芦原が帰宅し、いつものように少量の夕食を終えた後、後片付けに立とうとした母がふいにアキラを呼び止めた。 アキラは部屋に戻るつもりですでに廊下へ足を踏み出していたため、身体の大部分を廊下に向けたままで首だけ振り向いた。 母は普段と変わらない穏やかな口調で、まるで大したことではないように告げた。 「碁盤、貴方の部屋の押し入れにあるわ。」 アキラは母の言葉の意味がすぐに理解できず、軽く目を見開いた。 母は淑やかに微笑んで、驚くアキラを気にせずに言葉を続けた 「アキラさんが小さい頃使っていたものよ。貴方、自分の碁盤は向こうのお家に置いてきたままでしょう。打ちたくなったらそれを使いなさい」 アキラは目を丸くしたまま、何とも返事ができずに瞬きを繰り返す。 母はそんなアキラに悪戯っぽい笑みを見せ、身を翻して台所へと戻って行く。まるで少女のような茶目っ気のある仕草にアキラはしばし呆気に取られていたが、やがて額に影を落として自室へ向かい始めた。 ――急に何を言い出したのだろう。 たまに掴めないところのある母ではあるが、今回はまた格別だ。 アキラが部屋で何もせずにぼんやりしていることは勘付いているだろうに、今頃になって碁盤の話をするなんて。 ――小さい頃に使っていた……? アキラは眉を顰めたまま、自室の障子に手をかける。 覚えている限り、かつて買ってもらった碁盤はマンションで使用していた足付きのあの碁盤のみ。 それより前に使っていた碁盤など、記憶に残っていない。 部屋に入って後ろ手に障子を閉め、アキラは押し入れに顔を向けた。 布団をしまっている押し入れではないだろう。もうひとつ、帰宅してから一度も開いていない押し入れ――アキラはそっと近付いて、静かに押し入れの戸を引いた。 スーと開いた戸の向こうに整然と並ぶ荷物を見て、それらの存在の懐かしさに一瞬目が眩む。見覚えのある絵本。ランドセル。丈の低いハンガー掛けもこんなところにしまわれていたとは。 そうして目線を下ろした先にある、押し入れの中に簡易的に作られた棚の一段にひっそりと鎮座している折り畳みの碁盤を見つけて、アキラは思わず手を伸ばした。 ――……これ…… 折り畳みの十九路盤。足付きをすでに持っていた自分が、こんなものを使っていたことがあっただろうか……? 半分に折られた碁盤をそっと広げて、畳の上に置いてみる。 今は軽いこの折り畳みの碁盤、……そういえば、小さな手にはこの碁盤が余るほどで、重さを堪えて抱えて走ったことがあったような。 ――お父さん、お父さん!―― アキラははっとした。 ――思い出した。 あれはアキラがまだ小学校に通う前、母に出された詰碁の問題が解けた時、帰宅した父が居間まで来る短い時間すら待ち切れず、この碁盤を抱えて玄関まで出迎えに行っていた。 足付きでは重たくて運べないけれど、この折り畳みなら抱えて持って行ける。 両のポケットにそれぞれ白石と黒石を詰めて、玄関で靴を脱ごうとする父の前で問題を再現し、どうやって自分がその問題を解いたかを誇らし気に説明していた幼い頃。 あの時の碁盤。……いつしか父を「師匠」として敬うようになってから、いつの間にかやめていたあの騒々しい出迎えを受けて、父はいつも穏やかに微笑んでいた。 ――まだ、あったんだ。 アキラは目を細め、表面に小さな傷が残る碁盤をそっと取り上げて、音を立てないように畳んだ。 そうして押し入れの中へ、元の通りに戻しておいた。 何の不安もなかったあの頃。碁が打てるだけで幸せだった。 でも今は、どんなに苦しくても縋り付かざるを得ない、苦痛の象徴としてアキラの前に立ちはだかる。 アキラはそうっと押し入れの襖を閉めて、その戸に背を向けようとした。 『気負うなよ、アキラ』 「!」 引き寄せられるように押し入れを振り返ったアキラは、夕方に芦原から言われた言葉がふいに頭に響いたような気がして首を傾げた。 (……いや、違う) 先ほどの話ではない。 もっと昔、同じような優しい口調で同じ言葉を言われたことがある。 そう、あの折り畳みの碁盤を抱えていた頃。 そうだ。 一人前に自分専用の碁盤を抱えて、勇んで父の研究会に顔を出していたことがあった。 ちょうどその頃から囲碁教室に通い始めて、父という存在が囲碁界では「別格」なのだと悟り始めた時期だ。 父の顔を潰すまいと、勢い込んで碁石を並べ、小さな子供の頼もしい姿を見た周囲の門下生から失笑を買っていたことなど気付くはずもなく。 