Lady xxx Pop !






 言ってから、美冬は驚いたように目を丸くしてしまった。
 一体自分は何を言い出したのだろう。別に碁の話なんか聞きたくないのに――碁なんて地味だし親父臭いし、大嫌いなのに。
 ヒカルはぱちぱちと何度か瞬きを見せて、微笑んで頷いた。
「ああ。強いよ」
「で……でも、ああいうのって実力勝負でしょ。負けたら終わりやないですか。春兄ぃは碁で生活する言うてるけど、そんなんで成功すんのってほんのちょっとの人やないかって思うんです」
 ぺらぺらと口をついて出てくる言葉が進むにつれ、美冬の顔はどんどん赤みを増していった。
 何てことを喋っているのだろう。主題は兄だったとしても、目の前にいるヒカルもまた兄と同じ囲碁の棋士なのだ。
 ヒカルは少したじろいだような表情になった。どうしよう、嫌われた――赤い顔を一瞬にして青く染めた美冬は、しかしその後に苦笑いを見せたヒカルの優しい眼差しに目を奪われる。
「まいったなあ。しっかりしてんなあ……ちゃんと考えてんだ、お兄さんのこと」
「そ、そんなんやないです」
「うーん、正直言うとホントその通りなんだけどさ。勝てばどんどん上がっていくし、負けたらどんどん取り残されるし。上ばっかじゃなくて、下からも強いヤツはガンガン攻めてくるしな。ずっと気が抜けない……常に努力しないと生き残れない」
 ヒカルは一度言葉を区切り、軽く瞼を下ろした。
 その小さな仕草がどきっとするほど大人っぽく見えて、美冬は思わず息を呑む。
「でも、そういう世界を選んだのは自分たちだから。勝ち上がっていくしかない……ダメだった時のことまで考えてる余裕なんかないんだ。そんな暇あったら、もっと強くなるために石でも並べてるほうがよっぽど大事だからさ」
 美冬がはっとする。
 ヒカルは軽く笑って、手に持ったままだったグラスに口をつけた。使われなかったストローが傾く。
「社はね、俺らに比べたら結構不利な環境にいるんだけど。でもそんなの感じさせないくらい第一線で頑張ってるよ。国際棋戦……他の国と戦った大会なんだけどさ、あれに三回出てる。日本の代表だよ。俺らと同じくらいの年齢のヤツラみんな集まって、その中でアイツはしっかり選ばれる実力持ってんだ。学校行きながら碁の勉強すんのって、相当キツイと思うんだけどさ。でも、それが辛いかって言ったらアイツはそうは思ってないと思う。夢だったと思うから……碁で認められんの……」
 美冬は何も口を挟めず、静かに話し続けるヒカルの声に聞き入っていた。
 毎晩兄が部屋にこもって碁盤に向かっているのを思い出す。母親から手伝いを頼まれたり、弟が絡んできたりすると、ぶつぶつ文句を言いながらも相手をする兄は、一度として「碁の勉強の邪魔をするな」と口にしたことはない。
「家族だから心配だよな。俺も親とかに散々心配かけたクチだからさ、人のこと言えねーんだけど。でもね、俺らは碁で生きてくってもう腹括ってるからさ。成功することしか見えてねーんだ。保障なんかないけど、絶対にのし上がってやるから。アイツもそのつもりのはずだ」
「あ……」
「だからさ、見守ってやって。大丈夫、アイツの強さはお墨付きだからさ……あ、ホラ、食いもん来たよ」
 ウェイトレスがレディースセットをテーブルの上に滑らせる。
 途切れた会話はそのまま流れてしまい、美冬はそれ以上ヒカルに兄と碁について追求することができなかった。
 本当は、もう何も聞くことなどなかったのかもしれない。
 ヒカルの目はそれまで優しく美冬たちを案内していたものから、話が進むにつれ違う色を帯び始めた。
 あれが勝負師の目と言うものなのだろうか。
 黒目の中央できらりと光る小さな眼光は、向かいにいる美冬たちを確かに通り越してもっともっと遠くの世界を睨んでいた。
 彼はそこらに溢れているような、やる気も目的もないただの若者とは違う。
 そして兄もまた、彼と肩を並べて同じ方向を目指している人間なのだと、今更のように教えられた気分だった。





