Monotone Boy






 社清春は、進藤ヒカルの異変に気づいた。
 正確には、気づいていたものが確信に変わった、と言うべきか。
 最初に異変に気がついたのは、北斗杯の予選決勝戦である。
 進藤対越智の一戦、社が和谷に苦戦している間に、「えっ?」と思わず首を傾げたくなるような速さで終局していた。
 その後、別室で棋譜を並べてもらって更に驚いた。まるで不良少年が喧嘩の弱いガリ勉少年を容赦なくぼこぼこにのしたような、そんな感じの荒っぽい碁だった。
 進藤らしくない。第一感想がそれだった。
 普段はちゃらんぽらんな男に見えるが、意外にヒカルの碁は繊細である。スロースターター気味ではあるものの、うまく計算された打ち筋は後半俄然活きる。それが出だしから丸腰相手に鉄パイプを持ち出したような無茶苦茶な攻め方である。
 第二の感想が、アイツ女にでもフラれたんかな、だった。
 やさぐれオヤジの自棄酒のような碁にも見えたのだ。
 妻や子供に見捨てられ、自分の居場所を求めて彷徨っても帰りたい場所が見つからない。そんな境遇だったら自分もこんな碁を打つかも、なんて思ったりした。
 どちらにせよ、なんかあったんだなあ、社にとっては当初その程度だった。いくら碁が荒れているにしても、越智に圧勝して出場メンバーに選ばれたのは事実なのだし、北斗杯までまだ日があるからそれまでに落ち着くかもしれない。
 そんな軽い気持ちで、ヒカルに電話をした。
 用件は、去年同様北斗杯前の合宿の提案である。
 ところがこの電話で、社清春は進藤ヒカルの異変を確信するのである。




「しない?」
 社は思わず聞き返していた。
 先ほどから妙に電波の悪いどちらかの携帯電話のせいで聞き間違えたのかと思ったのだが、次に返ってくる言葉も社の期待空しく、
「しない」だった。
「しないって……なんでや」
 北斗杯まで残り二週間。去年同様に個々の強化を図るべく、合宿は行われて当然というか、行われないはずがないものだと社は思っていた。
 去年と団長もメンバーも一緒。気を使う必要はない。早碁も徹夜も何でも来いと構えていた。
 それが一向にヒカルもしくはアキラからの連絡は入らず、団長である倉田もいまいち信用できないため、痺れを切らした社が自らヒカルに合宿日程についての電話をかけたのだが。
 ヒカルの返事は「今年はしない」、だった。
 去年を思い起こすと詰め込み合宿な感はあったとはいえ、三人にとって有意義な時間であったことは間違いないはずだ。やらないよりは、やるほうが絶対いい。社は食い下がった。
「なんでやらんのや。都合でも悪いんか」
『……今年は何かと忙しいんだよ。時間がとれなさそうだからって……それで……』
 ヒカルの歯切れの悪い口調に、社は「ウソだな」と直感する。
 予定などあらかじめ棋院に伝えておけばいくらでも調整がきくし、北斗杯は規模も認知度もそれなりの大会である。何より優先されてしかるべきだ。
 何よりも、ヒカルのこのわざとらしい声! 明らかに「今、適当な理由を思いつきました」といった感じだ。社はどうしたものかとしばし考え、攻め方を変えてみることにした。
「時間がとれなさそうってのは、お前か、それとも塔矢か」
『……両方だよ』
「塔矢がそう言っとったんか」
『……そうだよ』
「……分かった、ほな塔矢に直接聞いてみるわ」
 そんじゃ、と電話を切ろうとする社の口ぶりに、ヒカルが慌てて待てと食いついてくる。
 ――ほら見ろ! 社はしてやったりと鼻息を荒くした。
(分かりやすくひっかかりよって。俺の野性のカンをなめたらあかん!)