「頑張れよ」と言われる度に、大きく頭を振って頷いてみせていた。 それなのに、芦原だけが。 『気負うなよ、アキラくん』 ――そうだ。 あの時、芦原にそう言われて肩に手を置かれて、何故か自分は泣いたのだ。 他の誰もが小さな勇者を焚き付ける中、芦原だけが肩にこもった力を抜くよう笑ってくれた。 碁盤を抱える小さな肩は、いつだって重みで震えていた。 そんな自分に、気負うなと。彼はいつも口癖のように。 何故今頃、こんなことを思い出すのだろう――…… *** 翌朝、朝食後に食器をアキラが台所へと下げに行った時、母が「碁盤は見つかった?」と尋ねて来た。 アキラは少し戸惑うように立ち止まり、それでも静かに頷いてみせる。 折り畳みの碁盤。 碁石が指に余る頃の自分を思い出して、不思議な気分になったまま再び押し入れに仕舞ってしまった碁盤。 アキラは汚れた食器を母に手渡しながら、ごく小さな声で呟いた。 「……昔を、思い出しました」 母はその言葉に一瞬手の動きを止め、それからすぐに柔らかな笑顔を浮かべて「そう」と頷き返してくれた。 シンクを叩く水の音が止む。母は水道のレバーを下げて、騒がしい音が静まった台所で微笑みながらアキラに改めて向き直った。 「アキラさんの声、久しぶりに聞いたわ」 母の言葉に、アキラは薄ら頬を赤らめた。 確かに久しくろくな声を出していなかった。首を縦か横かに振れば意志表示には事足りたので、わざわざ億劫な口を開いてまで会話をしようという気になれなかったのだ。 母は穏やかな表情のまま、気まず気にたじろぐアキラに向かって誇らし気な笑みを見せた。 「あの碁盤は、アキラさんの原点よ」 ぴく、とアキラは肩を揺らす。 母は真直ぐに随分背丈の伸びた息子の顔を見据えて、優しくも力強く言葉を添えた。 「貴方が初めて自分の意志で「欲しい」と言ったものよ。大事になさい」 「……、ボクが……?」 「そうよ。覚えていない? 一生懸命碁の勉強をするから買って下さいって。普段物を欲しがらない貴方が、初めて頭を下げたのよ」 戸惑いを見せるアキラに、母は飽くまで穏やかに微笑んだ。 「覚えていない? アキラさん。囲碁を始めたのは貴方の意志よ。……あの人は最初随分渋っていたわ……貴方に囲碁を教えることを」 「え……?」 アキラはゆっくりと目を見開いた。 母の笑みは限り無く優しい。 碁の道の厳しさを知っているから。 貴方に同じ道を歩ませて良いものか、アキラさんが産まれた時から悩んでいたのにね。 貴方、赤ん坊の頃から碁石に触れては笑っていたのよ。 自分の碁盤を欲しがって。小さな爪をすり減らして。 アキラさん。覚えていない……? 部屋に戻ったアキラは、真直ぐに押し入れに向かった。 昨夜、一度は仕舞った折り畳みの碁盤を再び手にし、床に広げてじっと見下ろす。 窓から仄かに差し込む日の光の下で見る碁盤は、夕べよりも柔らかく感じる照りが目に優しかった。 ――原点。 碁盤を抱えていた小さな自分。 自分の意志。 囲碁を教えるのを、渋っていたという父…… 『気負うなよ、アキラ』 眉間に皺を寄せ、アキラは目を閉じる。 分からない。 何故碁を打つのか。 この碁盤を小さな手でしっかり抱えていた、ヒカルと逢う前の自分は何のために碁を打っていたのか。 ――思い出せ ――そして考えろ 目を開き、見下ろした先の十九路の世界に息を呑む。 ……ボクが忘れてしまった言葉の数々。 これが、原点。 忘れていた、原点…… アキラは天井を見上げて口唇を噛み、眉に皺を刻んで再び目を閉じた。 ヒカルの言葉を思い出したいのに、何故だかもっと昔のことばかり頭に浮かんで来る。 小さな頃の忘れていた思い出。 この碁盤を見つけるまで、記憶の隅にあることすら知らなかった過去…… (進藤) 短い指に挟んだ碁石。 (進藤) 大人たちに囲まれて、負けじと自分だけの碁盤に向かっていた日々。 (進藤……!) 何故今頃になって。 考えなければならないはずのヒカルの言葉よりも、昔のことばかりが。 「……進藤」 忘れていたはずなのに…… |
少しずつ……と思っているんだけどどうしても気が急いて仕方ないです。
わざとらしい振りが続いていますがどうぞ笑って見逃して……!
このお話のイメージイラストをいただいてしまいました!
とっても素敵なイラストはこちらから
(2007.03.14追記)
(BGM:Lost it/Tourbillon)