱だった。
 箸もとらず、両手で椀を包むように持ち上げてそっと口元へ運んだ。乾いてすっかり荒れてしまった口唇を濡らし、温かな味噌汁が湯気と共に口内へ流れ込んで来る。
 喉を伝って空っぽの胃に届くまで、液体の行方は酷く分かりやすく内臓に熱を残して行った。
 味噌汁を口に含んだアキラを見て、母は満足げに微笑んで頷いた。
 それからすぐにアキラが椀をテーブルに置いてしまっても、母はもう何も言わずに自らの食事を続けていた。父もまた、二人のやりとりに口を挟むことはなかった。
 そうして一口だけの夕食を終えて、アキラは再び部屋へと戻る。
 三食全てこんな調子なのだから、両親と顔を合わせる時間は極端に少なかった。
 かえって有り難い、とアキラは小さな息をついて、食事前と同じ位置に腰を下ろしてぼうっと宙を見る。

 あれこれ話しかけてくる母に対し、父との会話は極端に少なかった。
 ひょっとしたら、父にはとっくに呆れられてしまっているのかもしれない。
 反対を押し切って一人暮らしを始めてからまだ半年が過ぎた程度、こんな腑抜けのようになって戻って来た息子に落胆したって無理はない。

 碁の打てなくなった自分を、周りの人間が見限り始める。
 そう、今までの自分の存在意義は「囲碁」でしかなかった――

(誰もいなくなる)

 碁の打てない自分など。

(進藤もいなくなった)

 あれきり一度も連絡を寄越さないヒカルは、アキラに代わるライバルを探すのだろうか。

『じゃあな』

 カランと床に転がる鍵の音が耳に甦り、アキラは膝を抱えて蹲るように頭を埋めた。
 何もかももう、取りかえしがつかないのかもしれない。
 それでも。


 ――考えるんだ――


 何かの呪文のように耳にこびりついた緒方の声は、絶えず頭の中に流れ続けている。
 しかし「考えること」はできても、そこから「答えを出すこと」にはまだ辿り着くことができなかった。
 まだ動けずにいる。竦んだ足は簡単には動かない。
 それでも呆けた顔で座り込んだまま、アキラは一日中考える。
 ヒカルに言われた数々の言葉の意味を。






塔矢邸にて。
ちょっとずつ、と思っていますが
どうしても急ぎ足になっちゃいますね……