「なんや。塔矢とケンカでもしたんかいな」
『……』
「何があったか知らんが、割り切って合宿はやっといたほうがええんちゃうか? お前のその覇気のない声! ちっと気合足らんで」
『……やらねぇって』
 なかなか強情だ。社は顔を渋く顰め、どうしたものかと思案する。
 どうやらヒカルとアキラの間に何かあったという自分の仮説は当たっていたらしい。社に言わせればそれも「野性のカン」なのだが、現時点でヒカルとアキラの溝に気づいていたのは社だけだったため、野性のカンもあながち侮れないのかもしれない。
「やらんやらんて、それはお前の都合やろが! 俺はどないすんねん!」
『知るか! 一人で何とかしろよ!』
 ヒカルの投げやりな言い草に、ついに社の血管がぶちっと音を立てた。
「アホンダラ! こっちはもう新幹線のチケットとっとんのや、何がなんでも東京行ったるからな!!」




 と、威勢良く電話を切ったはいいものの。
 一人で東京に出てきてどうするんだ、と社も頭を抱える。
 結局悩んだ末に、北斗杯予選決勝で激しい攻防戦を繰り広げた相手、和谷に連絡をとることにした。
 和谷は快く東京に着いてからの社の世話役を買って出てくれて、おまけに宿まで提供してくれるとの嬉しい申し出を社にしてくれた。社はなんでも言ってみるもんだ、と和谷の人の好さに感謝する。
 そんなグダグダな状態でありながら、北斗杯の三日前、社清春は予定通り東京にやってきた。予定と違うのは、みっちり打とうと思っていた相手の中に進藤ヒカルと塔矢アキラが望めなさそうということである。
「おーい、社」
 東京駅まで向かえに出てきてくれた和谷にほっとしつつ、社は礼儀が肝心と頭を下げた。
「急に変なこと頼んですまんかった。三日間迷惑かけるけどよろしく」
「よせよ、そんな迷惑じゃねーよ。でも俺ん家まじで狭いぜ? そのへん勘弁してくれな」
 狭かろうが汚かろうが臭かろうが社は一向に構わなかった。まさか去年の塔矢邸のような屋敷なんて期待はさらさらしていない。
「俺ん家に何人かプロ棋士呼ぶからさ、そいつらと打とうぜ。行きたいとことかあったら案内してやるし」
 社は和谷の心遣いにひたすら手を合わせる。死んだ人間みてーじゃねーか、拝むなよと和谷に嫌がられても、社はもう一度きっちり和谷を拝んでおいた。
 すぐに和谷の家に向かおうか? という段階になり、社は少し考えてから口を開いた。
「せっかくやから日本棋院に顔出しとこかな」
「棋院か? そうだな。誰かいるかもしんねーし。いいぜ、行こう」
 和谷は快く棋院までの道則を先導してくれた。
 社には今回の東京行きを決めた時に、自らのレベルアップともうひとつの狙いがあった。
 それは、確信した進藤ヒカルの異変を探ることである。
 北斗杯目前でも異変が継続中と分かった今、できるだけヒカルを立ち直らせることができればとおせっかいにも思っていたのだ。
 何しろ北斗杯は団体戦。中韓で前回から多少のメンバー変更はあるものの、強豪揃いであることは間違いないわけで。
 おまけに韓国は今年も高永夏が出てくる。前回同様にヒカルが高永夏との一騎打ちを望むのなら、それなりのコンディションでなくては勝ち目がないはずだ。
 もしヒカルの異変の原因が塔矢アキラとのいざこざであるなら、それほど問題は大きくないかも、なんて社は楽観していた。社の中のイメージでは、アキラはヒカルよりも大人だと思っていたので、ちょっとアキラが折れてくれれば何が原因だか知らないケンカも丸く収まるだろうなんて考えていたのだ。
 ところが、事はそれほど単純ではないことを思い知らされた。
「……なんやこれ」
 和谷に連れられてやってきた日本棋院で、ここ最近のヒカルの棋譜を目にした社の感想がそれだった。
 なんとまあらしくない、痛々しい碁だろう。社は小さい頃の自分を思い出した。遊園地のミラーハウスに一人で入り、何度も壁にぶつかりながら見つからない出口を探して半べそで走り回った、そんな記憶が掘り起こされるような寂しい碁だった。
 ぱっと見は何がいつもと違うのか分からない程度なのがまた辛い。ヒカルをよく知らない人間が見たら、こういうものなのかとさして不思議には思わないだろう。
