気付けばいつも囲碁と共に毎日があって。 父の教えの下、門下生の大人たちに囲まれて、碁を打つことに神経の全てを注いで。 余計なことなど考えず、囲碁の道を邁進しようと子供ながらに頼もしく胸を張って。 誰よりも強くなる未来を、疑いもせずに信じていたあの頃。 お幸せなものだ、と小さな自分を振り返る。 あの頃は幸せだった。囲碁だけが自分の全てで、他には何も欲しいと思わなくて。 だからこそ、自分の周りに対等で相応な相手がいないことにもどかしさを感じて、煮え切らない日々もあったけれど、それでも打ち続けていれば迷いはすぐに晴れた。 ひたすらに囲碁を追求する。 それがどれだけ恵まれていたかなんて考えもせずに。 今、こうしてろくに碁も打てなくなった自分の姿を、欠片も想像することなく…… 碁石を持たせてくれたのは恐らく父なのだろう。 他の子供らしい遊びはほとんど覚えてはいない。 門構えのせいか近所の子供が遊びに来ることもなく、買い与えられたおもちゃを尻目に、静かな家の中で父がいない間に母と碁盤を囲んでいたことがしばしばあった。 母は棋力が高いわけではなかったが、一通りのルールは知っていて、簡単な詰碁の問題をアキラに出してくれた。父が帰るまで、いかにその問題をたくさん解くかがアキラの日課となっていた。 白と黒の滑らかで綺麗な碁石に触れながら、拙い手付きで碁盤の上に石を並べるその行動に、更なる自我が働き始めたのはもう少し後のことだった。 本格的に父から囲碁を教わり始めて、その頃からアキラの生活は囲碁一辺倒になった。 碁会所に通うようになり、父を慕う大人たちに可愛がられて、ますます普通の友人はできなくなってしまったけれど、そんなことを気にしたことはなかった。 囲碁と共に生活があり、アキラだけのサイクルができて行く。 学校に通い始めても、放課後は真直ぐに碁会所へ寄り、帰宅した後も碁盤に向かい、夜に眠って朝が来ても朝食前に父と打ってまた学校へ、その繰り返し。 刺激的ではないけれど、それがアキラの日常で、退屈だとは思わなかった。 あの日、ヒカルに会うまでは。 自覚はなくても、あの頃のアキラは少なからず自惚れがあったのだろう。 圧倒的な力を前に、受けた衝撃は半端なものではなかった。 それまでの自分が信じていた物を根底から覆されるような棋力、反してとても玄人には見えない人となり。 「進藤ヒカル」という存在にたまらなく引き付けられた。 脇目も振らずに彼だけを追い、アキラの生活が少しずつ変わって行った。 追いかける立場がいつしか追われる立場になり、初めて同じラインで向かい合った時、止めようもなく相手を求めて腕を伸ばして。ヒカルもまた、その腕をとった。 あれから数年――、確実にヒカルとの絆は強くなっていると思っていたのは間違いだったのだろうか。 気付かないうちに、何が狂っていったのだろう。 ヒカルのためなら何を捨てたって構わなかったのに、ヒカルはそんなアキラを捨てた。 あんなに、幸せだったのに。 *** 「アキラさん」 障子の向こうから母の穏やかな声が呼び掛ける。 アキラは顎を上げて、桐の箪笥に体重を預けたまま首を声の方向へと向けた。 「芦原さんが見えてるわよ。少しだけでも顔を見せてさしあげて」 それだけ言い残した母は、アキラの返事を聞くこともなく部屋の前から立ち去ったようだった。 アキラは首を正面に戻し、かくりと力を抜いて腹に視線を落とす。 芦原から何度かメールが入っていたのは知っていた。 一番最初に届いたメールを開いたのは随分時間が経ってからで、連絡もなしに手合いを休んだアキラを心配する内容だった。アキラが一人で暮らしていることを知っているから、何かあったのではと思ってくれたのだろう。 やがて棋院に出向き始めるようになると、メールはごくごく他愛のない内容へと変わっていった。 今度うまい焼肉食いに行こうな、とか、そのうちドライブにでも行くか、とか、別段急ぎの用事でもない短いメール。 特に返事を強制するようなものではなかったため、アキラは目を通すだけで返信は一度もしていない。 