ラビュー・ラビュー






「ねー和谷ぁ、進藤知らない?」
 可愛らしい声に呼び止められた和谷は、そこに院生時代からの友人である奈瀬の姿を認めて肩の力を抜いた。そうして何の気なしに記憶の中のヒカルの姿を口にしていた。
「進藤? さっき奥の対局室に入っていったような……」
「ホント? ありがと」
「あ、奈瀬、ちょっと……」
 和谷に礼を言って軽やかに身を翻す奈瀬を、和谷は一瞬止めようとした。どうやら記憶の中の映像に引っ掛かりがあったらしい。が、すぐに悪びれない顔で肩を竦める。
「ま、いいか」




 対局室――
「いいじゃん、塔矢のケチ。研究会には何度か顔出してるんだし、俺が行ったって――」
「駄目だよ、キミはハメを外しすぎる。緒方さんに良いようにからかわれるのがオチだ。その日は都合があると言って断ること」
「ええ〜、行きたい行きたい行きたい〜」
「お酒が絡むとキミは本当に張り切るな。駄目だったら駄目だよ、ボクが許さない」
 会話を交わす二人の他に誰もいない対局室のはじっこで、塔矢アキラは珍しく両足を前に投げ出して畳の床に座っていた。もっともその格好は、アキラに向かい合って太股に跨っているヒカルのせいで強いられているだけであり、本人の意思ではないようだ。
 ヒカルはアキラの首に腕を絡ませて顔を覗き込みながら、先ほどから猫なで声を出している。ヒカルがおねだりを繰り返しているのは、間近に迫った塔矢門下の新年会の参加についてだった。
 ヒカルは塔矢門下生ではないが、アキラと親しくなってからは何度か誘いを受けて研究会に顔を出すことが増えていた。そのため塔矢門下の面々とは冗談を交し合う程度の仲にはなり、時折遊びに声をかけられることもしばしばあった。
 しかし、その遊びに酒が絡むと何故かアキラがヒカルにゴーサインを出さなかった。理由はヒカルの酒癖が悪いからだとアキラは言うが、その自覚のないヒカルは納得がいかない。
 今回の新年会も、塔矢門下筆頭である緒方直々のお誘いだというのに、行く気満々だったヒカルに対してアキラが首を縦に振らなかった。
 何故ヒカルの参加についてアキラに許可をもらわなければならないのかと言うと、アキラが塔矢門下率いる塔矢行洋の息子であること以上に、二人が恋人同士であることが大きかった。
 数年前から男同士でありながら恋人としてアキラと付き合っているヒカルは、この凛々しく真面目な美青年に頭が上がらない。
 アキラはひたすらヒカルに優しかったが、甘やかすことはしなかった。いつも理路整然とヒカルの間違いを正し、ヒカルにとって良くないと思われることにはきっぱりNOを示していた。しかもアキラの言うことを聞かずに痛い目を見たことはあれど、その逆はないのだから従わない訳にいかない。
 アキラが常にヒカルのことを一番に考えてくれていることが分かっていたので、ヒカルとしてもきちんとアキラの許可をもらってから気持ちよく新年会に参加したかったのだが……
「行きたい行きたい〜」
「とにかく駄目。お酒ならうちの門下生とじゃなくても飲めるだろう? 院生仲間と飲みに行っておいで」
「んだよ、塔矢の分からず屋!」
 言葉とは裏腹に、ヒカルはアキラの首筋にかじりついた。肩に顔を埋めて擦り付けて鼻を鳴らし、こうなるとただの駄々っ子である。
 そんなヒカルの甘ったれた様子にすっかり慣れてしまっているらしいアキラは、ぽんぽんとヒカルの背中をあやすように叩き、肩を竦めてふうとため息をついた。ヒカルはアキラから離れようとしない。しっかり首に腕を回してしがみついているヒカルを、気持ちだけでも慰めようとアキラが優しく抱き締めた。
 その時だった。これまで人の気配がなかった対局室の襖ががたがたと揺れた。
「進藤、いるー?」
 高くて可愛らしい声が響くと共に、ひょっこり女流棋士の奈瀬が顔を覗かせる。
 二人の身体が離れるより早く。
「……」
「……」
「……」
 一瞬、三人の間で時が止まった。
 それからヒカルが顔を真っ赤にさせて、まるで身体にバネを仕込んでいたかのようにびょんとアキラの身体から飛びのいた。
 不自然にアキラから離れたヒカルをぽかんと見ていた奈瀬は、少しの間を経てからおもむろにヒカルへと近付き、茶封筒を差し出した。
「……これ、この前言ってた棋譜。コピーだからこのままあげるわ」
「あ……、あ、う、うん、あ、ありがと……」
 差し出されるがままに奈瀬から棋譜を受け取ったヒカルは汗だくである。
 じゃ、と何事もなかったかのように奈瀬が二人に手を振り、くるりと背を向けて部屋を後にする。閉まる襖。静けさが戻る室内。
 アキラと共に取り残されたヒカルは、今度は顔を真っ青にして髪を掻き毟った。
「ど、ど、どーしよう!」
「何が?」
 しれっと答えるアキラにヒカルは目を剥いて振り返る。
「何がって、何でそんな呑気なんだよ! 絶対見られたじゃん! 俺らべったりくっついてたとこ!」
「キミが一方的にくっついてきてたんじゃないか」
「そんなんどーだって良いんだよ、何でお前そんな落ち着いてるわけ!? あああ、どうしよう、和谷とか伊角さんに喋られたら……!」
 焦るヒカルをよそに、冷静なアキラはまるで動じた様子がない。
 それどころか、
「……別に大丈夫じゃないか?」
 実にのんびりとした口調でそんなことをのたまった。
「大丈夫なわけあるかー!」
 ヒカルはアキラの胸倉を掴み、がくがくと揺さぶる。揺さぶられるままに表情を変えないアキラは何処か疲れたようなため息をついた。
 そんな緊張感のないアキラの様子が信じられず、ヒカルはアキラから手を離すと畳に突っ伏した。
「ホモって言われて気持ち悪がられたらどうしよう……」
「キミ、それってさりげなくボクにも失礼な言葉だぞ。キミの友達だろう、彼らはそんなに理解がないのか?」
「だってみんな意外と常識人だもん……」
「ボクらが非常識みたいじゃないか。多少一般的じゃないだけだ。気にすることはない」
 堂々と言い放つアキラを半ば尊敬の眼差しで見上げてしまい、そんな自分に気付いてヒカルはぶんぶんと首を横に振る。
 ともかく、抱き合っているところを奈瀬に見られてしまったことは間違いない。何も言わなかったところを見るとあまりにショックが大きすぎて頭がついていかなかったのだろうか……
 となれば、冷静になった時が問題だ。
(なんてごまかそう……ちょっとしたスキンシップ……? いや、意味が分からねえ……。落ち込んでる塔矢を慰めてあげてたとか? だとしてもあんだけ絡まりあう必要性は全くないよな……大体コイツが落ち込むなんてありえねえし……)
 ヒカルは奈瀬、そして奈瀬から派生すると思われる和谷や伊角の反応を想像し、その恐怖に身震いした。
 そりゃあ、アキラのことは大好きだが、 友達に変な目で見られるのは辛いものだ。おまけに見られた現場があんなシーンとは、いくらなんでも刺激的すぎたのではないだろうか。
 しばらく青くなったり赤くなったり目まぐるしいヒカルの顔をじっと見ていたアキラは、やがて肩を竦めて立ち上がった。
「そろそろ行かないと。ボク、事務局から明日のスケジュールもらってくる予定だったんだ」
「お、お前、何かいい解決策とか考えないのかよ!」
「考えたって無駄だろう? 見られたものは仕方ないよ。気にするだけ損だ」
「損って……!」
 絶句するヒカルを尻目にアキラはさっさと部屋を出ようとする。
 その焦りの見えない背中に、ヒカルは力いっぱい怒鳴りつけた。
「この薄情もん!!」