 だが社は違った。去年の北斗杯以降、ヒカルとアキラの棋譜は可能な限り入手して、社なりに研究を重ねていたのだ。僅かな変化にも目聡く気づく。
「アイツ、何を迷っとんのや」
 ぽつりと呟いた自分の言葉が言いえて妙である。
 迷っている。……そうだ、ヒカルは何かに迷っている。自分の打ち筋が信じられないのか、やたらと攻撃的になったり、変に引いてみたり。勝ち数こそ少なくはないにしろ、こんな碁では精神の消耗も激しいだろう。
 一方アキラの棋譜はというと、こちらはいつも通り「塔矢アキラらしい」碁を着実に打っていた。力強く、粘り強い。社の知っているアキラの碁となんら違いはない。少なくとも、棋譜から彼の異変は感じられなかった。
 ――あいつら、どんなケンカしたんや。
 社は首を傾げる。ヒカルとの電話で、二人の間に何かあったことはほぼ間違いないのだとは思うが、二人の反応に差がありすぎる。
 何かヒントはないかと、社は棋譜の日付をどんどん遡っていった。そうして今年の一月頃まで僅かな棋譜を掻き集めた時、明らかな違いを見つけて愕然とする。
 二人とも、今年の一月半ばまでの棋譜と今の棋譜ではかなりの開きがあったのだ。
 ヒカルの変化は分かりやすかった。緻密に計算された碁の落ち着きが一月半ばから影を潜めて、焦りや迷いや苛立ち、そんなものが前に出てくる今の碁に変わっている。
 ところがアキラにも変化があった。一月半ばまでの彼は、随分と冒険心に溢れるスケールの大きな碁を打っている。それがヒカルと同じくらいの時期から、急に着実な碁に集中するようになった。それが悪いことだとは思わないが、何もかも無難。そんな言葉でまとめられてしまうような碁は若干不満が残る。
 「元に戻った」――、社はそんな気がした。アキラの広がりかかっていた世界が、ヒカルの変化と共に元に戻ってしまった。
 そしてヒカルは自分を見失った。未だに見つけられていない。
(やっぱりなんかあったんやないか)
 仮説はまたも確信に変わる。
 二人の変化が同じ時期と分かれば、もう疑いようはない。
「おい社、まだ棋譜見てんのか?」
 棋譜を並べてうんうん唸っていた社の手元を、馴染みの棋士と話し込んでいた和谷が戻ってきて覗き込んだ。
 ヒカルとアキラの棋譜だと分かった和谷は、複雑な表情をする。
「本当は進藤とかと合宿したかったんだろ。アイツ、なんか最近おかしくてさ」
 和谷の言葉に社のアンテナが反応する。
「……やっぱアイツおかしいんか」
「社も見ただろ? 予選の越智とのアレ。ホントらしくないっていうか、ケンカふっかけるみたいな碁打ってさ」
 社は棋譜を片付けながら、和谷の話を注意深く聞いていた。
 和谷の話では、それまではそんな素振りはなかったのに、急にあの一戦で人が変わったような碁を打ったのだという。
 それは違うと、社は頭の中だけで否定していた。急にではない。随分前から兆しは現れている。それがはっきり目に見える形に映ったのがたまたまあの一局だったのだ。
 和谷は恐らくそこまで注意してヒカルの棋譜を追っていないのだろう。手に入る全ての棋譜にくまなく目を通せば、違いは如実に表れる。現に和谷は、今のヒカルは落ち着いていると思っている。
「あの時みたいな無茶苦茶な碁は打ってないから、ちょっとか落ち着いたのかと思うんだけどさ。普段は全然変わりなくって馬鹿話とかしてるし。たまに暗い顔してる時もあるけどさ」
 ――落ち着いてなんかない。メチャクチャ迷っとるやんけ。
 社の頭に浮かぶ一番新しいヒカルの棋譜もまた、彼が見失ったものを探せずにいることを示していた。
 思った以上に状況はよくないようだ――社は舌打ちする。
 誰も気づいていないのだ。誰の助けも入らないのだ。
 このままヒカルが自分を見失い続けたら、それは彼の棋士生命にさえ関わる問題かもしれない。
 せめてヒカルかアキラか、どちらかと話ができたら。おせっかいだとは思いながらも、何とかできるものなら何とかしてやりたいという気持ちが強くなる。