 食事を済ませて、また何件か店を回って。
 楽しい時間はあっという間に過ぎて、そろそろ帰りの新幹線を気にする時になった。
 今日一日付き合わされてくたびれただろうヒカルは、疲れた顔も見せずに駅まで送ってくれた。
「帰り、気をつけてな。社によろしく」
「今日はほんまにありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げる二人に笑って、ヒカルは誰かを探しているようにきょろきょろと視線を走らせていた。
 何を探しているのだろうと美冬が不思議そうに見ていた時、ふいに花恵に脇腹をつつかれる。
「なんや」
 小声で尋ねると、花恵もまた声を潜めて耳元でぼそぼそと告げた。
「美冬、進藤さんの携帯番号聞かんでええの?」
 美冬の顔が一気に赤くなる。
「な、なに言うてんの!」
「もう会うチャンスあんまりないんちゃう? 今聞いといたほうがええと思うけどな〜」
 にやりと笑った花恵に美冬は何も言えなくなった。
 ぼうっとしているように見えて、実はお見通しだったとは。そんなこと言っても、とちらりと横目を向けた視界の先、ヒカルは二人のやりとりに気づかずまだきょろきょろとしている。
 ――あかんて。向こうはあたしのことただの子供や思うとるし。それに、碁打ちやし……
 最後の一言が思った以上に自分の中で説得力を失っているのに気づき、美冬はまた顔を赤らめる。兄に対してはあんなに不快に感じた碁が、今はあまり気にならないのは何故なのだろう。
 明るくて、優しくて、オシャレで。人懐っこい笑顔が親しみやすくて、一緒にいると楽しい。
 花恵の言う通り、この機会を逃したら次にいつ会えるか分からない。
 思いきって、聞いてみようか、携帯番号。メールでもいい。兄にかこつけて時々連絡をしても、ヒカルなら笑って許してくれるのではないか……
「あ、来た」
 ヒカルの呟きに美冬はびくりと顔を上げた。
 ヒカルはある一点を見つめて、おーいと手を振っている。釣られて同じ方向を見た美冬はうっと顔を引き攣らせる。一方隣の花恵はきゃっと嬉しそうな悲鳴を上げた。
 顎で切り揃えた特徴的な黒髪の男が、真直ぐこちらに向かって小走りにやってくる。その顔立ちは周りの人間がこぞって振り向くほど整っていて、脚はすらりと長く、ノータイではあるがかっちりとした白いシャツがよく似合ってフォーマルな印象を与えていた。
 美冬はこの男をよく覚えていた。東京に来てから何度か存在を思い浮かべた、塔矢アキラその人である。
 穏やかで優しそうな男だが、何となく苦手な雰囲気のアキラの登場に少し身構えた美冬は、アキラが傍まで来たことによってふわりとヒカルの表情が変わったことに目敏く気付いた。
(……あれ?)
 それはほんの些細な変化だった。普通なら見落としてまず間違いないくらい、しかし今の美冬には恋する少女の敏感なアンテナが装備されてしまっていた。
 アキラは少しだけ息を切らし、美冬ににこりと笑いかけてからヒカルに向き直る。
「ごめん、遅くなって。間に合って良かった」
「もー、来ないかと思ったぜ。なんだよ、手こずったの?」
「長考されてね。なかなか放してもらえなかった」
「まさか負けたとか言わないよな?」
「冗談。きっちり仕留めて来たよ」
 にこやかに話している二人を、美冬は呆然と眺めていた。
 ざわざわと嫌な気配が美冬を取り巻き始める。信じ難いことだが、アキラが現れて確かに場の空気が変わったのだ。うっとりアキラに見愡れている花恵は恐らく気付いていないだろう、この不思議な、美冬にとってはとても嫌な空気。
 なんだろうこの胸騒ぎは。頭の奥で危険を知らせるサイレンが鳴り響いているような、そんな感覚。
 ――この人たち……、……なんか……
 ドキドキと心臓が不穏な音を立てている。何だこれは。何故こんなにも悪い予感がするのだろう。
「この人がひょっとして塔矢さん? メチャメチャカッコええやん〜!」
 花恵がこそっと美冬に耳打ちした、その囁きが合図だった。
 ――あかん!
 美冬は花恵の腕をぐっと掴み、そのまま強張った顔で二人に勢い良く頭を下げた。
「今日はお世話になりました! さようならっ!」
「え?」
 美冬以外の三人が呆気に取られる中、美冬は花恵の腕を掴んだままヒカルとアキラに背を向けて、猛ダッシュで改札へと駆け出した。
「おーい、美冬ちゃーん」
 遠くでヒカルの声が聞こえる。しかし振り切った。何もかも。抱いたばかりの淡い憧れと恋心も、未練も残らないほどに振り切って、美冬はぎらりと前方を見据える。
 ――あかん、あの人たち。……あかん!
 何がいけないのか、はっきりと分かっている訳ではない。
 しかし直感が告げているのだ。理由などない、「彼らは危険だ」と。
 兄譲りの野性のカンに加え、産まれ持った性ならではの女のカンの精度は抜群だったようだ。