それでも芦原は思い出したようにメールを送ってくる。 ひょっとして、反応の乏しいアキラに焦れただろうか――家を訪ねて来たという芦原が心配そうにアキラを見つめる様子を想像して、アキラは眉間に小さく皺を刻む。 哀れみの目を向けられるのは辛い。不必要に心配されて、根掘り葉掘り問い質されるのも。 傍目にも窶れたアキラを見て、芦原が大騒ぎしやしないだろうか。それは考えるだけで酷く疲れる光景だったけれど、すでに来ている人間に対して会わないと言う訳にもいかず、アキラは重い腰をゆっくりと持ち上げた。 「よう、アキラ」 すでに客間に通されていた芦原は、片手に湯気の立つ湯飲み、空いたもう片手をひょいと持ち上げて、意外なほど屈託のない笑顔をアキラに向けていた。 アキラを見るなりさめざめと泣き崩れる芦原を予想していたアキラは、いささか拍子抜けしてぽかんと薄く口を開いた。 「なんだ、思ったより元気そうだな。こっち座れよ、これおみやげ」 にこにこと口元を緩ませながら芦原の差し出す包みに視線を落とし、誘われるままにテーブルを挟んで芦原の向かいへそっと腰を下ろす。 包みに書かれた店の名前には見覚えがあった。小さい頃よく食べた老舗の和菓子。 「お前ここの豆大福好きだったろ〜?」 テーブルの上で広げられた包みの中からふっくらとした大福が現れたのを、ぼんやりと見つめたアキラは頷こうにもうまく首を振ることができなかった。 子供の頃、父の研究会に来ていた門下生からおみやげにもらった豆大福を美味しいと頬張っていたこともあった。しかしそれは、十年近くも昔のことだ。 しばらく口にしていなかったボリュームのある大福を前にアキラは沈黙したが、芦原も無理に食べさせる気はないようで、包みは広げたままに手元の煎茶を穏やかに啜った。 芦原は湯飲みを静かにテーブルに置くと、ふう、と湯気の香るような満足げなため息を漏らし、少しだけ目を細めて対面に座るアキラに微笑みかける。 「手合い、出始めてほっとしたよ。お前、ろくにメールの返事もくれないからさあ」 おどけた口調とはいえストレートに責められて、アキラは小さく口の中ですいません、と呟いた。 消え入りそうではあったが、アキラの声が聞こえたことに安堵したのか、芦原はにっこりと相貌を崩した。 底に僅かに残っていた煎茶をぐっと飲み干すと、芦原は割らない程度に勢い良く湯飲みを置き、さて、と腰を上げようとした。 思わずアキラも芦原の動きに合わせて顎を上げる。――もう帰ってしまうのだろうか。今来たばかりだというのに。 アキラの無言の問いかけを理解したのか、芦原は柔らかい表情のまま少しアキラに顔を近付けて、 「気負うなよ、アキラ。」 声色は優しかったが、きっぱりとそう告げた。 反応を返せず少しだけ目を見開いたアキラの前で、芦原がじゃあ、と客間を後にしようとする。思わず腰を浮かしかけたアキラを芦原は手ぶりで制し、 「いい、いい。明子さんに挨拶してから帰るからさ。また来るよ。じゃ、しっかり食えよ!」 爽やかに、かつ速やかに部屋から出て行ってしまった。笑顔の残像を残しながら。 アキラは風のような芦原の短い来訪に呆然としつつ、芦原が置いて行った豆大福を困った様子で見下ろした。 食事をとるようになったとはいえ、あまり胃に重たいものを食べたいとは思わない。おまけに餡がぎっしり詰まったここの大福は小さい頃ならとても美味しく感じられたのだろうけれど、味覚が大人のものにほぼ近付きつつある今のアキラには正直持て余すものだった。 突然やってきて、こんなものを置いて行くだなんて――恐らく芦原なりにアキラを元気づけに来てくれたのだろう。 しばらく無断で仕事を休んで、出て来たと思ったら負け続け。傍目にも痩せたアキラに対して芦原がとった行動がこの豆大福だなんて。 いつまでも子供扱いされたままなのだ、とアキラは微かに眉を寄せて、そっと開かれた包みを元へ戻す。 (……でも) あんな芦原の顔を何処かで見たことがあるような気がする。 思い出せないけれど、……ずっと昔に。 |
ちなみに芦原さんはアキヒカの関係に
気付いていませんので念のため……