 進藤ヒカルと塔矢アキラは、社にとっての身近な目標でありライバルであった。今はまだ二人に及ばないという評価をひっくり返さねば、自分はいつまでたっても一流棋士にはなれない、そんな気がしていた。
 それがこんな形で良きライバルが低迷してしまっては意味がない。全力の彼らと戦って勝たねば無意味なのだ。勝手に落ち込んでもらっては困る。
 社は和谷に再び質問した。
「なあ、進藤と塔矢ってなんかケンカでもしたんか?」
「進藤と塔矢? ……さあ?」
 和谷の答えは意外なほど呆気ない。
 社は思わず聞き返す。
「なんかケンカしたんやろ? あいつら最近よそよそしいとかなんかないんか?」
「よそよそしいも何も、別にあいつらが一緒にいるとこなんて滅多に見ないしなあ」
「見ない?」
 社にとって予想外の答えが返ってきて、頭はますます混乱した。
「見ないって、あいつら仲良えんやろ?」
「進藤と塔矢が? 聞いたことねぇよ」
 目を丸くして驚く和谷の顔に偽りは見られない。
 あれえ、と社は首を傾げた。
 社がヒカルとアキラにセットで出会ったのは去年の合宿から北斗杯終了までの短い期間であるが、その中で社は違和感なく「こいつらは仲良しだ」と思い込んでいた。
 どの辺りからそう思ったのかと聞かれたら言葉に詰まるが、彼らの雰囲気はただの棋士仲間といったものとはちょっと違う感じがしていたのだ。
 もっと深い部分で親しくつきあっているような、二人だけの暗黙の空気があった。
 特にそれを疑問に思わなかった社は、こいつらは長年の親友なのだろうと思い込んでいたのだ。だからこそ、ヒカルとの電話でアキラの話題を持ち出したのである。
 それが、和谷はヒカルとアキラの仲良し説を「聞いたことがない」と言ったのである。社は眉間に皺を寄せて腕組みし、首をかくかく傾けた。
 そして、ふと和谷の言葉にある違和感に気がついた。
「和谷、あいつら一緒にいるとこ滅多に見ないって言うたな。……あいつらが一緒にいるとこ、お前見たことないんか?」
 あまりに熱心に二人のことを聞く社に、和谷も不審な顔をし始める。
「そりゃ、対局の時とかならあるけどさ。少なくともプライベートで一緒にってのはないと思うぜ。まあ、塔矢も予選の時のあの一局は気にしてたみたいだけどな。ライバルの様子を気にするのは珍しいことじゃないだろ」
 社は眉根を寄せ切って困り果てた。
 プライベートで何かなければ、二人があんなふうになるはずがないのだ。
 自分のカンは外れたのだろうか? ――いや、そんなはずはない。二人の間に何かがあって、それから二人の碁が変わった。ここまでは間違っていないはずだ。
 では、次に自分が推理すべき部分はどこだろう? 今後の彼らをどうすべきか、それまでの彼らはどうだったのか?
 悩んでいた社に、勝手に道しるべが歩いてきてくれた。
「お、社じゃん」
 聞き覚えのある声に和谷と共に振り返ると、北斗杯日本代表の団長である倉田敦がそこにいた。
 相変わらずどっしりした体つきに無造作な髪。およそ棋士らしくないが、この男も碁盤を前にすると化けるタイプである。それは去年の合宿で社も嫌というほど思い知らされた。
 ご無沙汰しています、と社は囲碁界の先輩に頭を下げた。隣の和谷も慌てて頭を下げる。
「こっち出てきてたのか? 今年合宿やらないのに?」
 微かに笑顔の倉田の表情は読めず、この男相手では社のカンもうまく働かない。
 渡りに船だ。社は僅かなチャンスにしがみ付くことした。
「倉田さん……、あの、ちょっと聞きたいことあるんですけど」
 そう言って和谷をちらりと見ると、和谷も社の秘密めいた雰囲気を察したらしく、彼なりの気遣いで一歩引いてくれた。少し棋譜を見ていくから話が終わったら電話くれよな。和谷の言葉に頷いて、社は倉田に向き直る。
 倉田だけが、「うん?」と読めない目で首を傾げ、社の勢いそのまま棋院の廊下を引き摺られていった。






初の社視点です。
何より謝罪したいのは関西弁がでたらめということ……!
きっとなんか変な言葉になってるんだと思うんです。
明らかに変なところあったら教えてください……
すいませんすいません。