 改札で取り残されたヒカルとアキラは、ぽかんとして美冬たちが消えた方向を眺めていた。
「……時間、ギリギリだったのか?」
「いや……まだちょっと余裕あったと思ったけど……」
 ヒカルは時計を覗き込み、首を傾げた。アキラも不思議そうに眉を寄せている。
「お前、嫌われてんじゃね?」
「そうなんだろうか? 嫌われるようなことをした覚えはないが……」
「まあいいや、ちゃんと見送ったし。社にメールしとこ。お前、この後は?」
 携帯を取り出しながらヒカルがアキラに訪ねると、怪訝だったアキラの表情がにっこり柔らかくなる。
「特に予定はないよ。キミも?」
「ああ、俺一日休みだから。どっか碁会所でも行くか?」
「碁会所もいいけど、うちに来ないか? 来月は引っ越しだから、それまでに打ち納めもいいだろう?」
「ヤり納めの間違いじゃねえの?」
 にやりと笑いながら、少し声を落として囁いたヒカルに、アキラも弓なりに細めた目でふっと笑った。
「両方だよ」





 ***





 ヒカルから無事に新幹線に乗ったとのメールをもらって安堵はしたが、実際に心からほっとしたのは妹が帰宅した時だった。
 いつになくお洒落をして出かけていたらしい美冬は、小脇にいくつかの店で買物をした戦利品を抱え、何故だかどんよりとした表情で玄関で靴を脱いでいた。
 出迎えた社は妹の不穏な様子に首を傾げながらも、「おかえり」と声をかけてやる。長い間新幹線に揺られて疲れが出たのだろうか? 子供だから一晩寝たらすぐに元気になるだろう、そんなことを思いながら。
「おう、楽しかったか? 進藤とすぐ会えたん?」
 ぴく、と美冬の眉が揺れる。
 その険しい動きに社は思わずたじろいだ。
 アイツ、なんかマズイことでもしたんか? ――社がそう尋ねるより先に、美冬がぼそっと口を開く。
「……春兄ぃ……」
「ん? な、なんや?」
「……、……進藤さんと、塔矢さんって……、……」
 美冬はそこで押し黙る。
 社はごくりと唾を呑み込んだ。
 静かな玄関、靴を脱いだばかりで大荷物を抱えた妹と、すっかり自宅でくつろいでいたスウェット姿でぼさぼさ頭の社は、なんとも言えない緊張感を伴って無言の対峙を続けた。
 数分も経っただろうか、薄ら青ざめた美冬はふいと兄から顔を逸らし、
「……なんでもない」
 と疲れた口調で呟いて、社の脇を擦り抜けて階段を上がっていった。
 社は項垂れる妹の後ろ姿を振り返りながら、背中にびっしょりと嫌な汗を掻いていた。
 ――進藤さんと、塔矢さんって……、の後に何が来るんや……!?
 まさかアイツら、いやいくらなんでもそんなはず、と頭を抱える社にはまた新たな悩みのタネがひとつ芽吹いてしまった。
 大阪の地で兄妹が複雑な心境に陥っていることなど知る由もないヒカルとアキラは、静かな塔矢邸の畳の上に転がって朝まで睦み合っていた。






30万HIT感謝祭リクエスト内容(原文のまま):
「『(アキ)ヒカ+社兄妹』
以前拝見した社話では、アキラが絡んでいたので、
今度はヒカル(アキラは居ても居なくても可で/酷)と
社家族が見てみたい!というか美冬ちゃんとヒカルが見たいです。」

……というわけでヒカル+美冬でした。
中学生の女の子にトラウマを作っただけの話に……
囲碁嫌いに拍車がかかりそうな予感。すまん社……
リクエスト有難うございました!
(BGM:Lady xxx Pop !/山下久美子)