 ***




 和谷宅にはいつものメンバーが揃っていた。
 この部屋の主である和谷、伊角、本田、越智。この後遅れて奈瀬と小宮も来る予定だが、普段らしからぬ緊張した面持ちで小さくなっていたヒカルは、できれば彼らがやってくる前に帰りたいと思っていた。
 特に奈瀬とは顔を合わせたくない。会った途端、嫌な顔をされたらどうしよう。みんなの前でアキラとべたべたしていたことをバラされたらどうしよう。いや、すでに喋ってしまっているかも……
 そんなことを思いながらお馴染みのメンバーの顔色を伺うが、疑ってかかると全員の様子が白々しく見えてきてしまう。
 本当はとっくに奈瀬から話を聞いていて、今も無理して自分の相手をしているのではないだろうか。
 心の中で「うげえ、ホモだ」なんて思ってるんではないだろうか。
 それとも、「ホモだったのか……」なんて哀れに思われているかもしれない。
 そんなふうに考えているせいか、みんなの目に軽蔑やら同情やらが含まれているような気がしてならない。
 おかげで研究会の中身がちっとも頭に入ってこない。そもそも今日は何の棋譜を題材にしているのかも理解していない。
 なんとも居心地が悪く、適当な理由をつけて帰ろうと思った時、和谷がふいにヒカルを見た。
 突然視線を向けられて、胸がぎくっと嫌な音を立てる。
「そういや進藤、お前塔矢門下の新年会、結局どうするんだ?」
 和谷の口から「塔矢」の二文字が発せられた途端、ヒカルの胸はさらにぎくぎくと軋んだ。
(なんで今その話を!? ――やっぱり、奈瀬から話を聞いて……探り入れてきたのか!?)
「何、進藤、塔矢門下の新年会行くの?」
 和谷の言葉に伊角がのってくる。やめてくれ、とヒカルが心の中で訴えるが当然彼らに届くはずもなく。
「緒方先生に誘われてたって言ってたよな。塔矢の許可が出ないってぼやいてたろ?」
「へえ、塔矢の許可待ちなんだ。で、許可は出たのか?」
 和谷と伊角の二人の視線を受け、ヒカルはぎこちなく首を横に振る。
 ――この二人はどういうつもりなんだろう!?
 やっぱり二人とも知ってるんだろうか? それとも知らずに聞いているだけだろうか?
(俺は試されてるのか!? 俺がどう出るか、二人とも本当は興味津々なんじゃあ……)
「なんだ、やっぱり許可出なかったのか。ま、そうかもな」
 和谷のしれっとした言葉に、「進藤、酒癖悪いもんね」と越智が呟いた。ヒカルはどう反応すべきか分からず、曖昧に引き攣った笑みを浮かべる。
「そんじゃいつもみたいに俺らと新年会やっか! 前に本田さんの昇段祝いやったあの店でどうだ?」
「いいんじゃないか。今、奈瀬と小宮が来たら二人にも声かけよう。本田も越智もいいだろ?」
 伊角の確認に本田と越智も頷く。
 あれよあれよという間に新年会が設定されたが、ヒカルはこの状況をどう判断すべきか分からずにぎこちなく笑うのみである。
 バレているのか? バレていないのか?
 気づけば背中にびっしょり嫌な汗を掻いていて、ぐったり疲れきったヒカルは、事の真相を確かめる勇気を出せずにそのまま帰宅を申し出た。






今回も何のひねりもありません〜
べたべたです……
そしてヒカルがかなり甘ったれです。