すでに7月も半ばに差し掛かり、クーラーをとめているアキラの部屋は軽く汗ばむほどに蒸し暑い。 夜が来ればその熱も大分収まるが、汗をかこうがそんなことは座り続けるアキラにとってどうでもよいことだった。 障子の向こうから透ける月明かり。 きっと今夜は晴れた夜空に大きな月が出ているのだろう、と何の感動もなく思う。 窓を開ければ、少しはこの隠った空気に夜の静かな風が入り込んで涼しくなるかもしれない。 しかしそれだけのために腰を上げるのは、力の抜けた身体には苦痛だった。 去年の夏を思い出す。 もう残暑に差し掛かっていた月夜、ヒカルとの約束通り、この家の縁側で一緒に花火をした。 ヒカルがその前の年に着た浴衣を着たいと言い出して、着付けてみたはいいものの、あれから随分背が伸びたヒカルには少々丈が足りなくて。 足首を出したまま、構わないとヒカルは庭で花火を振り回していた。 リクエストを受けてスイカを用意して、きちんと風鈴だって吊るしていた。 その日は無風といって良いほど静かな夜だったから、風鈴が自ら音を鳴らすことはほとんどなく、ヒカルが指で弾いてリンリンと鳴らして笑っていた。 耳に残る優しい音色。 リンとかん高くも柔らかい音に混じって、火薬の匂いと色とりどりの煙、暑さも忘れて夜中肌を寄せあったあの日。 つう、とアキラの頬を静かな涙が伝う。 幸せだった。 幸せだったのに、それだけでは足りなかった。 ふいに押し寄せて来る不安に抗えず、狭い世界へヒカルを閉じ込めようとしたことへの罰だろうか。 煙の向こうでゆらゆらと笑顔が揺れていたあの夏。 (逢いたい) (逢いたい) (逢いたい……) ――何のために碁を打ってる! 考えている。ずっとずっと考えている。 でも答えが出て来ない。幸せだった頃の記憶は涙と一緒に次々と溢れてくるのに、そこから前へ進めない。 逢いたい。逢いたい。逢いたい。 あの頃に戻りたい。 『これから先の時間は俺達ずっと一緒だろ? ……違う?』 違わない。 そう、思っていた…… *** 何もしない日々が続く。 帰宅して以来、アキラは外へ出ようともせずに部屋に隠り続けた。 朝も昼も夜も、桐の箪笥に凭れてぼんやり座り込んでいたが、ある日の夕食時に母がおもむろに 「夜は布団だけでも敷きなさい。横になるだけでも疲れのとれ方が違うわ」 そうアキラに告げてからは、言われた通り布団だけは敷くことにした。 布団に身を横たえても、うつろに開いた目が安らかに閉じる訳ではない。 しかし母に言われた言葉に従うことに、不思議と抵抗は感じなかった。 字面は強制的にも思えるのに、柔らかな口調がそうと感じさせないためだろうか、ただ単にアキラに反発する力が残っていなかっただけかもしれないが、こうしなさい、こうしなさいと言われた内容に従っているおかげで、少しずつではあるがアキラは人間らしい生活を取り戻していった。 僅かとはいえ三食の食事をとるようになり、夜は布団に入って身体を休める。 それは端から見るとロボットに少しずつ刷り込みをしているような光景だったかもしれない。 食べ物を摂取するようになれば、うつろだった瞳も少しずつ焦点が定まり始め、一日中ぼうっとしているのには変わりがないが、布団に横になり始めたおかげで夜に眠る回数が増えた。 体内のリズムが、狂っていた感覚を徐々に元へ戻そうとしていた。 朝日が昇れば目を覚まし、布団を上げ、食事に呼ばれて、食事が済めば部屋に座り込んでぼんやり考えて。 空っぽの心は相変わらずだが、生活の規則が正しくなって来ると、必然的に身体は生気を取り戻し始める。 その頃になると、いつまでもぼんやりしているだけではいられなくなってきた。 棋院から様子伺いの電話が来るようになった。 遠回しな尋ね方にはあらゆる含みが読み取れて、アキラの子供じみた言い訳を容赦なく追い詰める。 散々迷った末、とうとうアキラは手合いに出始めた。 碁盤を見るのは辛かった。碁石に触れるのも嫌だった。棋院でばったりヒカルに逢い、こんな姿を見られやしないかと思うと身体が震えた。 それ以上に、「囲碁を捨てる」という選択はアキラを怯えさせた。 ヒカルとアキラを繋ぐ最後の蜘蛛の糸――この細く頼り無い糸が切れてしまえば、今度こそ本当に自分の世界は跡形もなく崩れてしまう。その想像し難い絶望を思えば、乗り気ではない仕事も耐えられると、アキラは再び碁盤に向かい始めた。 ここしばらくろくな勉強もしておらず、集中力もないので対局の結果はどれも散々だった。そして棋院から頼まれる仕事も以前に比べて極端に露出が少ない、いわば誰にでもできるような雑用のようなものばかりになって、「塔矢アキラはもう駄目だ」と噂されているのは知っていた。そんな周りからの視線を視界から遮断するように、アキラは淡々と義務を果たした。 アキラが仕事を放棄していたのは、後から数えると僅か二週間程度の期間だった。意外にも短かかったその間の、あののた打つような苦痛を思い出してアキラは表情を暗く歪める。 ヒカルを失って、何もかも終わると思った。 永遠にも感じられたあの地獄のような日々は、振り返ってみればその程度の長さでしかない。 今でもあの日のヒカルの目を思い出すと胃の奥を握りしめられるような感覚が甦るが、鈍い痛みがアキラの息の根をとめる訳でもない。 身体が苦痛に慣れてしまったのだろうか。――そう思うと、無性に寂しくなった。 結局、哀しみに打ち拉がれる自分自身に浸っていただけなのだろうか。 涙が枯れることはなく、何もしたくない現状は変わらないままだけれど、アキラはこのまま自分が狂ってしまえないことを自覚せざるを得なかった。 ヒカルがいない。 でも、変わらずに朝日は昇る。 ヒカルに逢いたい。 *** 部屋の中で足を投げ出し、箪笥に背中を預けて宙を見つめる。 帰宅してから碁盤に向かうことはなく、日々は無駄に過ぎて行く。今日の手合いも負けて帰って来た。自分よりも低段の相手に中押しで負けた。 父は何も言わず、何も聞かない。手合いの結果は知らずとも、アキラの様子を見ていれば勝てるはずがないということは一目瞭然だろう。 父にも、ライバルであり恋人でもあった大切な人にも、こんなふうに見放されて。 それでもなお碁盤に向かい続ける意味があるのだろうか。 一人こうしてぼんやりと、考えているフリをし続けて出口は見出せるのだろうか。 考えろと言われて、考え続けたつもりだった。 何か分かったかと問われれば、何もとしか答えられない。 落ちたものだと囁かれているのは分かっている。 だけど碁を手放せない。 惨めにしがみついていると言われようと、もう自分にはこれしかヒカルと繋がる道が残されていない。 ――お前は、何のために碁を打ってんだ! キミのためだと答えたあの日、ヒカルは哀し気に眉を顰めた。 ヒカルと造り上げる世界が大切で、あの言葉に偽りはなかった。 何故ヒカルは哀しみの色を見せたのだろう。 ――考えろ 考えている。ずっと考えているけど分からない。 何のために碁を打っていたか? 何故碁を打つのか? そんなこと分からない。 ――分からないのは、お前が分かろうとしないからだ ヒカルの意図。 別れの意味。 何故二人だけでは駄目だったのか。 何のために碁を打つのか。 (分からない) 何故、碁を打つかだなんて。 (だって……) ……だってボクは、自分がいつから碁石に触れていたのか覚えていない。 ずっとずっと小さい頃から、当たり前のように碁盤に向かって来た。 当たり前のように…… あの頃は、何故碁を打つのかなんて考えてみたこともなかった。 碁盤も碁石も、常に自分の前にある日々を疑問に思ったことなどなかった。 分からない。 何故ボクは碁を打つのだろう。 |
まだかなりへたれています……
でも人間には戻りつつあります。